旧ユーゴスラヴィア戦争をめぐる、「ハーグ戦犯1号の日記」(16)
- 2012年 4月 25日
- スタディルーム
- 岩田昌征
41、強い痛み
それから十日間、緑色の警察車が私をシタデルハイム監獄からミュンヘンのゲーテ・インスティテュートへ運んだ。朝早く出て午後遅く帰った。ゲーテ・インスティテュートの中庭で手錠のほかに足錠もかけられた。一歩10センチずつしか歩けなかった。エレベーターがあるにもかかわらず、階段を徒歩で行かねばならなかった。また、数キロある防弾チョッキをも着せられていた。ゲーテ・インスティテュートの4階から降りるのはもっと大変だった。階段の一段一段で足錠が肉にくい込み、激痛が走った。ドイツ最高の精神鑑定専門家のネドピル教授があらわれた。(p.109)
鑑定の結果、私が健康でノーマルな人間であると判った。ドイツの検事は期待した結果を得られなかったが、私もそれから利得を得られなかった。後になって、ハーグ国際法廷で私が精神的にノーマルであると言う事実は私にとってつらい事情となる。11月中旬ドイツ連邦検察は私を起訴した。ナチスに対するニュールンベルグ裁判以来私はヨーロッパで、戦争犯罪で訴えられた第一番目の人間となった。裁判に市民的服装で出廷する権利があったとは言え、それは許されず、囚人服のままであった。弁護士ウフェルとは数ヶ月会ったことがなかった。彼もここにいる。彼は自分がメディアに露出するチャンスをのがしたくなかった。一般傍聴人なし。審理は短かった。しかし、法廷は満員だった。数十人のドイツ人ジャーナリストが「コザラツのアイヒマン」を見に、聞きに、写真をとろうとやって来た。これほどの大犯罪者がここにいることに熱狂をかくさなかった。私が法廷から連れ出される時、第7権力の代表者達の中には非道な侮辱を与えた者もいた。(p.110)
42、目隠しされて
新設の旧ユーゴスラヴィア国際刑事法廷が私に関心を示し始めると、ドイツ検察は私のハーグ送付を阻止しようと努力した。ドイツ人達は何が何でもドイツの裁判所で私をジェノサイドの罪で裁くことを望んでいた。しかし、私は彼等の粗野さを肌で知っていた。ハーグ法廷はもっと客観的かも知れず、(p.111)私の無実を証明するより多くのチャンスがあると考えた。
1995年1月、オランダの弁護士ミハイル・ヴラディミロフと話し合った。十月革命の時ロシアを逃げた白系ロシア人の子孫だ。シタデルハイム監獄に私を訪ねて、私のおかれている状況を世に知らせてくれて、私に好印象をいだかせた。1995年3月1日、ハーグ法廷が私を起訴したと言う知らせを受け取った。国際人道法違反の罪であった。私はヴラディミロフを弁護士として提案し、法廷はそれを受け容れた。ドイツ司法は抵抗したが、ハーグ国際法廷の圧力に屈した。1995年4月10日、ドイツは国際法廷との協力法を採択した。「タディチはドイツ連邦検察によって起訴されていたとは言え、ハーグ法廷に引渡される。彼のケースは歴史的に特異であるが故である。」しかし、ドイツ検察は協力協定を一方的に無視して、何回か私をミュンヘンの裁判所へ連れて行った。
43、不透明な眼鏡
1995年4月24日、ハーグへ向けてドイツのヘリコプターで飛んだ。手錠のまま、足は座席の金属部分にしばりつけられた。国境近くに着地して、オランダ警察に引渡された。不透明な眼鏡をかけさせられ、(p.113)くもりガラスの車で数時間かけてシェヴェニンゲン刑務所についた。収容された建物は最新の設備が設けられ、すべてがテレビカメラの監視下にあった。(p.114)
44、檻
建物の中に私達が「ケイジ」と呼ぶ幅3m奥行き5mの空間があり、四方が鋼線の壁で囲まれている。野獣の檻に似ている。壁にはバスケット付きの板がはられ、常にバスケットボールが一つずつ置いてあった。また大きな明るい空間が囚人達の社交用であった。その一角が台所。それはシェヴェニンゲンにおける快い休息の一隅であった。
到着すると、医務室でファルケ医師が通例の診察をした。体重76キロ、逮捕の日からシェヴェニンゲン来着までに20キロ減っていた。囚人服、つまり青いジーパン、黄色下着、青黄の短いマントを受けとった。私物、つまり法文書、私文書、二冊の辞書、聖書、ボールペン、……等を持ち去り、受領書を渡された。看守達は私に手錠をかけ、エレベーターで2階の第111号房へ連れて行った。房では手錠をはずされた。疲労困憊しており、丸太の如く眠った。(p.115)
45、証人へのアクセス困難
人は私をハーグ法廷の「モルモット」だと言う。その通りだ。シェヴェニンゲン国連拘置施設には非常に長い間囚人は私一人だけだった。拘置所の管理官スウェーデン人アンデルセンに私物を房内に持ち込めるように頼んだ。(p.116)セルビアからのニュースが聞きたかったので、トランジスターラジオは是非必要だ。ハーグ法廷書記からの回答は次の如し。「安全上、8個バッテリーのトランジスターは房内で使用不可。そなえ付けラジオの使用可。テレビ受像機借用可。安全上、私物の櫛は不可。安全基準にかなう歯ブラシと櫛を管理官に要求可。私物のネスコーヒーを返却、但し、小さなプラスチック・ケース入りに限る。ガラス容器は不可。あめ玉やビタミン剤の包装の質が確認出来ず、故に返却不可。ひげそり用ローションはガラス容器からプラスチック容器へ移し替える条件で返却可。」
妻と弟(or兄)リゥバに週一回電話可、10分以内。月に一回母スタカに電話可。平日は弁護士のミハイル・ヴラディミロフとミラン・ヴゥインへ電話可。但し通話は録音される。
セルビア人ジャーナリスト等の最初の頃のインタビューで弁護士ヴラディミロフが法廷との関係を闘争と呼んでいる事を知った。(p.117)
(45の標題は次の46と47に関係している。45の本文とは無関係。岩田)
46、犬と猫の間で
(ここは弁護士チームがセルビア人共和国の西部に現地調査に入った時に現地でジャーナリストのインタビューを受けた時の記録である。ジャーナリストが現地人か西欧人か、メディアが現地のメディアか西欧のメディアかも記されていない。弁護士ヴラディミロフの発言であって、ドゥシコ・タディチのそれは全くない。それ故大部分を省略し、最後の部分、弁護士がハーグ法廷のシステム的欠陥を突く所のみを紹介する。岩田。)
「弁護をどのような仕方で実行するのか」
「専門家の支援を我々によこすように法廷に六、七ヶ月要求して来た。そのほかにも問題がある。法廷規則は検察有利でかなりの程度弁護不利だ。(p.119)検察は資金が豊富で弁護側よりも多くのスポンサーがいる。裁判というものは、するべきことをするノーマルな機関がある場合にのみ可能なのだ。ハーグ法廷は国家ではない。だから当地にどんな機関も持っていない。セルビア人共和国は法廷を承認していないし、我々を助力することは出来ない。我々は中途半端な位置にいる。我々の証人は全員セルビア人共和国に住んでおり、告発側の証人は全て旧ユーゴスラヴィアの外に住む。検察ははるかに容易に証人達にアクセス出来る。法廷は当地ではいかなる権力をも有しておらず、決定を実行できない。我々はすべてを自分達だけでやらねばならず、それは例外的に困難なことである。ドゥシコ・タディチに公正な裁判を保証する努力をしているが、すべてがそれに不利だ。我々は彼地においても当地においても権力と大問題をかかえている。オランダでは犬も猫もかみつくものだと言うことわざがある。」(p.120)
47、特別な警護
そうこうするうちに、ハーグ国際法廷主ホールで開かれた審理に何回か出た。拘置所の一階でまっぱだがにされ、私服にかえさせた。シャツの上から50キロもある防弾チョッキを着せられた。両手を身体の前にして手錠をかけられた。(p.121)裁判所までは毎回暗色大眼鏡。不測事態を避ける為、車は5つの異なる方向を選んで走った。
被告席は特製の厚い防弾ガラスでかこまれていた。何十人の映像ジャーナリストが世界各地から来ていて、何分かの撮影を許されていた。「セルビア人アイヒマン」の姿をとりまくり、世界に発信するのだ。耐え難かった。飢えたハイエナにくわれている死肉の気分だった。法廷女書記にこんな虐待をやめるように訴えた。「主任裁判官アントニオ・カセゼが許可したことだ。変更は不可。」ハーグ検察は全力で働いていた。次から次へと新証人の証言が出て来て、どんどん重い罪状が付け加えられて行った。1995年末までに私の起訴状は二倍にふくれた。私は誰が何故に私を告発するのかを注意深く分析した。80%がドイツに逃げたムスリム人であった。全員が私に不利に嘘を突く強い理由があった。タディチに不利な証言をすると、ドイツ永住許可が得られると約束されていた。(p.122)証人本人にだけでなく、家族に対しても。また証人達の大部分は検察が私の所為にした犠牲者達と遠近の親族関係にあった。私は苦境に陥った。第一に、検察はそれら証人達の信頼性を全く問題にすることはなかったから。第二に私はオマルスカやケラテルムで何が起こっていたのか全く知らなかったからだ。
事実に基づいて、私のアリバイを証言できるのは、セルビア人共和国やセルビアからの証人達であった。しかし、両国の政府は耳をふさいだ。助けるのではなく、邪魔をした。私の弁護士が、証言しうる証人達にアクセスするのを様々に邪魔した。多くの人々はタディチ裁判が多くのセルビア人に対する新しい追及と起訴に到る出発点にすぎない事が分っていなかった。車(ハーグ法廷という車。岩田)はタディチにぶつかって轢き殺したが、車もこわれて先に進めないだろう、と読んでいた。読みそこないだった。(p.123)
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔study484:120425〕
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