井上清子―わたしの気になる人
- 2014年 2月 16日
- カルチャー
- 阿部浪子
90歳になっても働ける職場は、経営者が立派だからであろうか。
わたしは、浜松市立高校を卒業している。先輩の須藤トキさんは、90歳まで、東京銀座の井上特許事務所につとめていた。女優の森光子や作家の萩原葉子とおなじ年の生まれだ。1920(大正9)年、東京に生まれ、旧国鉄勤務の父親の転勤にともない、当時の浜松高女に通うようになった。1949(昭和24)年から60余年つとめ、3年まえ職業婦人を引退したのだった。夫がなくなったあと、ひとり息子を女手で育ててきたのである。
須藤さんは長年、東京とその近郊に住む浜松市立高校卒業生がつどう、曳馬野会の会長をひきうけていた。おっとりかまえる浜松出身者を、東京育ちの積極的な須藤さんは、歯がゆく思ったかもしれない。わたしは、その同窓会で須藤さんと出会っている。
勉強家の須藤さんは、小著『平林たい子―花に実を』(武蔵野書房)も、こんど刊行した『書くこと恋すること―危機の時代のおんな作家たち』(社会評論社)も、購入してくれた。その読後感も心がこもっていて、著者をわくわくさせた。たのもしい先輩である。
いつであったか、須藤さんのつとめる特許事務所をたずねて、経営者の井上清子(1907~2000)に取材している。井上は、1935(昭和10)年、国家試験に合格した、日本初の女性弁理士だ。〈女なんぞ、うかりっこない。うけたいならうけてみろ〉。両親のことばに井上は発奮するのであった。小学校高等科しかでていないので、京橋図書館と上野図書館で猛勉強する。2度の挑戦で、みごと国家試験に合格。その快挙を2つの図書館の職員たちが合同で祝ってくれたという。
男装の、こがらな女性が目のまえに現れたとき、わたしはビックリ仰天した。背広は有名店の男もの仕立てで、生地は薄いブルーのチェック。太めのネクタイもブルー系のしま模様。白髪の頭は刈りあげてある。くぼんだまぶたが美しくピンク色に染まっている。おや、アイシャドーかな? よくみれば、化粧はまったくしていない。顔の血色がよいのだ。ひげはない。戦前のこと、男装しなければ、男性優位の社会に伍していけないと、井上のプライドがそうさせたのかもしれない。いらい男装をつらぬく。若いころは、消しゴムを職員にとばすほど激しかったが、老いては、ものいいがとても優しい。恥じらいの表情がすてきだ。ほんのりとわたしの心に染みてきた。
銀座の井上特許事務所は、歌舞伎座の近くにある。ビルの上階のフロアには、15人が働いていた。須藤さんが事務長である。井上は、他人の話にしっかり耳をかたむける人だ。そのとき、コピーの著作権にかんする仕事をしていた。菓子袋のデザインの類似が出回っているため、そのチェックもしていた。
井上は、東京の月島に生まれている。いっしょに住む姉が、妹の週3回の通勤に手べんとうを用意する。なかには7品ものおかずが詰まっているそうだ。自宅の南青山から職場まで電車でかよう。この生活スタイルをずっと守りとおしてきた。〈頑固者だ〉と、須藤さんは社長を批評する。そうでなければ、井上の仕事は継続できなかったであろう。弁理士は、法律の知識が必要なうえに、技術の習得も求められる。弁護士よりも仕事のスケールが大きいらしい。
井上は、市川房枝とひさしく交流してきた。市川は戦前、女性の参政権を求めてたたかった人だ。戦後は政治家として有名だが、もうひとつ、一般の人が工業所有権、意匠、商標、デザインについて認識をもつよう啓蒙活動をしている。困窮者が経済的にうるおうよう、井上特許事務所に相談して、発明、アイデアを権利化することをすすめている。このことはあまり世間に知られていなくて、井上は残念だと話していた。
井上のような仕事にいちずな経営者がいて、須藤さんは90歳までも働けたのだと思う。
〈「浜松百撰」(2013年8月)より転載〉
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
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