旧ユーゴスラヴィア戦争をめぐる、「ハーグ戦犯1号の日記」(20)
- 2012年 5月 23日
- スタディルーム
- 岩田昌征
68.下がっていた目線
私が1992年6月18日にオマルスカ収容所にいなかったし、虐待に参加していなかったと言う証人「H」の言明はハーグ法廷の判決の中で次のように解釈された。
証人は事件の様々な実行者を目撃しており、また自身の行為を供述した。しかしながら、恐怖のあまり彼の目線は「おおかた下がって」いた。証人は三人の犠牲者とフィクレト・ハラムバシチへの攻撃にアクティヴにくわわった唯一の証人であるとは言え、彼の証言を被告がガレージの諸事件に参加していなかった事の証拠とは見なし得ない。一身上の安全と言う正当なる理由があって、ガレージ一階における自分の周囲を視認し、識別できた事を確定する機会を活用しなかったからである。
「一身上の安全と言う正当な理由があって」証人「H」があえて目線を上げず、誰が囚人達を苦しめ殺しているかを見ようとしなかった。これがハーグ法廷にとって本質的なことであった。しかし、そのこと以外のほかのすべてを見ていたのだ。それがわかることが私にとっておそろしく本質的なことだ。
検察は私がその時エミル・カラバシチを殺害したと告発する。彼は私の空手の最良の弟子だった。私達は友達で、お互いの家を行き来していた。私の父が亡くなった時、両手で父を家の外へおくり出してくれた人々の一人であった。(p.176)
69.判決前の死 70.最後のパーティ
(ヴコヴァル市長スラフコ・ドクマノヴィチがタディチと同じ階の独房に入って来て、自殺するまでの交流をえがく。省略。岩田)(pp.177-180)
71.空手 ヨガ そして 絵
(独房で絵をかきはじめるようになって、それが売れはじめたことなどを記す。省略。岩田)(pp.181-182)
72.セルビア人狩り
1998年7月12日、シェヴェニンゲン獄へ元プリェドル病院長Dr.ミラン・コヴァチェヴィチが入って来た。
ハーグ検察当局の命令で国連平和履行軍は一斉逮捕作戦「タンゴ」を1998年7月10日に実施した。シモ・ドルリャチャは抵抗して射殺され、ミラン・コヴァチェヴィチはつかまり、Dr.ミロミル・スタキチ、プリェドル・オプシティナ危機管理本部長(『戦争犯罪を裁く(上)』NHKブックス、p.94ではヴコヴァル市長とされている。岩田)は直前に電話で情報を知り、ベオグラードへ逃げた。数年後にそこで逮捕され、ハーグへ移送された。ジェノサイドの罪で40年の刑期をフランスの牢獄でつとめている。(p.184)
73.病院におけるドラマ
1998年7月10日、プリェドル病院長室を国際人道団体の関係者が数人訪ねて来た。一人は片手に国際赤十字の印のついた小包をもっていた。Dr.ミラン・コヴァチェヴィチが彼等と挨拶をかわし、小包を受けとろうとした時、一人が鋭く言い放った。「コヴァチェヴィチ、あなたは逮捕されました。」人道支援者達の一人がピストルを彼のこめかみに突きつけた。ドクターは白衣を着ていたので、それを脱ぎたかったが、許されずそのまま手錠をかけられた。
同郷人として話したいことがあり、いわゆる自由時間によく一緒にいた。(p.185)ハーグ法廷の検察は彼をプリェドル・オプシティナのムスリム人に対するジェノサイドで起訴した。かかる重罪で起訴された最初のセルビア人だった。監獄当局はコヴァチェヴィチを苦しめている健康問題をつかんでいたが、まずは裁判と言うことで、治療は後まわしにされた。(p.186)
8月のある日、病状が悪化した。同囚の者達が彼の房へ集って来た。クロアチアの将軍ブラシキチが人工呼吸をほどこした。コヴァチェヴィチは死んだ。数分後、医師が来て、死亡を確認した。(p.187)
74.セルビアへの帰還
20年の刑が宣告された。ドイツの監獄は御免だ。ハーグに来るまでに体験しており、悪印象が強い。他の国の牢にして欲しいと神に祈った。ドイツはドイツでの私の収監を要求した。理由として私の家族がミュンヘンに住んでいる事を挙げたが、それはウソだ。すでにセルビアに移り住んでいた。ミュンヘンから100キロのシトラウビング監獄に入れられた。(p.188)
検察はあらゆる手を使って、私がオマルスカ、ケラテルム、トルノポリェの三収容所で犯罪を犯したことを立証しようとしたが、出来なかった。検事側の鍵的証人がはっきりと否定したのだ。
コザラツの警察官2人、オスマン・ディドヴィチとエディン・ベシチを殺害したとされて、20年の刑期が言い渡された。その事件の証人は彼等がコザラツの正教会の中庭で殺されるのを近くの果樹園から見ていたと証言した。しかし、現場検証でそこからは教会の十字架と屋根だけは見えるが、中庭は見えないことが判明した。後に知ったことだが、この殺害事件は実際に起こっていた。但し、現場は教会から2キロ離れた所だった。ディドヴィチとベシチはコザラツの中心地、「製鉄所」売店の前で殺害された。私はその時バニャルカにいた。コザラツではモムチロ・ラドヴァノヴィチ、通称ツィガ(彼に関する証人のマニュピレート問題が64「法廷軽視(不敬)」でヴゥニン関して論じられている。p.166。岩田)が指揮するパラミリタリー部隊が活動していた。この事件について現在も一人で事実を立証しようと努力している。私は期待する。新事実が手に入り、ハーグ法廷が不当判決を訂正するだろうことを。(p.189)
75.二重格子
ドイツで最悪のシトラウビング監獄の371号室に2000年11月から2008年7月までいた。二重格子と運動用のスペースがあった。空手のような格闘技は禁止されていた。しかし守らなかった。ひそかに練習していた。(p.190)
毎日、画布に牢獄の絶望を描いた。またムスリム人囚人達に何回となく襲われもした。868人の囚人がおり、終身刑は151人であった。私の仕事は調理場でサラダを作ることになった。サラダ作りの達人になった。毎月最低の報酬があり、絵の代金とあわせて、3ヵ月に一回妻と娘が面会にくる費用にした。手紙はキリル文字は駄目で、ラテン文字で書けとされていた。しかし私は断固としてキリル文字で書いた。
2007年6月、刑期の3分の2が過ぎた。釈放を期待できる。しかしながら、獄当局はタディチに自己の所業への悔悛の情が見られずとし、検察は検察に非協力的であったと報告書に意見を述べ、この時は満期前釈放に値せずとされた。
76.弁護士の役割
私は手をこまねいたままではなかった。決定権のあるハーグ法廷へ要望書を何通も書き送った。ハーグ検察とドイツ司法当局の報告は根拠なく、不正確であると論証しようとした。弁護士との経験がネガティヴだったので、今回は自分一人でやった。12人の弁護士達は私の裁判で数百万ドルの報酬を得ていたのだが。
2008年7月17日、ハーグ法廷は私の要望を受け容れ、釈放に抵抗するドイツ当局に即時の実行を命じた。(p.193)
ドイツの裁判所とハーグの主席検察官ブラメルツは私の出獄に断固反対だった。ドイツ人看守から「タディチ。ニュールンベルクへ明日出発する。用意しておけ。」と突然言われた。何故、不安だった。
77.完全な統制下へ
一夜中、ヨガをやり、空手をやり、瞑想してすごした。シトラウビングからニュールンベルグまで30人の囚人は午前中ほとんどをつかってバス旅をした。シトラウビング獄服役囚数人は手錠のままであった。
連邦外国人特別委員会の聴取があると言う。廊下で一人数時間待たされたが、看守がつかなかった。14年間の獄中生活ではじめてのことだった。委員会メンバーは私に、驚くほど礼儀正しく接した。ドイツ国へ政治的アジールを求める請願書が用意されており、それに署名するように提案した。(p.195)連邦移民局はタディチのボスニアへの帰国に関して不安があると言う。これは新しいトリックだ。自由になっても、相変わらずドイツ司法当局の統制下におかれるだろう。「私、ドゥシコ・タディチはアジール請願書を提出しない。刑終了後ドイツ国家にとどまらない。セルビアへ送還されることを希望する。」(p.196)
78.誇りに対する刑罰
シタデルハイム監獄の数平米ある特別房で最後の数時間をすごした。ここから囚人達はそれぞれの目的地へ送り出される。ドイツ獄当局が安全上の理由で私にわたさずに止めておいた手紙類をそこで読んだ。デンハーグの国連獄で同囚だった同姓の人、ボサンスキ・シャマツ出身のミロスラフ・タディチが2003年12月18日に私へ送った手紙が目にとまった。
「親愛なるドゥシコ。裁判の様子は相変わらずだ。多くの嘘が語られ、不正に操作された起訴に至る。裁判が始まったばかりの者はびっくりして、『こんなことがあり得るのか。』と自問する。しかし、すぐになれて、すべてがあり得ると分るのだ。」「裁判院は私に追放と強制移住の罪で8年の刑期を言い渡した。」(p.197)「あなたは御存知かも知れないが、私は捕虜交換委員会で働いていた。2500人のセルビア人、クロアチア人、ムスリム人を交換した。そのことを私は否定したことはない。裁判でもそれを確認した。人道援助の面で重要な人物、ユニセフ大使レオン・ダヴィチョは2003年11月13日に『私は誇るべき仕事をした。諸収容所で捕虜となっていたセルビア人、クロアチア人、ムスリム人をすくなくとも1000人救った。私は彼等の交換に成功したのだ。これは一人の人間の生涯にとって十分な仕事だ。』と言明した。私はその言明に心が癒された。私はダヴィチョ氏と同じ誇りある仕事をして8年間の刑を課された。しかし、2004年11月1日に帰宅できることを希望しつつ、控訴しない。」(p.198)
79.最終的に自由
ミュンヘンからルフトハンザでベオグラードへ。(p.199)
機中、同囚者達からの手紙を数通読む。(pp.200-204)
ベオグラードのスルチン空港につく。我国の警官がよって来て「ドゥシコ、ようこそ」と迎えてくれた。入国手続きの終了を待っている間に一人の人物が人権組織の活動家であると名乗って、「タディチ氏。この14年間誰かあなたの人権を侵害した者がいましたか。」と質問した。私は言葉がなかった。笑って、立ち上り、出口へ向った。家族と何人かのまことの友達が待っていた。
私の跡に続いて何十人ものセルビア人が旧ユーゴスラヴィアの各地からデンハーグの国際法廷へ旅立った。多くの者が自由の日を見ることはなかった。私の裁判の始めから終りまで私の犠牲と私に続いた者達の犠牲で行なわれた諸実験は(p.204)正義と真実を満足させる目的を持っていなかったし、いわんや旧ユーゴスラヴィアの諸民族間の和解のモデルとなる目的など全く有してしなかった。(p.205)
ドゥシコ・タディチは「本書をハーグ国際法廷によって無実の犠牲者とされたすべてのセルビア人達に捧ぐ」(2010年、セルビアにて)と書いて本書を終える。(p.207)
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
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