湯浅芳子―わたしの気になる人
- 2014年 3月 3日
- カルチャー
- 阿部浪子
女どうしのケンカが、大事なものを壊してしまうことがある。もし田村俊子賞が継続していたら、女性文学者の輩出とその成長をあとおししたろうに。と思うと、田村俊子賞のなくなったことは残念だ。
湯浅芳子(1896~1990)を知っているだろうか。ロシア文学の翻訳家として著名だった。晩年は老人ホーム、浜松ゆうゆうの里に住んでいた。生前、ラジオからこんな情報が流れてきたのを覚えている。芳子が、新幹線浜松駅の洗面所に手提げの紙袋をおきわすれた。そのなかには田村俊子賞にかんする書類が入っているので、拾った人はとどけてくれというのである。その紙袋がその後どうなったか、わからない。ただ、田村俊子賞はなくなっている。このころのことか。芳子と作家、佐多稲子のケンカがあった、というのは。
わたしは、平林たい子の伝記的作家論を書くため、その関係者を取材していた。そんななか、昭和初期に発行された「女人藝術」の編集員だった熱田優子が、意外な話をした。〈稲子が、芳子に絶交状をつきつけた〉というのだ。その後に田村俊子賞はなくなっている。
田村俊子賞は、作家、田村俊子の死後に生じた印税をもとに1960(昭和35)年に設立された。田村俊子会を発足させた芳子が中心に運営される。すぐれた女性文学に授与され、17回までつづき1976(昭和51)年に終わっている。第1回は瀬戸内晴美(寂聴)の「田村俊子」が受賞。毎年4月、鎌倉の東慶寺で授賞式は行われていたが、その会場に選考委員の稲子が「婦人公論」の記者2、3名を連れて現れた。〈また連れてきた!〉芳子がすごい剣幕で稲子を叱責した。前年にその記者たちがさわぎたて芳子は腹にすえかねていた。もともと人前でずけずけものをいうその人から、しかも公的な場でどなられ面目をなくした稲子が、絶交状を書く。それを機に稲子は選考委員も辞任している。さすが強気の〈ワンマン〉もこたえて、意気消沈したのだった。
芳子を日ごろから恩人と思っている作家の網野菊が、芳子のしょげた姿にどうしたのかとたずねた。芳子がかくしかじかだと答える。〈わたしゃ、ああいう如才のない人はきらいだ。どの人にもいい顔して〉。稲子を批判した。菊は、疎開先で芳子にあずけた原稿を作家、志賀直哉に初めて見てもらっている。芳子が無責任であれば、戦後、網野菊の作家としての道は開けなかった。芳子はありがたい人なのだ。この菊が優子に語った〈稲子の絶交状〉話である。
芳子は、京都の裕福な商家に生まれる。ドストエフスキーなどロシア文学に傾倒し、19歳からロシア語を学んでいる。田村俊子の文学に惹かれたのは、このころのことだ。作家の中條(宮本)百合子とモスクワに留学したのは、1927(昭和2)年から30(昭和5)年であった。芳子の新劇の翻訳はみごとなものだ、と優子は絶賛する。チェーホフの「桜の園」「かもめ」などの翻訳がある。1本のニンジンを3とおりに料理してみせる倹約の人。軽井沢に複数の別荘をもつ蓄財の人。しかし芳子は〈つきあいにくい人〉なのだ。ほうきの使い方まであげつらうから、自宅にお手伝いも居つかない。
留学から帰国したあとも、芳子は百合子と交流している。1931(昭和6)年には、東京で同居する。2人は同性愛を共有し、おたがいに人格を高めあい、専門分野を向上させる。ところが翌年になると、芳子が勤務していたソヴェート友の会の仕事で関西へ出張中に、百合子が家を出てしまう。新進の文芸評論家で、プロレタリア解放運動に挺身していた宮本顕治(のちに日本共産党議長)のもとへ走ったのであった。芳子は憔悴のあまり勤務先を〈一週間も欠勤した〉という。同僚で作家の若林つやが証言した。芳子はデリケートな人にちがいない。
顕治との異性関係が発覚したとき、百合子は「男と女の関係は女と女の関係とは違う」と、主張する。芳子は「生理的な器官はちがってもふたりの人間の愛にどんな違いがあるというのか」と、反論する。芳子の生の軌跡を追った沢部仁美(ひとみ)の『百合子、ダスヴィダーニヤ』(文藝春秋)にくわしい。芳子は自分自身のために真摯に生きた人であることは、たしかだ。
〈「浜松百撰」(2013年9月)より転載〉
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
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