大島渚追悼 ―時代は『愛と希望の街』へ回帰する―
- 2013年 1月 19日
- 評論・紹介・意見
- 半澤健市大島渚
お互い映画好きと知って会話が弾んだ時に、「半澤さん、大島渚を見なければ今の日本映画は語れませんよ」と言ったのは、京大出身の新入社員だった。1961年のことである。私は大島渚をみていなかった。1958年に社会人となった私は映画の時間を失っていた。不眠不休で働く部署に配属されたからである。大島渚、吉田喜重、篠田正浩の「日本ヌーベルバーグ」はほとんど私の視野になかった。前年の『日本の夜と霧』の上映中止は私にはニュースに過ぎなかった。社会派の今井正や山本薩夫、あるいは市川崑や増村保造が私の守備範囲であった。早速、大島作品を見に行ったら『太陽の墓場』をやっていた。アナーキーで暴力場面の多いその作品への私の印象は良くなかった。
しかし、伴走者としての佐藤忠男が書く大島論を読み、何本かの作品を見るうちに私の偏見は消えていった。大島は、木下恵介の『女の薗』をみて映画の表現力を確信したと書いている。そして黒澤明の『わが青春に悔なし』への批判には間断するところがない。黒澤明と久板栄二郎の描いた京大事件における抵抗の美化と欺瞞を彼は許さなかった。一方で大島は、『生きものの記録』を黒澤の特色をよく示す作品として高く評価している。
会話の数年後に、『日本の夜と霧』が新宿文化で上映されたのを私は観た。その時の興奮を今も忘れていない。背広を着た観客は私ぐらいで、あとは学生と若いインテリ、労働者の集団がいた。満員の通路に新聞を敷いて私は観た。『忍者武芸帳』と2本立てだった。日本映画監督協会長の五所平之助が挨拶した気がする。ざわめきと緊張感を私は「これは一つの事件だ」と思った。作品は革命路線の対立を巡る、際限のない分裂と対立を描いた、おそらく日本で初の、ディスカッション・ドラマであり、一つの党派を糾弾する作品であった。
大島の意図がどうあれ、今考えるとこの作品は『女の薗』へのオマージュであり、『わが青春に悔なし』への自作をもってする批判であったような気がする。
『日本の夜と霧』の問題提起は、東西冷戦の終焉、反体制運動の退潮、成長が唯一の価値となった今、意味をなさない問題として大島自身に逆流しているようにみえる。
芸術作品は処女作へ遡行するという。大島渚の原型は処女作『愛と希望の街』(1959年)に全部出ていると思う。追悼報道で大島に与えられたタイトルは「異端の作家」、「反骨の映画監督」であった。私にいわせれば、その評価は山田洋次を基準としたものである。つまり『男はつらいよ』の「優しさと絆」がキーワードである。これが2013年の現実なのである。17年間の闘病の末に、「異端児」大島が逝ったその週に、文化勲章を貰った山田が『東京物語』のリメイク作品を公開しようとしている。
しかし、時代は今、どこにいるのか。
大島の処女作は「金持と貧乏人は結ばれることがない」と訴えた。これも2013年の現実である。そして団結すべき人々は、『日本の夜と霧』に描かれた、分裂と対立を繰り返している。「異端の映画監督」大島渚の死は、小山明子との愛情物語に終わる話ではない。
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