小沢一郎の政治的監禁は何を意味しているか
- 2012年 6月 5日
- 交流の広場
- 三上 治
陽光きらめくと言う季節になってきているが、どうももう一つだ。どこか愚図ついた日が多すぎる。僕だけの感想なのだろうか。これはどうも天気だけのことではない。日本の社会も政治もまたそうなのである。この象徴的なことの一つがなお続けられる小沢一郎の政治的監禁である。政治資金規正法違反をめぐる裁判は一審で無罪になった。もともと、裁判を継続すること事態が無謀なことなのに、検察側が控訴したのは何を意味するのか。それは結局のところこの裁判が小沢一郎の政治的監禁、あるいは排除であったということだ。これは一連の国策捜査で権力側が目指したことでもあった。
大震災や原発震災から一年余を経て思うことは日本社会が夢を失った社会であることだ。復旧や復興が遅遅として進まないことはそれを示している。被災者が求めたことは夢であるのに、何も応えられてはいないのだ。日本の社会は不透明で精神的な不安定さを増すばかりで夢どころではないというかもしれない。しかし、このことが夢の不在の結果であることは言うまでもない。僕らは大震災や原発震災の後、つまりは3・11の後に日本社会の転換ということで希望を託した。希望とは夢でもある。だが、今、見えるのは既得権や既得権益に固執し、ただ、破れた太鼓のような高度成長を音を響かせようとする面々だけである。消費増税、官僚たちの富の収奪ではないのか。財政危機をもたらした官僚たちの所業と存在を反省しないで、官僚の既得権益の保持のために描かれるのが消費増税ではないか。電力会社から原子力ムラにいたる既得権益の擁護こそ、原発再稼働→原発保持ではないのか。芸人の親の生活保護、原発立地の生活問題で国民をいがみ合わせているのも体制や権力の所業である。逆にみれば夢は見えるかもしれない。高度成長とその時代にできた既得権益システムを壊し、日本社会の転換を実現することだ。日本社会にカネも自然もある。それを日本社会の転換に導く、夢のビジョンとそれを担う運動が存在しないだけだ。運動の中には政党や政治家も含まれる。僕らがつまらない日常での不和やいさかいに疲れ、いいしれない悩みに落ちいったにしても、その根源にはこの時代のこの社会の現状がある。夢の回復と再生は僕だけでなくそれでこそみんなのものだ。小沢一郎の政治的監禁や排除は体制や権力の夢の封殺であり、既得権益の保持から仕掛けられた政治劇だった。そこには劇にふさわしい血に汚れた正義の旗も添えられていた。だが、いつもの場合も夢を大切さに気が付いた時から事は始まる。絶望を絶望することは希望だとは先人の言だが、今が…。
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