労働生産性
- 2013年 4月 26日
- 評論・紹介・意見
- 労働生産性藤澤 豊
今更、何だという気もするが、今こそ真正面から取り組んで根本的な改革をしなければという気持ちの方が強い。日本の労働生産性が先進国中で最低だと問題視されて、もう、ざっと二十年になる。何が問題なのかもとうに議論し尽くされている感がある。にもかかわらず根本のところでは一向に変わる気配がない。気配がない訳も、批判の矢面に立たされているはずの当事者も、いつものように責任を回避し責任を人に押し付ける詭弁を弄するだろうが、大方はっきりしている。
マクロで見れば、労働生産性を上げることが社会の、そして個人の豊かさの向上の源泉であることに異論を唱える人は希だろう。それは人類の長い歴史を見てもはっきりしている。狩猟から農耕へ、農耕も人力から牛馬の使用、機械化。。。これは人ひとりの労働生産性を上げる努力の歴史に他ならない。労度生産性を上げられれば、社会が豊になり、企業としては利益を得やすく、そこで働く人達も収入を増やせる可能性が高くなる。誰れにとってもいいこと尽くめに見える。
ところが、二十年以上経っても状況が大きく変わったわけでもなし、あいも変わらず、同じように同じようなことを指摘し、似たようなことを言っているようにしか見えない。一朝一夕に改善し得る類のことではないのは分かるが、そろそろ一体日本人にはこの問題を改善、解決したいという気持ちがあるのか、そして解決する能力はあるのかという素朴な疑問が湧いてくる。
日本の労働生産性の低さが問題とし浮かび上がってきた背景には、付加価値を生み出す経済の主体が製造業からサービス産業に移行したこと、製造業内においても労働の質が変化し、労働の総体としてサービス業が主体の経済構造に変化したことがある。そこに、この変化に対応して企業組織や経営を変革し得ないでいる経営陣がいる。
物造りの日本と喧伝されるように製造業は世界でもトップクラスの労働生産性を誇っている。得意なこと(製造)に必要以上にこだわり、不得意なこと(サービス)に目を向けなければ、いつまで経っても不得意なことが不得意なこととして残る。将来的に不得意なことが縮小してゆくのならば、何もしないで放っておくという選択肢もある。しかし、サービス業が経済主体となり、この傾向が加速しているなかで放っておくことは自殺行為になる。
労働のほとんどが製造現場でなされる製造業では労働生産性はその多くを労働現場の環境に依存する。一方サービス業における労働は直接社会に関与するかたちでなされることが多く、その労働生産性は社会構造や一般社会常識、消費形態に依存する部分が大きい。そのため、製造業の方がサービス産業より関係する要因が少なく、また多くが自己の管理下における性格のものであるため、労働生産性を向上させ易い。まるで古典力学の世界のように明確な一つの解があるところに留まって、そのなかでの改善を進めたいという安易な逃げの姿勢が必要以上の「物造りの日本」の氾濫を招いているように見える。社会に直接関与するが故に検討しなければならない要因が多く、しばし明確な一つの解が得られないサービス産業における労働生産性に関しては、「物造りの日本」における主張とは打って変わって、意識的に当事者意識を希薄にし、責任を他人に押し付ける発言、態度が目に付く。
随分前だが、朝日新聞が次のようなことを書いていた。「経済界からホワイトカラーの働き方の改革を求める声が強まり。。。」、「日本のホワイトカラーの生産性が低いのは言われている通り。個人の能力をどう上げるか、どの企業でも重要な課題になっている」 ちょっと立場の違うものとして言わせて頂。問題として上げられている生産性、国全体の経済活動の効率性を示す指標であって、労働者の能力だけを示すわけではないことを分かってて言ってるのだろうなと聞きたくなる。
今更何をである。ホワイトカラーの生産性が低いのはホワイトカラーワーカーにも責任の一端はある。あるのは認めるが、労働生産性を左右するのは、ここのワーカの意識や能力である以上に、労働環境と労働組織にある。製造現場にいくら優秀な作業者、エンジニアがいたとしても、それなりの製造設備がなければ、現代工業はなりたたない。人にいくら早く歩けといったところで、馬の速度にはかなわないし、まして新幹線も使わずに江戸時代よろしく徒歩で関西へ出張というわけでもないだろう。何をどのようにすればホワイトカラーの労働生産性をどのくらい改善することができるのかという試算どころか、そのようなことを思いつくこともなしで、ただ体育会系ののりで叱咤激励したところで何の改善にもならないことは経験済みだろうが。小学校の高学年でもこの手の経験からは少なからず何かを学ぶだろう。一端の経営者たるもの、肩書きの重い経営コンサルタント、日本を代表するマスコミ関係の方々、ご経験からいったい何を学んできたのかとお聞きしたくなる。
上の新聞記事からの引用を見ると、経験していることすら認識できないような経営陣が主張しているのは、自らが責任を負ってやらなければならい生産性を上げるための労働環境の提供や組織変更などを棚にあげて、誰に改革を求めているのか?ホワイトカラーの労働生産性の問題を個人個人のホワイトカラーワーカーの能力に一方的に押し付けているに過ぎない発言としか聞こえないのだが。
労働生産性に最大の責任を持っているのは、個々のワーカーではなく、経営陣であることの自覚もないのか?労働生産性の改善の主体は、今も昔も、個々のワーカーにではなく、経済界の主体である経営陣だ。
p.s.
たかが新聞記事、記事の内容よりその背景が事実に近いという読み方で読めば、ホワイトカラーの給料をさげる財界のご都合、そのために下げて当たり前という風潮つくりに朝日新聞が一役かっているということになるのか。
Private homepage “My commonsense” (http://mycommonsense.ninja-web.net/)にアップした拙稿に加筆、編集
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〔opinion1264:130426〕
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