単元単位制の意義―教育の危機とは何か?
- 2012年 4月 17日
- 評論・紹介・意見
- やすい・ゆたか単元単位制新自由主義
宇井宙さんの見方では、新自由主義的な教育改革によって、それまで問題のなかった学校教育が混乱させられ、学力低下が深刻になったので、そういう間違った教育改革を止めれば、教育が正常化されて問題がなくなるということのようである。 世間で問題になっている学力低下というのはここ十年程の問題であったので、その間進められてきた、ゆとり教育やその後の矢継ぎ早の教育改革が労働過重を教師にもたらし、遅れた生徒のフォローができなくなったということがあげられる。 それから学校選択制や習熟度学級編成などの格差拡大によって、格差をつけられた生徒が家庭環境の劣悪化もあり、余計に学力低下を招いたとされる。
確かに、ゆとり教育とその撤回、その他の新自由主義的教育改革が、最近の学力低下を招いた要素であり、そして格差拡大を招くような格差付教育がそれを加速させたという宇井さんの分析には個々には異論があるにしても、多くの点で同感である。 しかしそういう改革がなかったら、教育が正常であったかというとその点では疑問がある。
学力低下の統計についてこの十年間の問題だとされているが、戦後65年間の国際学力比較の変遷などを示してもらわないと困る。というのは私の記憶では、70年代から校内暴力が頻発し始めたと言われている。そして80年代にピークに達したのでなかったか。それは詰め込み教育、受験教育の弊害と言われ、その見直しから「ゆとり教育」というものも現れた。
元々、スプートニクショックがあって、ソ連などに比べて科学教育の立ち遅れが指摘され、それが詰め込み教育や受験競争を加速することになったらしい。だから元々、「ゆとり教育」以前に正常な教育が行われていたのではなく、学校は矛盾の塊だったのではないか。学校が荒れ始めると、学校では勉強できないから塾や予備校に通い始めていた。
私は大学では極めて薄給の万年非常勤講師なので、収入の大部分は塾や予備校から得てきた。まさに学校が正常に機能していなかったので、塾や予備校が成り立っていたのである。 学校選択制や学区の拡大などは、自分の子弟を荒れた学校に行かせたくない、少しでも上を目指せる勉強のできる学校へということで、父兄の圧力もあり、学級崩壊や校内暴力という背景の中で加速されたわけである。その結果さらに格差の拡大と教育の荒廃を拡大することになったのだが。だからその根源の問題に対する対策を考えないと、新自由主義的教育改革をやめればよいというだけでは、説得力がない。
単元単位制を導入した場合の弊害を指摘されておられるが、その場合に義務教育・必修制の下での導入と、義務教育・必修制を失くした場合を取り上げられどちらも弊害が大きいとされている。 単元単位制の場合、達成したら次に進むというのが趣旨だから、不得手な単元にぶつかったら、なかなか前に進めなくなってしまうというイメージで捉えておられる。これは大変な誤解である。
鉄棒で逆上がりができないと、ずっと小学生のままかということだが、逆上がりはできなくても、水泳や縄跳びはできるし、野球やテニスもできるわけで、それらをするのにはなんの支障もない。 ただ単元として鉄棒の逆上がりというのはマスターできなかったことが残る。そこでマンツーマンで指導してできるようにしてあげればいい。それでもたとえば、体重のせいでできないとか、なんらかの事情で無理な場合は、未収得単元として残るので、一年後に再挑戦させるとか粘り強く指導すればいいわけである。
『発声練習』のブロク主のように大人になってもできなくて、生活に支障がなければ、別に無理にとらなくてもいいが、コンプレックス克服のためにも大人になってから再挑戦でもいいわけである。その意味でも単元単位制というのは、学ぶ側にとって大変ありがたいシステムである。 小学校という制度の下で卒業できなくなるというが、全単元マスターできなくても卒業を認めてもいいだろう。どうしてそんなことにこだわるのか分からない。
ただ順序を追わなければいけない科目の場合、マスター出来ていないのに次に進んでしまうと、支障になる場合は、しっかりマスターさせてから次に進めればいいので、他人の二倍、三倍かかってもそれが個性なので、ゆっくり進めればいいわけである。 早く進む生徒はどうするかだが、それは得手の科目だし、そこに特別の才能があって、その才能を引き出すことは重要な意義がある場合もある。ただし、その為の特別の指導体制はなかなか取りにくいだろうから、自修で進められるようにすることである。
WEB時代になっているので、全ての単元の授業は教材として録画され、インターネットで配信できる。だから教師は授業をWEBで公開するようにすれば、自修でもヴィジュアルで勉強できるわけである。しかも全国の教師の授業を受けられるのだ。
もちろん落とした単元の授業もWEBも使ってもいいわけである。ただ不得手だからできなかっただろうから、マンツーマンの指導も必要だし、生徒間での教え合いができるシステムも必要だろう。
確かに単元単位制にすると年齢差のある生徒が一緒に勉強することにもなる。それはコンプレックスになるだろうというが、同年齢クラスしかない現状の学校制度の下では、コンプレックスは大きいだろうが、単元単位制ではそういう前提はないのだから、得手だから年下でも同じ授業を受けているのだな、不得手だから年上でも同じ授業を受けているのだなということである。それは当然のことだから、それでコンプレックスを持つなら、発奮すればいいのである。
そういうことを論うなら、同じ年齢だからと言って、分かり切っていることを何度でも習わされて勉学意欲を失くしたり、逆に年齢に達しているからと言って、未発達の子供に無理な教材を学ばせて躓かせてやる気をなくさせる同年齢教育こそ問題であり、資本主義の大量生産方式の学校版である。
単元単位制は個人の学習プランを中心におくので、徹底すれば、小中高大の区別も学校格差も不必要で、入学試験も卒業制度も要らないものである。 それに対して勉強は必修科目を履修しないと卒業できないからするので、卒業がなくなったら勉強しなくなると宇井さんは批判されている。 それも現状の学校制度やそれに基づく学歴社会を前提にするからそう思うだけである。単元単位制でしっかり教育内容をマスターしていれば、それが社会に評価されて、職責を与えられるのである。もちろん単元をマスターしたという証明書があっても、忘れてしまっているかもしれないから、あらためて試験されるかもしれない。それは学校卒業資格があっても就職試験があるのと同じである。
もちろん単元単位制を導入したからといって、たくさんの単元をマスターすることだけに価値を置くのではない。ゼミナールや研究会や趣味のサークルや各種ボランティア活動なども重要な意義がある。単元をマスターすることだけを教育と考えているわけではない。 ゼミナールや研究会に参加を認める条件は、ゼミ担当教員や研究会が定めることであるが、その際に、これこれの単元を修得していることが必要だということになるだろう。ゼミナールや研究会こそ単位を履修して辞めてしまうのではなく、そこに一生でも帰属し、つながりを持ち続けてもいいのではないだろうか。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
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