オザワは敗北したのか?
- 2010年 9月 15日
- 評論・紹介・意見
- 安東次郎
振り返ってみると、奇妙な選挙だった。
投票前の両候補の演説を聞く限り、指導者としての資質に雲泥の差があることは明らかだった。後世、両者の演説を聴いたものは、なぜ小沢が敗れ菅が勝利したのか、なぜ206名もの国会議員が菅に投票したのか、状況を理解するのに、苦労することだろう。
それほど菅の演説はひどかったし、小沢のそれは―支持・不支持は別にして―「名演説」だった。両者の演説はネット上で簡単に聴けるから、いちいち引用しないが、菅直人の視野が、たかだか二十年の日本の停滞の打破に留まっていたのにたいし、小沢一郎の視野は、少なくとも明治以来百四十年の官僚国家の『革命』をとらえていた。この点だけをとっても両者の器の違いは明らかだった。
もっとも、すぐれた指導者が、愚劣な人々や策を弄する「小モノ」に敗れるというのは、歴史では、よくあることだから、小沢が選挙で敗れたことは、別に驚くにはあたらない。対米関係だけを考えても、敗戦いらい『属国』状態が続く日本で、「対等な日米」という小沢が勝つのは簡単ではない。さらに明治以来の官僚制をも転覆しようというのだから、小沢が敗れたのはむしろ当然だろう。
(ところで、自民党出身の小沢一郎が、こんにちの日本において『革命的』であるのにたいし、活動家出身と称する菅直人たちが、辺野古に基地を造ろうというアメリカと官僚勢力の代弁者であることに、歴史の皮肉を感じるのは、私だけではないだろう。)
しかし小沢は選挙で敗れても、政治そのものに敗れたわけではない。国会議員票でほぼ互角であったというだけではない。注目すべきは、この選挙戦を通じて、多くのひとびとが、小沢の声を聴き、小沢の姿に接したということだ。小沢の実像はマスコミがつくった虚像とは別モノだった。その器も他の政治家とはまるで違っていた。それが街頭演説での「オザワコール」につながったのだろう。彼らの大半は民主党サポーターではない、普通の人々だ。
世界経済の一層の困難化を受けて、日本も円高と株安あるいは企業破綻と雇用不安が深刻化するのは、これからだろう。そのとき財政均衡優先・官僚主導の菅内閣が有効な対策を実行できるだろうか。そのときには「オザワコール」が起こるのではないか?
「政治とカネ」とか「首相をすぐ替えるのはよくない」などというマスコミの宣伝に素直にのってきた『層』も、実際の生活がさらに追い詰められれば、「クリーンな政治」、「参加型政治」(四百十人内閣?)などから「つよい指導力」に雪崩をうつだろう。
ひとこと断っておけば、私は「小沢が首相になれば今日の問題が解決する」などという説に同調するわけではない。むしろ『小沢革命』が相当に『革命的』であっても、なお『改良的』に過ぎるほど情況は困難化している、というのが私の認識だ。ホンモノの「左翼」が復活すべきではないか、とも思うが、「左翼」である(あった?)ことを「小沢」への優位性と錯覚し、理論上は『保守的』な、実践上は『無力』な存在にとどまるならば、そのような「左翼」では、とても小沢に敵わないだろう。
他に情況に応える勢力がないのならば、時代は「オザワ」を求める方向に進む。平成の「西南戦争」はむしろこれからではないか。
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