変貌するキューバ -16年ぶりに見たカリブ海の赤い島(上)-
- 2014年 4月 17日
- 評論・紹介・意見
- キューバ岩垂 弘
「キューバを見る聞く知る8日間ツアー」の一員として、3月6日から13日までキューバを訪れた。キューバとの友好促進を掲げて活動している市民団体「キューバ友好円卓会議」が企画したツアーで、同円卓会議がキューバに訪問団を派遣したのは2008年に次いで2回目。私は、これに先立つ1998年にも生協関係者を中心とする「日本生協・協同組合キューバ交流団」に参加して同国を訪れており、いわば16年ぶり2度目のキューバ旅行であった。
私と共にこのツアーに参加された田畑光永氏が、すでに本ブログに「転機は近いか―キューバ社会主義の今」を発表されているが、私もまた今回のキューバ旅行で特に印象に残ったことを書いてみたい。その前にツアーの概要を紹介しよう。参加者は21人。男性11人、女性10人。年齢別では70代4人、60代14人、50代2人、20代1人。居住地は全国各地に散らばり、職業も医師、医学生、翻訳業、ジャーナリスト、編集者、元教員、鍼灸師、保育士、製塩業、自営業、農業従事者、年金生活者、主婦らと多彩であった。
行きも帰りもトロント(カナダ)経由の空路であったが、ツアーを受け入れてくれたのはICAP(キューバ諸国民友好協会)。こちらが事前に見学したい施設のリストを提出し、それに基づいてICAP側が見学コースをアレンジした。こちらの要望はほとんど認められ、私たちは航空機とバスで首都ハバナ、第2の都市である東部のサンチャゴ・デ・クーバ、中部のサンタ・クララなどを移動し、医療、教育、有機農業、観光などに関する施設や、この国の歴史と革命に関する施設(モンカダ兵営博物館、チェ・ゲバラ霊廟、ホセ・マルティ墓地など)を見学した。短い期間にもかかわらず「あれも見たい。これも見たい」と欲張ったため、かなりのハード・スケジュールとなった。
一変していた空港
16年ぶりにキューバを再訪した私がまず抱いたのは「キューバも変わったなあ」という感慨であった。
例えば、私たち一行が降り立ったハバナのホセ・マルティ国際空港。成田空港やトロント空港にもひけをとらない大きな国際空港だった。16年前に利用したホセ・マルティ空港はみるからにみすぼらしく、まるで当時の日本のローカル空港のようなたたずまいだったが、それが、多数の外国人観光客でにぎわう大規模な空港になっていた。出発ロビーでは外国人の長い列ができ、免税の売店も外国人で混雑していた。
そればかりでない。サンチャゴ・デ・クーバの空港も見違えるような立派な空港に変わっていた。ここも国際空港化されたようで、ターミナル待合室には外国人観光客の姿が目立ち、空港の外には何台ものタクシーが客待ちしていた。私たちはハバナのホセ・マルティ国際空港から国内線のプロペラ機でこのサンチャゴ・デ・クーバ空港に飛んだが、帰りはジェット機だった。16年前は往きも帰りも小型のプロペラ機。まさに、サンチャゴ・デ・クーバ空港の大型化、国際化を実感させられた光景だった。
こんなこともあった。私たちがサンチャゴ・デ・クーバ空港に降り立つた時のことだ。機体が滑走路わきに止まり、扉が開いたが、先がつかえてなかなか外へ出られない。何事かと不審に思っていると、ようやく外に出る順番に。扉に取り付けられたハシゴを降り始めると、外は雨。すると、傘をさした男が私に寄ってきて、私に傘をさしかけ、待合室まで誘導した。空港にはボーディング・ブリッジがない。だから、空港の係員たちが、私たちが雨にぬれないようにと、私たち1人ひとりに傘をさしかけて誘導したのだった。用意していた傘の数に限りがあったのだろう。多数の乗客を傘さしで誘導するのに時間がかかり、待たされたのだ。一行の誰かがつぶやいた。「空港で傘をさしてもらえたなんて初めての経験だな。この国は、それだけ外国人観光客を大事にしているんだろう」
高層ホテルもお目みえ
外国人観光客向けのホテルも16年前より格段と増え、その設備も良くなったように思われた。
サンチャゴ・デ・クーバでは、街の高級住宅街に15階建てのモダンなホテルができていた。街で一番高い建物だそうで、名称は「メリア・サンチャゴ・デ・クーバホテル」。5つ星ホテルで客室は307。16年前にはなかったものだ。それを見上げていたら、これまでキューバで続けられてきた外国人向けホテルの増設とその高級化を象徴する建築物のように思えてきた。
倍増した外国人観光客
昨年刊行された西林万寿夫・前駐キューバ大使著の『したたかな国キューバ』(アーバン・コネクション)にはこんな記述がある。「キューバを訪れる日本人は年間6000人程度。カナダからの100万人、イギリス、スペイン、フランス、ドイツ、イタリアといった欧州諸国からのそれぞれ10万~20万人に比べると数字ははるかに小さい」
ということは、キューバにはカナダ人とヨーロッパ人を中心に年間、150万~200万人の外国人観光客が訪れているということだろう。私が16年前にキューバ政府関係者から聞いたところでは、1996年の外国人観光客は100万人であった。とすると、この16年間に同国を訪れる外国人観光客はざっと倍増したことになる。
ついでに今回の旅の間、ハバナで会ったキューバ外務省関係者の話を紹介しておこう。彼は言った。「外国人観光客は依然、カナダとヨーロッパからが多いが、近年はアジアからの観光客が増えている。数では中国が1位、2位が韓国。日本は3位だ」
要するに、空港の大型化もホテルの増設・近代化も、増え続ける外国人観光客に対応するものだったのである。
では、なぜキューバで外国人観光客が増え続けているのか。一つには、海と砂浜に代表されるキューバの自然の美しさと、ユネスコの世界遺産に指定されている数多くの遺跡が、人々を魅了してやまないからだろう。とともに、キューバ政府が観光業を振興するための積極的な施策を続けてきたからだと見ていいだろう。
キューバ革命が成功したのは1959年だが、キューバ危機後の1963年から米国による対キューバ経済制裁が始まった(これはまだ続いている)。これだけでも、キューバにとっては大打撃だったが、1991年のソ連崩壊は、この国に決定的な苦境をもたらした。
それまでこの国はソ連に特産の砂糖を高く買ってもらい、その代金で石油や肥料、農薬を安い価格でソ連から輸入し国の経済を維持していた。が、ソ連の崩壊で、キューバは「85%の市場、50%強の燃料、そして70%の輸入品を突然失った」(カルメン・R・アルフォンソ著、神代修訳『キューバガイド』、1997年、海風書房)。1998年に私がハバナで会ったセルヒオ・コリエリ・エルナンデスICAP総裁は「我が国の経済は、1990年から94年までの5年間に34%もダウンした」と言明した。まさに「キューバ国民は……1990年代前半こそ飢餓寸前のどん底状態にあった」(『したたかな国キューバ』)のだ。 キューバの人たちは、深刻な経済危機に見舞われたこの時期を「スペシャル・ピリオド(特殊期)」と呼ぶ。
危機に臨んでキューバ政府は経済再建政策を打ち出すが、その一つが観光業の振興だった。外貨獲得にはこれが一番手っ取り早い施策と考えたものと思われる。それに、その条件にも恵まれていると考えたにちがいない。何しろ世界に誇る美しい自然と歴史的遺跡に恵まれているわけだから。そして今。その狙いは当たったとみるべきだろう。今や、観光業はニッケル、医薬品、葉巻、ラム酒などの輸出産品と並んでキューバ経済を支える柱となっている。
自動車も増えた
「キューバは変わったな」と思わせられたことはまだある。その一つは自動車が増えたことだった。
『したたかな国キューバ』で西林・前駐キューバ大使は「キューバには現在60万台の自動車が存在し(如何に少ないか!)、うち30万台が国家の所有となっている」と書いている。キューバの人口は約1200万人。そこに60万台の自動車。これに対し、西林氏は「如何に少ないか!」と驚いているわけだが、私の印象は逆だった。夜8時過ぎにハバナのホセ・マルティ国際空港に到着、旅行会社差し回しのバスでホテルに向かう途中、バスの窓から夜の市街を16年ぶりに眺めた印象は「随分、車が増えたな」というものだったからである。しかも、夜、車が市街をスイスイ走っていることに目を見張った。16年前には出合わなかった光景だったからだ。それに、夜の市街は電灯がついて明るかった。16年前は暗かった。
「車が増えた」。こうした印象は、昼間、ハバナ市街をバスで走ったり、徒歩で散策したときも変わらなかった。サンチャゴ・デ・クーバでも、同様の印象を受けた。そればかりでない。サンタ・クララからバスでハバナへ帰る途中、ハバナ市街に入る直前で車の渋滞に遭遇した。
16年前にキューバで目にした車は専ら、1950年代に米国で製造された大型の乗用車だった。まるで、自動車の博物館に来たようだった。そして、今回のキューバ旅行となるわけだが、これらのクラシックカーがまだ悠々と走っていた。それに加えて、最新の乗用車も見かけた。フランス、韓国、中国製だった。観光バスは中国製が多かった。サンチャゴ・デ・クーバでは、オートバイに乗って突っ走る2人組の若者に出会った。
もちろん、キューバ国民の交通手段がすべて自動車になっていたというわけでは決してない。サンチャゴ・デ・クーバ、グアンタナモ、サンタ・クララなど地方の都市では、馬車や牛車が住民の“足”として活躍していた。
ハバナの旧市街もお化粧中
ユネスコの世界遺産に登録されている、ハバナの旧市街も変貌を遂げていた。何よりも見たところ美しくなっていた。16年前は、煤けた建造物や一部崩れた建造物が目につき、いかにも古色蒼然といった感じを禁じ得なかった。しかし、それが、なんと石壁が塗り替えられたり、やぐらを組んで痛んだところを修復中だったりして、私を驚かせた。「これは、キューバ国民に余裕がた出てきた証かな」。そんな思いが私の脳裏をよぎった。
変化は「大きな一歩」
ところで、世間には「どんな国だって16年も経れば変化するさ」「どんな途上国であっても、16年もかければ国が発展するのは当たり前」といった声があることは承知している。たから、キューバがそれなりに発展してきたことは当然と言えば当然なんだが、16年前に「特殊期」直後のキューバ、すなわち、まだソ連崩壊に伴う経済的苦難の中にあったキューバの現実をこの目で見た私には、このたび16年ぶりにキューバの現状の一端に触れてみて、この間のこの国の変化は、この国にとっては後退や停滞ではなく、むしろ「大きな一歩」であったのだと思えたのである。
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