死刑廃止論へのプレリュード (13)
- 2013年 8月 4日
- 交流の広場
- 山端伸英
74. 最近の日本の政治家の動きはますます民権から国権へと立場を反動的に変えており、しかも、国際的には「麻生太郎」に代表されるような「ならず者」ナチスの手先が大手を振って歩いている。もうこれは隠しようがないほどの日本国民の恥なのであるが国民はまた、このような状態に居直るかのような態度を国際社会に表明している。選挙前のメディアの態度は、正に態度どころか視線や世界観まで国内に限定されて石破あたりの恫喝に悲鳴を上げている。良心派と自分を割付けしている人たちの正論はそれぞれのブログに閉じ込められていた。
また、かなり前の話であろうが(実際僕は、日本が斯くもの馬鹿社会になったことを最近知った)、桜チャンネルとかいうニュース番組で水島という解説者が「死刑執行」許可書にサインした千葉法相の行動に対し「左翼」という言葉を出して人権問題だと批判している。しかも、千葉法相は「死刑執行」に立会い、「死刑執行」を遺族たちに公開にしようと発言している。自分を「死刑執行」に立ち会ったアンジェリーナ・ジョリー演ずる主人公と同一化しているのかもしれない。元社会民主党員だった彼女は法務大臣職に就くまでは「死刑廃止論者」だったそうで水島解説者はその変節も突いている。
水島解説者のキャスターとしての性格は体制派であり、それはシステム化したと思えるほどに日本にはびこる自民党イデオロギーの体現者のスタンスである。町内会で「アメリカさん」とか「共産党」がどうのこうの言う次元で彼はメディアの中にいる。そういう人たちの蔓延する社会で、政治家をやるということの意味が「元社会民主党員」の千葉法相にはわからない。
マルクスはフランス二月革命の時期に、ある意味では外国人の目でその歴史に立ち会ったのだが、その状況内部では保守政治家であるトクヴィルが忍耐強く事態を観察していた。
《フランスには作ることのできないものが、ただ一つだけある。それは自由な政府である。そして破壊することのできない唯一の制度がある。それは中央政権である。どうしてそれは消滅しえようか。政府の敵はそれを好み、支配者もそれを熱愛している。支配者は、本当のところ、いつか中央集権が彼らを回復不可能となるような突然の災難にさらすことがあるということに気がついている。しかしこういうことがあっても、支配者は中央集権に嫌悪の情を持つことはない。中央集権が彼らの手にもたらすことになる、すべてのものにかかわっていく喜びや、彼ら自身の手にそれぞれを把握する喜びは、こうした危険にも甘んずるという態度を彼らにとらせるのである。彼らはより安全でより長くその支配が保たれるよりも、快適な生活のほうを好むのであり、彼らは摂政時代の道楽者のように、「太く短く」と言うのだ。》(フランス二月革命の日々、トクヴィル、岩波文庫)
そして現代では、中央集権体制は民主主義という名のビルト・イン・スタビライザーの下にあり、「死刑制度」こそ、その中央集権的な発想と切っても切り離されない仕掛けなのである。民主主義を民権化するための勢力は、現在の「優等生」たちではダメなのだ。「死刑」は優等生たちにとっての危険すぎる劣等生たちを闇から闇へと葬る道具でもあり続けている。
75. 最近の日本では警官がしばしば発砲を繰り返している。日華事変が発砲で始まったことを思えば、国内の平和ボケはここまで進行したかと、改めて集団痴呆症研究の必要性が問われるだろう。僕もしばしば射撃場にいって銃器を試すのだが、最近は頓に視力の問題が生じてきている。国際テロリスト教練の立場からメキシコにこられた際にはその射撃場にご案内しますけど、訓練をつんでいる国家公務員である警察官が街頭での犯罪者一名に射撃を行う場合は一発か、多くとも二発の射撃に抑えるべきであろう。最近、刃物で抵抗している犯罪者に七発の発砲を行ったという記事も読んだ。
現在、フロリダでの自警団員の黒人青年射殺事件について書いているのだが(日本人は自国のことしか考えない反日本憲法的エゴイスト集団なので日本語で書くのは一度迷ったのだが、今回は自警団員がメキシコ系なのでスペイン語で書くのはあまりに「危険」。要するに日本人社会にはもっと早く日本国憲法前文的な感覚を持っていただきたい。)、その自警団員は一発で青年を殺している。さらに問題を深めているのは(日本では七発撃っても問題は深まらない)、自警団員自身も、フロリダの陪臣席もレイシストに固まっていたということだ。それ以上に深刻なのは(日本では警官なら何でもお上の意向になるらしい)、警察側も自警団活動をバックアップしている現実があることだ。幸いにもアメリカ社会自身がこれらの連関に敏感でかなりの市民活動かが動きに動いてこの問題を州レベルから連邦レベルにまで引き上げた。陪審裁判の最悪の事例が作られたわけで、この件には今後も注目していきたい。
なぜ、これを「死刑廃止論」の前奏として語るのか? それは「国家の殺人」であるからだ。裁きの過程もなく日本では警官の発砲権を拡大しようとしているのではないか。まあ、日本におられる日本人には日々肌で感じられることでしょうけど。言わずもがなでした。ごめんなさい。
*「マティオ・ファルコネ」の件につきましてお便りをいただきありがとうございました。現代法では、あるいは当時でも、あの殺人は刑事事件だと思います。ただ父親には後悔はないでしょう。ただもう少し時間をください。それから今後は次のメールでコメントいただければ幸甚に存じます。 noeyamahata@gmail.com
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