死刑廃止論へのプレリュード (5)
- 2013年 6月 20日
- 交流の広場
- 山端伸英
36. 凶悪犯は死刑廃止後どのように処遇されるべきなのだろうか、という設問から。
「マテオ・ファルコネ」(メリメ)の父親による処罰は伝統的社会組織と国家との対立を描きだす。ここでは国家の侵入を拒否する社会の掟に従がう人間集団の「私刑」にこそモラルが存在している。ここに描かれた国家や官吏の卑怯さ加減を子供の両親たちの常識と比較すべきだろう。「国家」の介入を許す行為には「私刑」が存在する余地がある。
「国家」はあくまで〔「市民社会」が自立したモラルにしたがって「事件」を「裁決」することを拒否することによって〕存続しているに過ぎない。「国家」による「裁決」自体が「市民社会」への介入である以上、「国家」からの「死刑判決」と国家の名による「死刑執行」は自立した人間存在を生む「市民社会」への「国家権力」の介入でしかない。それは人間としての立場から拒否されて当然と言える。禁固刑や懲役刑、そしていくつかの緩和策および厳罰化についての議論は別の「罪と罰」を論じる機会を持てばよいのだが、それは刑法と刑事訴訟法の大冊がどこまで「国家」との距離を置けるかの問題にも関連する。
同時にここでは「市民社会」自体が、「資本主義的会社組織」や「麻薬犯罪組織」のようなそれぞれ独自の擬似モラル体系を形成しながら内部統制を行なう人間集団に対してどのようなスタンスを採るかという問題が付きまとう。
この点、現段階における「市民社会」の性格への疑問が次の判決のように「国家」側から投げかけられることもありえる。
〔朝日新聞デジタル 6月20日(木)10時57分配信
【伊木緑】東京都港区のマンションで2009年11月、飲食店経営の男性を殺害したとして、強盗殺人罪などに問われた無職伊能(いのう)和夫被告 (62)の控訴審判決が20日、東京高裁であった。村瀬均裁判長は「一審判決は、2人を殺害した前科を重視しすぎている」と指摘し、一審・東京地裁の裁判 員裁判の死刑判決を破棄。無期懲役を言い渡した。裁判員裁判による死刑判決が二審で覆るのはこれが初めて。〕
裁判員が「市民社会」を代表することはないにせよ、制度的には代理させられているのであって、それは「国家」側の「市民社会」への介入の一面でしかない。しかし、それでも、日本における「市民社会」の形成どの一端が問われる判例と言えよう。
37.死刑にはなされなかったものの、三木清や戸坂潤は死刑以上の残酷な状態と恐るべき「自己中心的な」日本人の忘却の中で戦後一ヶ月ほどで未必の拷問死を遂げた。あの戦争からの解放の日も、この両名、あるいはそれ以上の政治犯という無実の罪で刑務所にいた人たちは何日にも渡り、暑さと疥癬に体も精神もがたがたに踏みにじられていたのだ。これは日本人という集団の「希望に対する大逆事件」とも見なし得る。死刑の廃止はこのような「国家による殺人」を許してはいけないという同意を必要とする。
38. 僕たちの近代史は「国家の殺人」に満ちている。「西南戦争」「大逆事件」や戦前戦中の思想弾圧、などにとどまらず東学党撲滅作戦、張作霖暗殺などなど、最近では内閣総理大臣という職名の戦犯の孫筋が(こういうのを平然と政治家にしている程度の市民社会があるわけだが}日本政府や日本軍による「侵略はなかった」という戦時期への発言がある。ここではむしろ日本の「市民社会」のモラルと成熟度が国際的な話題になっているので、国際世論は、別に波風立たずの日本社会を期待しているわけではない。「死刑廃止」についても、国内での世論はむしろ国際世論に反して「死刑肯定」に傾いているのではないか。この疑念が根拠のないものであることを祈っている。
39. 「死刑判決」と「死刑執行」は「国家の殺人」のシステムの一環でしかない。国家は僕らを殺しえるから「国家」なのであって、課税に勤め、福祉を出し惜しみ、最後の砦だった郵貯を解体し、国旗の掲揚と国歌の斉唱を「教育」として押し付け、勤労を義務付けながら、後ろでは資本主義勢力と結託して雇用を「調節」し、「市民社会」を生かさないように、しかし、死なないように「飼育」している。日本民族は称揚されているわけだが、もちろん、だまされている張本人が日本民族であるわけだ。
番外:No.32 で「11人の怒れる男たち」と誤記した。正しくは「12人の怒れる男たち」、ヘンリー・フォンダが出演している。ほかにもいくつか誤記があるが後ほど訂正版を作成したい。(メキシコ、モレリア市にて)
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