ミャンマー民主化に向かって苦渋の選択 -アウン・サン・スー・チー議員らが初登院-
- 2012年 5月 8日
- 評論・紹介・意見
- ミャンマー伊藤力司
ミャンマーの民主化運動のリーダーで、先の補欠選挙で下院議員に初当選したアウン・サン・スー・チー氏は5月2日、自らが率いる国民民主連盟(NLD)の当選者37人とともに下院に初登院、正式に議員に就任した。これより先4月23日の議会開会に当たり、スー・チー氏は議員就任宣誓の「憲法を守り」という言葉を「憲法を尊重し」に改めるよう要求したが容れられず、この日は同僚とともに登院を拒否した。しかしその9日後には「憲法を守り」の宣誓をするという、苦渋の選択をせざるを得なかった。
軍事政権時代に制定されたミャンマー憲法は、国会議員定数の4分の1を選挙なしで軍人に割り当てるなど、民意より国軍の発言権を優先している。このためスー・チー氏は憲法の改正を主張し、4月1日投票の補欠選挙でもNLDは改憲をスローガンに掲げて闘った。その結果は、補選の対象となった上院6議席(定数224)、下院37議席(同440)、地方議会2議席の計45議席中43議席をNLDが獲得するという圧勝だった。だからこそ
現「憲法を守り」という宣誓の言葉をそのまま呑むわけにはいかなかった。
スー・チー氏は「憲法を守り(safeguard)」でなく「憲法を尊重し(respect)」とする妥協案を提示したが、テイン・セイン大統領が率いる政府はこれを拒否した。テイン・セイン大統領と言えば、昨年3月30日ミャンマーが軍政から民政に移管して以来のトップ指導者だ。元々は長年にわたって権力を独占してきた「国家平和発展評議会(SPDC)」という(名は体を表さない)軍事政権のナンバー4だった陸軍大将である。ところがこのテイン・セイン大統領、軍服を背広に着替えた途端に軍政が通算15年間も自由を奪ったスー・チー氏との対話で、自分はミャンマー民主化に尽くすと売り込んだという。現地から伝えられるところでは、スー・チー氏もテイン・セイン氏と「意気投合」したとか。
「意気投合」説にもかかわらず、ミャンマー政府は議員就任宣誓の文言変更の妥協案を拒否した。そこでスー・チー氏さらに妥協した。「私たちの支持者や投票してくれた人々は、NLDの議会活動に期待し民主主義を実現して欲しいと願っている以上、私たちは議会に参加し議会で憲法を改める努力を続けることにした」というのである。補欠選挙で圧勝したとはいえ、NLDの国会議員の数は定員の10%にも満たない。圧倒的多数は、国軍の翼賛政党である連邦団結発展党(USDP)と任命議員の軍人が握っているという現実がある。
民政移管のための総選挙は2010年11月に行われた。NLDはこの当時の選挙法で事実上非合法政党とされ、選挙をボイコットせざるを得なかった。テイン・セイン政権発足後に改正された選挙法でNLDは政党登録できるようになり、今回の補欠選挙に参加できたし、今後の総選挙にも参加できる道が開けた。確かに2011年3月31日に、軍事政権最後の首相だったテイン・セイン将軍が間接選挙で大統領に選ばれて民政移管が実現して以来、ミャンマーの「民主化」と「開放」は急速に進んだ。
少数民族に対する残酷な人権侵害や、NLDが大勝した1990年の総選挙結果を無視して独裁を続けてきたミャンマー軍政に対する欧米の制裁措置は、2011年3月以降テイン・セイン流の民主化措置を受けて段階的に解除されつつある。最も厳しい制裁を加えていたアメリカのクリントン国務長官が昨年末にミャンマーを公式訪問、長官とスー・チー氏の2ショットの笑顔写真は「ミャンマー民主化」を世界に訴える効果があった。これをきっかけに欧州、米国、日本、韓国などの「開発処女地」ミャンマーへの投資競争が始まった。
とはいえこの国にはなお見過ごすことのできない問題がある。それはまず1962年軍事クーデターで権力を握ったネ・ウィン将軍の独裁に反抗して、1988年7月に学生と民衆が決起して26年ぶりに軍政を打倒したことだ。しかしこの国の軍部は、その2カ月後に新たなクーデターを起こして再び権力を握った。新たな軍政は、1990年の総選挙で民意にかなう政党に権力を移譲すると約束しながら、約束を破って総選挙で圧勝したNLDに政権を渡さなかった。それどころか当選したNLD議員を投獄し、議会すら開かせなかったのである。
こういう負のプロセスを経て権力を握ったのが、ネ・ウィンを継承した将軍たちである。その代表が1988年クーデター当時陸軍参謀長だったソー・マウン大将だが、1992年にはタン・シュエ上級大将がその地位に就いた。このタン・シュエ大将(79)こそ、以後19年間にわたってミャンマーに君臨し、独裁権力を振るった人物である。テイン・セイン氏も、軍事政権トップのタン・シュエ将軍の指名で民政移管後の初代大統領になれたのだ。
さて問題は、民主化にひた走るテイン・セイン大統領と昨年まで彼の上司だったタン・シュエ将軍の関係である。タン・シュエ将軍はテイン・セイン氏にすべてを任せミャンマーの改革がさらに進むことを是認しているのか。それともテイン・セイン氏とアウン・サン・スー・チー氏の“蜜月”をいつまでも放置できないと思って監視しているのか。表向きは完全引退したとされるタン・シュエ将軍だが、憲法に規定のない「軍評議会」なるものを秘かに組織して、テイン・セイン政権の政治決定に影響力を行使しているとの報道(2011年6月19日付東京新聞)もある。
さらにリチャード・ルーガー元米上院外交委員長(共和党)もこの「軍評議会」の存在を指摘している。それによると「軍評議会」はタン・シュエ将軍を筆頭にテイン・セイン大統領らごく少数の軍人で構成され、政務や政策について報告を受けたタン・シュエ将軍が大統領に指示を出すという仕掛けだという。その一方で、「院政を敷くに違いない」と言われたタン・シュエ将軍は予想を裏切って完全に引退、イラワジ・デルタの貧しい家庭に生まれ、学費無料の士官学校に学ぶしかなかったテイン・セイン氏は、今や大統領として「清廉」と「改革」の初心を貫いているのだと評価する、現地識者の観測も伝えられている。
非民主的な憲法の下で民主主義を貫こうとするアウン・サン・スー・チー氏には、曲がりくねった棘(いばら)の道が待ち構えている。15年もの軟禁生活に耐え抜いた精神力と愛国心こそ、彼女を真にノーベル平和賞にふさわしい受賞者にした。だからこそミャンマーの人々は、今回の補欠選挙でNLDを圧勝させた。しかしこの国に「新しいページを開く」という言葉を連発するテイン・セイン大統領は、2015年に予定される次の総選挙までにNLDとスー・チー氏に完全に自由な選挙活動を許し、民主的憲法への改正への道筋をつけさせられるだろうか。「イエス」と言いたいが、まだ言い切れないのがミャンマーの現状であろう。
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