「尾崎秀実の関東軍司令部爆破計画」は実在したか (第一回)
- 2012年 8月 4日
- スタディルーム
- 「関東軍司令部爆破計画」尾崎秀実渡部富哉
─小林英夫・福井紳一著『満鉄調査部事件の真相』に反論する─
2011年11月5日 尾崎・ゾルゲ墓参会での記念講演
1)はじめに
小林英夫・福井紳一著『満鉄調査部事件の真相』(小学館、2004年12月、以下『真相』と略称)によると、満鉄調査部事件とは1941年11月、つまりゾルゲ事件(尾崎秀実の検挙は1941年10月)の直後に、満州合作社の佐藤大四郎らが日本共産党再建容疑で関東憲兵隊に検挙された事件で、鈴木小兵衛、佐藤晴生ら50余名が検挙され、その捜査の過程で鈴木小兵衛が満鉄調査部員の関与を供述したことから、第1次満鉄調査部事件(1942年9月)が起こり、30名が検挙され、事件はさらに続いて第2次検挙(1943年7月、14名が検挙される)へと波及した。この間に中西功、西里竜夫らの中共諜報団事件(1942年6月)が起こっている。
因みに同書の本文中にたびたび登場し、同書の年表にも書かれている「企画院事件」はゾルゲ事件の半年前の1941年4月に起こった。一方、日本憲友会(旧日本憲兵たちの戦友会)刊行資料『日本憲兵外史』記載の「満鉄事件」によると、「満州合作社事件の発端は昭和15(1940)年7月、平賀貞夫の検挙による」とされている(452頁)。
これによると合作社事件の発端はゾルゲ事件の起こる1年以上も前に遡ることになる。
平賀貞夫は日本共産党再建運動で検挙された岡部隆司の第1グループ(宮崎巌、風早八十二ら)に属し、その第2グループが長谷川浩、伊藤律たちで、当局の弾圧をさけるために、岡部はグループ相互の交流を避けて、組織の温存を図ったのである。
伊藤律の供述がゾルゲ事件の端緒であるとでっちあげられて、「特高月報」に記載されたが、平賀貞夫の検挙そのものがゾルゲ事件の端緒の重要な一環だったのである。したがってこれら全体像の中で、それぞれの事件を位置づけて検討しなければ真相は分からない。
平賀貞夫の事件は髙倉輝(作家、農民問題研究家、戦後日本共産党中央委員、国会議員)が安田徳太郎(医師、ゾルゲ事件で検挙され懲役2年、執行猶予5年)に語ったように、「真栄田三益(松本三益、戦後日本共産党中央委員)が満州の事件をまけてもらうために当局に密告した」という、ゾルゲ事件研究に欠かすことが出来ない重要な問題だが、筆者の昨年10月、「満州合作社事件」研究会でも、「松本三益は当局のスパイだった」ことを報告し、彼に売られた紫村一重(紫村が福岡歩兵24連隊入隊中に松本三益の推薦で2箇月前に入党させた人物)が合作社事件の検挙者記録にその名があることは報告したが、それがゾルゲ事件とどんな関係にあるのか、ということまでは時間の関係で報告できなかった。本日の講演でもそこまで言及したいが、残念ながら時間がないので問題提起にとどめる。
本日の私のテーマは、『真相』の冒頭の第1章「関東憲兵隊『新資料』の発見」が、中国吉林省長春市の吉林省人民政府敷地内(元満州国新京市の関東憲兵隊司令部)で関東憲兵隊の資料が発掘された経緯を述べ、その資料中の「小泉吉雄手記」に、「(尾崎の指令にて)われわれ社内同志にて関特演後の戦争の危機に鑑み日ソ戦勃発防遏のため、輸送妨害、通信施設の破壊、治安攪乱による反戦活動をなすことを渡辺雄二より打ち明けられたる際は、自分は客観情勢の見通しを異にし、従ってこの計画に反対なりたるも、同志としての情宜に基づき之に参加を約し、自らは関東軍司令部に爆弾を仕掛け、また政府関係者等との連絡役の任務を果たすことを約束せり」(『真相』208頁)、小林・福井氏が「なんと、日ソ戦が勃発したときには、関東軍の顧問であった小泉吉雄が、関東軍司令部を爆破することを渡辺雄二に約束したことが語られていたのである」(同上208頁)(中略)「これは重大な供述であり、憲兵が描いた『ストーリー』に乗って語ったものと考えるには、事は具体的で重大すぎて、やや不自然な感を持つ。何故ならば、もし、この供述が公判で述べられたとしたら、関東軍の中枢の軍人たちの責任問題に発展する事態は不可避だからである。この供述は『捏造』とは考えにくく、関東憲兵隊にとっても大きな衝撃となったことは間違いないであろう」(同上209頁)
と書いていることを問題とするものである。小林氏は「尾崎のこうした行動はそれはあり得る話だと思う」と書いている。(256頁)。小林氏はほぼこれと同文の「新資料検証 満鉄調査部事件の実相」を雑誌「世界」(2004年8月号)に掲載している。
日露歴史研究センターは毎年行われる「ゾルゲ・尾崎墓参会」で小林英夫氏に講演を依頼し、「尾崎秀実の関東軍司令部の爆破計画」があり得るという判断の根拠を、討論の俎上に乗せるように白井久也氏(同会長)に要請し、白井氏は所定の手続きを行ったが、小林氏から何の回答も得られず、3年が過ぎてしまった。その間、「尾崎秀実の関東軍司令部の爆破計画」は存在したのか、「それは真実か」という質問が尾崎秀実の研究者から筆者に届き、また「何故それを黙認しているのか」というお叱りも受けてきた。
つづいて小林英夫氏は主に既発表の論文をまとめた、『満鉄調査部の軌跡』(藤原書店、以下『軌跡』と略称)を「満鉄創立100年記念出版」として刊行(2006年11月)した。
一方、松村高夫・柳沢遊・江田憲治編による『満鉄の調査と研究─その「神話」と実像』(青木書店 2007年7月)が出版され、平山勉・児嶋俊郎・山本裕・伊藤一彦・江田いづみ氏らの研究論文が掲載され、『真相』と『軌跡』についての松村氏たちの批判論文も掲載された。
松村氏はここで、『真相』が「『新資料』=逮捕者の手記(小泉吉雄ほか)の出現に幻惑され、満鉄調査部事件が関東憲兵隊によるフレーム・アップであることを否定し、逮捕者が憲兵隊に強いられ誘導されて記した『手記』に依拠して、あたかも革命運動が現実に調査部内に存在したかのように描いた。同書に特徴的なことは、史料批判を行わない、権力側の史料をそのまま鵜呑みにしたセンセーショナルな記述である。(中略)小泉の供述に一片の真実性があったならば、なぜ小泉は検察庁によって起訴猶予処分とされたのであろうか。小泉とともに関東軍司令部爆破を計画したとされるメンバーも起訴猶予となったり、執行猶予つきの判決を受けている。この事実を、小林たちの著作は説明することができない」(440~441頁)と批判した。
さらにこれに続いて再び、小林英夫・福井紳一共著『論戦「満州国」・満鉄調査部事件─学問的論争の深まりを期して』(彩流社、2011年8月 以下『論戦』と略記)が刊行され、その宣伝広告が朝日新聞(2011年9月)に松村高夫を名指して掲載されるという事態にまで発展した。
その著作の内容をみると、第1章は「満鉄調査部事件の神話と実像─松村高夫氏への反批判を通して」、第2章は「『満鉄の調査と研究』の批判的検討─松村高夫・柳沢遊・江田憲治諸氏の批判に応える」とある。何れも小林英夫・福井紳一の共同執筆で37頁から144頁まで100頁を越える頁を割いている。
前著の2冊には尾崎秀実に関連する問題が大きく採り上げられていたが、『論戦』では尾崎問題は影を潜め、満鉄調査部事件や満州合作社事件が重点的に採り上げられている内容になっている。これにより両者の対立と論争は早稲田大学と慶応大学の教授ということもあって、世間の注目を集めることになったが、小林英夫氏らの著作が当局側の資料を無批判に引用し、史実を無視した勝手な解釈を加えるその根底に、「新しい教科書」問題に共通する危険性が潜んでいると筆者には感じられた。
この経緯からすると、ゾルゲ事件研究にこれまで最も重大な関心をもって、会報(「ゾルゲ事件関係外国語文献翻訳集」、季刊、2011年現在31号)まで発行し、モスクワ、ドイツ、モンゴル、アゼルバイジャンなどで、6回にわたって国際シンポジウムを開催してきた実績を持つ日露歴史研究センターが、「尾崎秀実の関東軍司令部の爆破計画」だけが採り上げられているわけではないにしても、この討論の蚊帳の外に置かれているというのはおかしなことだ。ゾルゲ・尾崎秀実についての研究は日露歴史研究センターの専門分野ではないのか。「尾崎秀実の関東軍司令部の爆破計画」の真相と対応について会員から多くの疑問が寄せられるのは当然のことだろう。
こうして今回、この問題に真正面から筆者が個人的にその論争に加わり、「尾崎秀実の関東軍司令部爆破計画」について、小林英夫・福井紳一氏らの雑誌「世界」掲載論文『真相』と『軌跡』、『論戦』のゾルゲ・尾崎事件関連の記述について、反論を加えることになり、今回の講演会の案内を現代史を専門に扱う「ちきゅう座」のブログに掲載して広く参加を呼びかけたのである。
本日の私の報告は基本的には松村高夫氏の意見に言い尽くされているのだが、もう少し具体的にゾルゲ事件研究者の立場から事実関係について、これまで明らかになった史実をもとに、いま一歩踏み込んで反論を展開してみたいと思う。
ここに登場する「小泉吉雄手記」とは、実際にはゾルゲ事件の摘発を警視庁特高課に先手をとられたことに対する巻き返しとして、関東憲兵隊がゾルゲ事件摘発の直後に、合作社事件をでっちあげたことに端を発している。
本年、2011年10月に沖縄で行われた第6回ゾルゲ事件シンポジウムで加藤哲郎(一橋大学名誉教授、早稲田大学客員教授)は「宮城与徳訪日の周辺─米国共産党日本人部の2つの顔」と題して次のようなパネリスト報告を行った。
特高警察(内務省)のみならず、陸軍憲兵隊も、銀座数寄屋橋際のレストラン・ローマイヤーの憲兵隊外事課による監視と、憲兵隊司令部直轄の無線探査班の怪電波探知から、ゾルゲに目をつけ尾行していたが、在日ゲシュタボ代表マイジンガー大佐によるゾルゲの身分保証で、尾行を中止していた。
全国憲友会連合会編纂委員会編『日本憲兵正史』は、「結局、憲兵隊ではゾルゲ一味逮捕の名を警視庁にとられた。だが、憲兵隊も実はもう一歩のところまでゾルゲを追い詰めたが、マイジンガー大佐の保証を信頼したばかりに、網中の大魚を逸してしまった」と記述し、特高にゾルゲ事件の摘発を出し抜かれたことの口惜しさを、にじませている」
関東憲兵隊と警視庁特高の確執について、中西功は逮捕されたときの体験を次のように書いている。
「中西功を逮捕したあと、憲兵隊からきつい抗議がきて、中西功を憲兵隊に引き渡せと要求してきた。それですったもんだしたして何回もかけあったのだが、どうしてもききいれない。そこでやっと君の意向にまかせることになったのだ。つまり、君が警視庁に行くといえば警視庁、憲兵隊に行くといえば憲兵隊、どうする ?」(中西功『中国革命の嵐のなかで』273頁)。
尾崎秀実は検挙されると憲兵隊は「ゾルゲ事件関係資料」(警保局内部の極秘資料)を入手して、警視庁から憲兵隊に身柄が送られ、河合憲兵大尉の取り調べを受けた(『尾崎秀実伝』336頁)。既に太平洋戦争は始まっていた。陸海軍の極秘の情報の漏洩があったのか、関係する軍隊内の通報者を取調べるのは憲兵隊としては当然のことだろう。
松村氏がいうように、憲兵隊が描く筋書きに沿って「小泉吉雄手記」は書かれたものだから、それは憲兵の思惑と誘導の結果にすぎない。加害者(憲兵)の主張を被害者(小泉)に強制的に書かせたものであり、それは事実とは全く関係がないでっちあげであり、それは何ら「ゾルゲ・尾崎事件」の資料に値するものではないが、小林英夫氏はこれを極めて肯定的にとらえ、前述したように「小泉吉雄手記」に書かれた「尾崎秀実の関東軍司令部の爆破計画はあり得る」と書いた。
日露歴史研究センターはすでに2000年9月、第2回モスクワシンポジウムの折りに「ゾルゲ事件関係特高捜査員に対する褒賞上申のための内務省警保局資料」を入手して公開した(『国際スパイゾルゲの世界戦争と革命』社会評論社)。この資料は小林氏が発掘した関東憲兵隊資料と同じ性格の資料で、ロシア軍の満州侵攻が早かったために、旧関東軍司令部の跡地から発掘されたものとは違って、焼却も地下に埋める余裕もなくソ連軍に押収された生資料である。
本日の受け持ちの時間は(質疑応答含む)1時間30分程度なので、全体像を述べるわけにはいかないので、『真相』と『軌跡』の問題点、即ち「尾崎秀実の関東軍司令部爆破計画」に関連する問題に絞って、私の裏付け資料を示しながら反論を加える。
2)供述調書の性格と問題点
戦前の治安維持法違反事件の供述調書、特にゾルゲ事件、中共諜報団事件関連のそれは当局の筋書きに沿って、誘導訊問によって作られたものである。その格好な実例は拙文「尾崎秀実は日本共産党員だった」及び「尾崎秀実と中共諜報団事件」(その1~その3)を参照にされたい。
ゾルゲ事件で懲役10年の刑に処せられた川合貞吉は自分の供述調書の釈明のために、戦後、『ある革命家の回想』(谷沢書店他)を書き、尾崎秀樹の強力なパックアップによって、『オットーと呼ばれた日本人』(劇団民芸)などの脚本にまで採用され、公演は繰り返し上演され、今日に至るまで通説として罷り通ってきたが、今日、明らかになった真相は全く違っていた。
「革命家」川合貞吉について加藤哲郎(一橋大学名誉教授)は本年10月の沖縄シンポジウムや昨年11月の尾崎・ゾルゲ墓参会で報告したように、尾崎秀樹が兄代わりの師として慕った川合貞吉のゾルゲ事件に関する証言は、伊藤律端緒説をはじめ、全体が虚偽と自己保身に彩られた作り話になっている。川合貞吉こそ実は『生きているユダ』であり、川合を『唯一の生き残り証人』として扱い、主たる典拠としてきた戦後日本のゾルゲ事件研究は砂上の楼閣である。
1947年9月12日から51年7月31日までの米国陸軍諜報部(MIS)『川合貞吉ファイル』には、川合がGHQ・G2ウイロビー傘下の「キャノン機関」に情報を提供していた記録が収録されていた。川合の1949年2月28日の証言では、ゾルゲ・リンクを『売った』共産党員として、伊藤律とともに松本三益の名前を挙げ、『松本のほうがより責任がある』と述べていた。しかし米国側は、当時の日本共産党に打撃を与えるには松本よりも伊藤律を事件発覚の端緒にしたかったらしく、ウイロビー報告では伊藤律端緒説が採用された。米軍内では、川合情報はどうも疑わしいという意見が出ていた。本郷ハウスのキャノン機関は、川合に対して毎月55ドル、円換算で2万円を渡していたが、『払い過ぎだ、差し当たり1万円に減らして、彼から情報提供を受ける線を切ったほうがいい』と、川合担当の情報将校が言い出した。
「川合の情報は月2万円の価値に値しない。どうも日本共産党は彼を信用していないらしく、日本共産党の内部情報が入ってこない。だから2万円を減額して1万円にすることにした」という報告文書が1950年2月20日に出されている。
川合は、米軍から毎月2万円の情報提供料をもらいながら、尾崎秀樹と一緒になって1948年末に『ゾルゲ事件真相究明会』を立ち上げ、「伊藤律=ユダ=スパイ説」を流布していた。そのバックに、ウイロビーとキャノン機関があった。そのほとんどが、こういうバックの下にウイロビーと川合により作られたストーリーである。したがって戦前から戦後の川合貞吉の証言は全部疑わしい」のである。(加藤哲郎「宮城与徳の訪日の周辺─米国共産党日本人部の2つの顔」ゾルゲ事件・沖縄シンポジウムの報告2011年10月22日)
これまで尾崎秀樹=川合貞吉らによって作られた定説(『生きているユダ』や『ある革命家の回想』)は公開されたウイロビー資料(MIS)によって、完全に誤りだと断定されるに至ったのだ。
戦後刊行された『現代史資料・ゾルゲ事件』(みすず書房)が当局側の資料であるにもかかわらず、何ら批判も裏付けもなしに特高資料によりかかって、あたかもそれが真実であるかのように、ゾルゲ事件の著作をものしてきた報いがようやくやってきたのだ。加藤哲郎教授の報告はゾルゲ事件研究の新たな出発点になったことはたしかだろう。
これが最もいい実例であるが、それが解明されるまで70年の歳月が空費されたことになる。この間、『生きているユダ』で尾崎秀樹が文壇への登場を果たし、松本清張(『日本の黒い霧』所収「革命を売る男・伊藤律」)や野坂参三によって広く流布され、日本共産党の伊藤律除名処分の声明などで、伊藤律スパイ説が作られ、密告者川合貞吉の名が「ゾルゲとその同志たち」の墓碑銘に刻まれ、小林英夫著にまで川合貞吉の著作の引用が無批判に行われるという経緯を辿って今日に至っている。
小林氏は川合貞吉の書簡にもとづき、「川合がマルクス主義と民族主義の接点に於いてコミニュスト尾崎としての特殊な発想が出てきた」と評しているが、「ここには経調派の中にある一傾向と共鳴する部分がある」(『真相』254~255頁)と書いているし、引用文献として川合貞吉著『ある革命家の回想』を挙げている。(267頁)
だが『ある革命家の回想』のどこに参考となる史実があるというのか。加藤哲郎氏が指摘するようにこの著作は「完全に誤り」で、でたらめ極まるものだったのである。
特高(憲兵)資料がいかに歴史の証言者たり得ないかという最もよい見本であり、歴史的な教訓である。是非、拙文「尾崎秀実と中共諜報団事件」(その1~その3)や「尾崎秀実の日本革命の展望」(井本台吉・戦後検事総長、所蔵 社会運動資料センター発行)などを参照されたい。
【誤った定説・通説との闘い】
ゾルゲ事件に続いて満鉄調査部事件が起こったが、その前に合作社事件が起きたことは一般にはあまり知られていない。これらの事件の摘発が関東憲兵隊によって行われ、ソ連の満州侵攻時に関係資料の大部分が焼却、または埋没されて隠蔽されたことに主たる原因がある。それは実は以下に述べるように、ゾルゲ事件関連の捜査と密接な関係をもっている。
『平賀貞夫に対する治安維持法違反事件関係 最高検察庁』(不二出版復刻)によると、新京高等検察庁の問い合わせに対する最高検察庁の回答書として作成された資料に記載されている関係検事と特高はすべてゾルゲ事件の捜査官たちだった。平賀貞夫の取調べ担当者は次の通りである。
➀新京高等検察庁問合せ「共助事件回答書」・東京刑事地方裁判所検事正代理 検事 中村登音夫(昭和17年3月18日)新京高等検察庁次長・井出廉三宛て。
➁東京拘置所在所 平賀貞夫聴取書 昭和17年3月15日 検事 岡嵜 格
➂平賀貞夫第2回聴取書 昭和17年3月17日 検事 岡嵜 格
➃「共助事件回答追送書」 昭和17年3月17日 検事正代理検事 中村登音夫
➄平賀貞夫第3回聴取書 昭和17年3月18日 検事 岡嵜 格
➅平賀貞夫第4回聴取書 昭和17年3月19日 検事 岡嵜 格
➆松沢保和(平賀貞夫に関する証言) 昭和17年3月23日 検事 岡嵜 格
➇松沢保和第3回訊問調書 昭和17年3月17日 警部補伊藤 猛虎
⑨花田ウタ(平賀貞夫関連証言) 昭和17年3月24日 検事 岡嵜 格
➉平賀貞夫取調請求書 昭和17年3月23日 検事 岡嵜 格
ここに記載されている中村登音夫とは尾崎秀実と東大時代の同級生で、ゾルゲ事件の捜査全般を指揮した検察庁の思想部長で最高責任者だった。検事岡嵜格とは1939年から40年にかけて伊藤律を取り調べ予審請求した検事であり、のち満州に派遣され、ソ連に抑留され、47年秋に帰国したという経歴の人物であり、その関係で北林トモ、宮城与徳について事情に通じていた。当時の思想検事の全員がゾルゲ事件の担当者だった。(拙文「尾崎秀実と中共諜報団事件」(その1~その3)108頁参照)
警部補伊藤猛虎は伊藤律の取り調べを担当し、「ゾルゲ事件特高捜査員に対する褒賞上申書」にもその名が刻まれているゾルゲ事件の功労者であり、「特別功労賞」を授与された人物である。このすべてがゾルゲ事件関係者である。
平賀貞夫の事件は共産党再建運動による検挙であるが、それは同時にゾルゲ事件の端緒と切り離せない事件であり、平賀貞夫は松本三益が共産党に入党させた人物で、松本三益のスパイ説に絡む問題でもある。その関係はこの1例をみるだけでも「合作社事件」とゾルゲ事件の密接な関係が判るだろう。当局はその真相のすべてを隠蔽してしまったが、こういう資料を丹念に裏付け調査を積み重ね、選別、整理していくことによって、当局発表の「表の顔」とともに「裏の顔」つまり事件の真相にたどりつくことができる。これはそのほんの一例にすぎない(満鉄調査部事件の関連についてはのちに「岸谷隆一郎と吉岡述直検事の証言」で詳述する)。
それはこれまでゾルゲ事件研究者の誰も解明できなかった「松本三益は満州での事件で昭和16年に検挙されましたが、満州での事件を助けてもらうために警視庁のまだ知らない宮城与徳の諜報活動を密告して、当局と取引しました」(安田徳太郎著『思い出す人びと』)(279頁)この「満州の事件」とは一体何だったのか、ゾルゲ事件の端緒を巡る最大の問題点と同じ根源にたどりつくことができる。
松本三益が当局と取引をしたという「満州の事件とは、実はこの平賀貞夫の「日本共産党再建運動事件」だったのである。平賀貞夫の日本共産党入党は松本三益の推薦によるものだったことが、平賀の供述で判明したのである。それが今回発掘された合作社事件に関する資料によって判明したのである。
平賀貞夫グループの検挙が関東憲兵隊にどんなインパクトを与えたか、それを明白に示しているのが、小林英夫氏が無批判に引用している「小泉吉雄手記」だ。問題は合作社事件や企画院事件、満鉄調査部事件にまで及ぶ、当局の壮大な冤罪事件のひとつなのである。
企画院事件については拙文「尾崎秀実は日本共産党員だった」(46頁、⑫「尾崎は共産党再建『京浜グループ』事件と深く関わっていた」及び、⑬「企画院事件と尾崎秀実、和田耕作の回想から」以下)を参照されたい。
3)小林英夫教授が引用する「小泉吉雄手記」の問題点
小林英夫氏が『真相』に引用している「小泉吉雄の手記」のうち、尾崎秀実に関係する6項目の問題点を以下に挙げる。
➀小泉は「昭和14(1939)年10月、自分は尾崎秀実より急変する内外情勢の的確なる把握を目的とする情報組織を作ることを明かされ、之に参加を求められたる際に、自分の左翼的立場より客観情勢の明確なる把握に意義を見出し、且つ又同人との同志的情誼を考え之に参加せり」(207頁)
➁「尾崎の組織の一員として、同人に諜報を提供せる他、昭和16年9月、尾崎が来満し、満鉄社内同志組織を確立せん際は、自分は左翼分子の相互連携に依る左翼的政治力の強化の点に意義を見出し之にて参加せり。又此の時、同人よりコミンテルン極東支部員スラウイツキー(記憶す)を紹介せられ、其の後、枝吉勇、渡辺雄二等と共に右極東部員等に再会し、更らに、渡辺、湊清、狭間等と共に哈市(ハルビン市)に赴き極東部主任ウイリツキー(記憶す)又通訳アンプリと会談し、吾々の満鉄社内同志組織とコミンテルンとの間の関係を付けり」(208頁)
➂「其の後、(尾崎の指令にて)、吾々社内同志にて関特演後の戦争の危機に鑑み日ソ戦勃発防遏の為、輸送妨害、通信施設の破壊、治安攪乱に依る反戦活動を為すことを渡辺雄二より打ち明けられたる際は、自分は客観状勢の見透を異にし、従って之の計画に反対なりたるも、同志としての情誼に基き之に参加を約し、自らは関東軍司令部に爆弾を仕掛け、又政府関係者等との連絡役の任務を果たすことを約束せり。
昭和16年10月中旬尾崎が検挙されたるを知れるを以て自分は計画の暴露を恐れ、且又予て本計画には反対なりたるを以て渡辺雄二を通じ枝吉勇に対し尾崎の検挙対策の会合を提唱し、金州南山にて会合の際は、本計画の暴挙なるを強調し、之を中止せしめんとし、結局、会合にては延期のこととなれり」(208頁)
➃「此の後、大東亜戦争が勃発せしが、自分はマルクス主義の見地より、戦争に対し展望せる結果、此の戦争に勝利を得ることに依り日本に於ける社会主義革命の実現が促進せらるるものと見透せり。かかる見透の下に、自分は吾々マルキストとしては此の戦争の勝利の為に協力し、協力過程を通して自己勢力の拡張、戦後の情勢に対処す可きなりと思料せるを以て、吉植、吉原、湊等の同志が戦争に対する見解に付き自分に査問せる際は、同人等に対し此の戦争に敗北する場合、社会主義の実現は不可能となる可き旨を述べ反省を促したり」(234頁)
➄「尾崎の組織の一員としては此の期間に同人に諜報を提出する他、昭和16年9月、同人が来連し、満鉄社内に「左翼的同志組織を結成する」こととなりたる際は、自分は左翼分子の相互連携に依る左翼的政治力の強化の点に意義を見出し之に参加せり。此の時、大連にてコミンテルン極東部員スラウイツキー(と記憶す)に紹介せられ、又満鉄の同士と共に同人に会し、更に哈爾浜にて極東部主任ウイリツキー(と記憶す)又通訳アンプリに渡辺雄二等と共に会し、コミンテルンと満鉄同志組織の連繋を付けたり」(235頁)
➅「其の後、昭和16年10月、渡辺雄二宅にて湊清、吉原次郎、狭間らと共に会合せる際、渡辺より日ソ戦勃発防遏の為、鉄道関係の同志が輸送妨害を敢行し、吾々新京の同志は通信施設の破壊、市内治安攪乱を為し、他の都市にても同志が直接行動に出ることを明かされたる際は、自分は情勢の見透を異にせるを以て之に反対なりたるも、同志として之に参加を約せり。
若干日後、尾崎が検挙せられたるを以て、自分は此の計画を中止せしめんとし、尾崎検挙対策を提唱し、金州南山に於いて会合が開かれたる際、計画の暴挙なるを指摘し、其の中止を主張せり。会合にては延期のことと定まれり」(236頁)
こうして小林英夫氏は「なんと、日ソ戦が勃発したときには、関東軍の顧問であった小泉吉雄が、関東軍司令部を爆破することを、渡辺雄二に約束したことが語られていたのである」「小泉は満鉄より関東軍軍属に派遣されていた人物であり、この当時は、昭和研究会、昭和塾にも参加していた。このような政治、軍事の両面で、国家の中枢で『国策』を担っていた人物が『尾崎の組織の一員として、渡辺雄二たちとコミンテルンの極東部員接触し、かつ、日ソ戦争勃発の際は、渡辺たちの『輸送妨害、通信施設の破壊、治安攪乱に依る反戦活動』に参加し、『自らは関東軍司令部に爆弾を仕掛け、又政府関係者らとの連絡役の任務を果たすことを約束』したと供述していたのである。
これは重大な供述であり、憲兵が描いた『ストーリー』に乗って語ったものと考えるには、事は具体的で重大過ぎて、やや不自然な感じを持つ。なぜならば、もし、この供述が公判で述べられたとしたら関東軍の中枢の軍人たちの責任問題に発展する事態は不可避だからである。この供述は『捏造』とは考えにくく、関東憲兵隊にとっても、大きな衝撃となったことは間違いないであろう」(209頁)と書いた。
その後、引き続いて小林氏は小泉吉雄の戦後書いた私家版の『愚かな者の歩み』から引用して、小泉が憲兵の取調べに錯乱した様子や「絶対に間違いないと妄信した」ことなどを挙げながら、「関東憲兵隊の供述に関してはこの『愚かな者の歩み』では、何も触れられていなかった。この供述に関しては、取り調べの中で、錯乱した小泉が自ら語ったものと思えるが、『在満日系共産主義運動』にも2名がソ連共産党員と接触している記述(なぜか名前は書かれていない)もあり、この工作のすべてが『虚像』であったのか、戦後、企業人として人生を送った小泉が語る『戦前』のすべてが事実なのか、真相は闇の中である。
しかし、取り調べを担当した高橋曹長という下士官の憲兵のもとで書かれた小泉の手記は、上層部にさまざまな意味の『衝撃』を与えてしまったことは事実であろうし、その供述が上層部で、その後どう処理されたかは不明である。
小泉の『回想録』によると、検察庁においては、吉岡という検事から逆に『尾崎事件に君は関係ない』と言われ、自らは、『私と尾崎の関係は、逮捕されてから少しづつおもいだしたもので、憲兵が嘘をいう筈はないと思って、一生懸命考えていると、ボーと情景が思い浮かび、それをそのまま記したと述べた。しかし、こんな重大な事を逮捕されてから思い出したのは、不思議であるが、供述書は頭にこびりついた儘だと述べた』と語っている。しかし、供述が真実か否かは、今もって定かではない」(210頁)と結んでいる。
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〔study545:120804〕
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