青山森人の東チモールだより 第248号(2013年9月18日)
- 2013年 9月 18日
- 評論・紹介・意見
- チモール青山森人
<19年振りの再会>
いまがいい季節
猛暑・酷暑、ただちに命を守る行動をとらなければならないほどの豪雨、竜巻、そして台風18号と、まるで自然が人間に挑戦しているかのような厳しい自然の脅威にさらされている日本に比べ、8~9月の東チモールは、「こっちにおいでよ」といいたいくらいすごしやすい気候にあります。
いま首都デリ(ディリ、Dili)でも明け方は28℃を下回るし、湿度は60%ほど、心地好くグッスリと眠れます。標高の高い地方だと明け方は相当に冷えます。わたしは先週マヌファヒ地方に泊まりましたが、明け方はTシャツのうえに半そでの寝巻きを着て、その上に長袖のシャツをはおりようやく温かになるほどの冷え込みでした。たぶん10℃半ばの気温だったことでしょう。
南半球の東チモールは今は乾季、日本でいう“冬”です。これからだんだんと湿気が高くなり10~11月ごろ雨が降り出し、じめじめした“夏”に向かっていきます。
『テンポ=セマナル』、ついに休刊、そして復活
この『東チモールだより』(第246号)でも紹介したように、『テンポ=セマナル』紙はスポンサーや広告が付きにくい状態になり廃刊に追い込まれています。そしてついに8月末から発行できなくなってしまいました。9月第一週の版は、政府とインドネシアとのあいだで結ばれた薬事業界の大型契約をめぐる記事の活字が躍る予定でした。
今回『テンポ=セマナル』が休刊に追い込まれたのは、特定の記事を握りつぶさんとする闇の力が働いたわけではなく、かなりの額の滞納をうけているため資金繰りが苦しくなったからです。つまり『テンポ=セマナル』への大口の支払いが滞っているからなのです。わたしの観察からすれば、もし『テンポ=セマナル』が売れた分の支払いを普通に受けていれば、まだまだ経営できる状態にあるはずです。滞納しているのは、誰か。当然、大口の定期購読者である権威筋です。ただし、権威筋が新聞社に滞納しているのは『テンポ=セマナル』紙に限ったことではなく他社も似たり寄ったりです。
『テンポ=セマナル』の経営状態が苦しいのは、汚職を厳しく追及するその姿勢から政府との関係の悪化を心配する企業の広告が離れていくためです。
『テンポ=セマナル』主宰のジョゼ=ベロ君は現在、記者たち全員を自宅待機させ、同紙の前身である『ディアリオ』紙創設当時の仲間3人と復刊を目指しています。政府から滞納されている支払いを受ければすぐにでも発行できる、「もうすぐだ」、とジョゼ=ベロ君は楽観的です。
他のジャーナリストに『テンポ=セマナル』についてきいてみました。かれは、『テンポ=セマナル』はいいWEBサイトをもっている、情報発信ならインターネットで十分だ、無理して紙媒体で出すことはない、といいます。しかしジョゼ=ベロ君は、WEBサイトは新聞とは別物であり、新聞は政府により大きな圧力を与えることができるし、一般の庶民にニュースを伝えるのはインターネットでなく紙媒体でなければならないと新聞にこだわります。
また前述のジャーナリストは『テンポ=セマナル』はあまりにも攻撃的だともいいます。しかし証拠を示して汚職を報じるのは報道機関の使命ともいえる正当な行為で、これを「攻撃的だ」と評価するのは疑問です。この国の新聞は、経済発展の影響をうけて建設会社や食料品店や電話や車・バイクの広告に溢れ、これに当たり障りのない記事が引っ付いているという構成になっています。これは新聞の自殺行為であることを早く気付くべきです(日本の新聞も然り)。
『テンポ=セマナル』が早く復刊し、汚職を追求する記事で政府へ警告を鳴らし続けてほしいと思う……とこれを書いているうちに、わずかな発行部数ながら『テンポ=セマナル』(9月17日号)が刷られました。第一面の見出し、「副首相、間違った契約に調印」、インドネシアから薬を購入する契約をするフェルナンド=デ=アラウジョ(ラ=サマ)副首相の写真を大きく掲載しています。次は同紙の記者たちを呼び寄せて真の復活を遂げてほしいものです。
9月初め、タウル=マタン=ルアク大統領とイザベラ夫人はボボナロ地方の農村を歩いて視察した。いかにも元ゲリラ参謀長らしい発想である。子どもたちが机も椅子もなく床に座って勉強している有様を見て心が痛み、9月16日、大統領府で学校に机・椅子を送るための基金を創設する式典をおこなった。東チモールでは全国8万人の学童が机と椅子のない状態で勉強しているという。「10ドルでも、たとえ1ドルでも心のこもった寄付をお願いしたい」と大統領は訴えた。2013年9月16日、大統領府の「中華人民共和国・貴族大広間」(中国が建てた大統領府なだけに、なんとまあ仰々しい名前の大広間だこと)にて、タウル大統領とイザベラ夫人。ⒸAoyama Morito
19年振りの再会
ファトマカ高校の敷地に総合技術大学を創設する計画の進展の話を聞くため、わたしは9月15日、ファトマカ高校を訪問しました。5月に訪問したときに見た工事現場はその基礎工事の進み具合を見ることができました。
日本でいう教頭先生の立場にあるアドリアノ=マリア=デ=ジュススさんによれば、ドイツや韓国が支援に興味を示しているといい、いま、外国の教育機関や国際援助団体へ支援を申請するため実行可能な計画書を作成中だそうです。日本の教育機関や援助団体も総合技術大学を創設に興味を示し理工系の人材育成に貢献いてほしいと願います。
ファトマカからバウカウの中心地を通過してデリへ戻るまえに、バウカウ中心地に位置する環状交差点からさほど遠くないカイバダの村を訪問しました。ここを以前訪ねたのは19年前の1994年、山城周桑カメラマンと半日隠れ家として滞在したときでした。
この家の人とのやりとりは、拙著『抵抗の東チモールをゆく』(社会評論社、1996年)の86~87頁に収録されています。1975年にポルトガル軍に入隊し、1976年インドネシア軍と戦ったが捕まり8年間刑務所につながれた「Mさん」として登場しています。この「Mさん」、ドミンゴスさんはわたしが会った当時40歳代で、わたしはなんとかポルトガル語で会話しました。再会したとき、われわれはポルトガル語で会話しましたねえ、とわたしたちはテトン語で再会を喜びました。家は当時のままです。あれから19年も経ちましたが、お互いの顔を指差して、この顔は覚えているよとわたしたちは言い合って笑いました。
ちなみにわたしが東チモールに初めて足を踏み入れたのは、ちょうど20年前の今ごろです。あれから20年もたったとは、「光陰矢のごとし」としかいいようがありません。
20年前、わたしと山城周桑カメラマンが東チモール解放闘争の実態を取材したくデリの宿(現在のホテル=ビラベルデ)に滞在しているとき、正面のデリ大学(現在の東チモール国立大学の前身)の学生だったジョゼ=ベロ君がわれわれの宿を訪ねてきました。お互い、敵か味方か、狐と狸のばかし合いのような会話をして腹の探りあいをしたジョゼ=ベロ君との付き合いは奇妙にも今も継続し、かれの子どもたちと遊ぶのがいまわたしの一番の楽しみとなっているとは、人生とは摩訶不思議なものです。ジョゼ=ベロ君は、山城周桑氏や「サンタクスルの虐殺」を撮ったマックス=スタール氏たちの姿に感化されビデオジャーナリストとなったばかりではなく、新聞『テンポ=セマナル』を主宰し政府の汚職と闘っています。
さてドミンゴスさんですが、独立して11年のいま、政府は大きな事業にばかり気をとられ地方の住民や福祉に気を配らず、自分たちの生活は苦しいと嘆いていました。そしてドンミンゴスさんは、昔インドネシア軍からうけた拷問の傷跡がいまも疼くと頭や背中を指差します。東チモール人の心と身体の傷の癒しがなされていないことが、東チモールの真の発展の妨げになっていることは明々白々です。
わたしの最初の下宿先の子・イナンメタン(ブラックマザー、黒い母、子の国でよく使われる愛称)ちゃんは1993年9月16日生まれ、わたしの初東チモール訪問ごろに生まれた女の子だ。その子がもう二十歳になったのだから、自分が年取るのも無理はない。2013年9月16日。ⒸAoyama Morito
~次号へ続く~
記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.ne/
〔opinion1460:130918〕
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