「終戦記念」報道への違和感 ―「感傷と詠嘆」では立ち向かえない時代に ―
- 2013年 8月 24日
- 評論・紹介・意見
- 半澤健市終戦記念
今年も8月15日の前後に「終戦記念」番組と記事がテレビと新聞に現れた。その多くは、真面目な意図でつくられていると感ずる。私はそれを観たり読んだりして失望し、落胆し、落涙した。何という愚かな作戦であったのか。何というブザマな敗北であったのか。他に打つ手がなかったのか。何という悲劇を日本人は演じたのか。
《通史のないエピソード》
しかし同時に「終戦記念」報道に対する、私の「違和感」が年々募っているのも事実である。一度は言いたいと思っていたので率直に書く。
「我々は将棋の駒のように使い棄てられた」という老兵士。「軍隊は国民を守らないものだと知った」という老婦人。そして「平和ほど大事なものはない」と結ぶ結末。そこにウソはない。彼らの感じた事実であろう。結論も間違いではない。いずれも涙をそそる。しかし、それらは「通史のないエピソード集」ではないのか。「ディテールだけが生き生きした」報告集ではないのか。「感傷と詠嘆」の言語パレードではないのか。不謹慎を承知でいえば、9回の野球試合の中盤3インニングだけを取り出してスコアを付けている。歴史の文脈を離れている。それはどういうことを意味しているのか。
「大東亜戦争」が、どうして、だれによって、どこで、どのように、きまって、はじまったのか。「大東亜戦争」は、どうして、だれによって、どこで、どのように、きまって、おわった(負けた)のか。あの戦争は世界史になにを残したのか。20世紀の人類にそれはなにを教えているのか。何よりも我々日本人はあの戦争にどんな結論を出したのか。この最も「基本的な視点」が、ほとんど不明のままに「終戦記念」報道には、「感傷と詠嘆」だけが氾濫しているのである。どうしてもそうとしか私には思えないのである。
《多数派に逆利用されるおそれ》
お前の物言いは大袈裟に過ぎるのではないか。そんなことはみんなの承知している前提である。人はこういうかも知れぬ。
しかし時代は、「戦後レジームからの脱却」、「日本を取り戻す」を是とする者たちが多数派の時代なのである。そういう事態となった現在、「基本的な視点」不在の「感傷と詠嘆」の無力は明らかである。逆利用さえされかねない。
なぜこんなことになったのか。この状況からの出口はないのか。それに答えるには別の長い文章を必要とするだろう。今回は読者への問題提起にとどめたい。
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