連載・やさしい仏教経済学-(22)持続性と発展と地球環境時代と/(21)多様性は共生と寛容を世界に広げる
- 2010年 11月 12日
- スタディルーム
- 安原和雄
持続性と発展と地球環境時代と -連載・やさしい仏教経済学(22)-
仏教経済学の八つのキーワード ― いのちの尊重、非暴力(=平和)、知足、共生、簡素、利他、多様性、持続性 ― のうち今回は「持続性」を取り上げる。
持続性とは、第1回地球サミットが提言した「持続可能な発展」を指している。これは20世紀末に人類の智慧が到達した新しい概念・思想で、「環境と経済の両立」という程度の狭い理解は正しくない。地球環境の保全を優先させなければ、人類生存そのものが危ういという時代、つまり地球環境時代に人類は生きているという認識に立って、望ましい多様な「発展」のありようを打ち出している。着目すべきは、発展は生活の質的向上に重点が置かれていることで、一方、量的拡大を意味する経済成長は重視されていない。(2010年11月12日掲載)
▽ 持続性は地球環境時代のキーワード
持続性は「持続可能な発展」(=持続的発展=Sustainable Development)の別名である。この持続可能な発展という概念、思想は、第一回地球サミット(国連環境開発会議=1992年6月、ブラジルのリオデジャネイロで開催)が採択した「環境と発展のためのリオ宣言」が打ち出して以来、世界で広く知られるようになった。
意味するところは、二つある。一つは、今後何世代にもわたって、永続的に地球環境の保全を果たさなければ、人類は滅びるだろうということ。もう一つは、地球環境の保全とともに豊かな国も、貧しい国も共に生活の質を向上させていく必要があるということ。このことは従来の経済成長路線、つまりプラスの経済成長によって量の豊かさを追求していくという路線が行き詰まり、それを根本から転換させなければならないことを示唆している。
第二次世界大戦以降の約半世紀は、経済成長の追求を最優先課題とする経済成長時代であった。その時代が招いたものがほかならぬ地球環境の汚染・破壊さらに貧困、飢餓、人権抑圧など不公正、不平等の拡大であり、その結果、経済成長路線は挫折、破綻そして根本的転換を余儀なくされた。そして今、地球環境の保全と生活の質的向上を最優先課題とする地球環境時代に入っている。
このことは持続性(=持続的発展)が地球環境時代のキーワードとして重要な役割を担わざるを得ないことを意味する。一方、もう一つのキーワードとして宗教を挙げなければならない。なかでも仏教思想である。しかも着目すべきは、持続的発展という概念、思想は仏教思想の具現化として捉えられることである。この「持続的発展」と「仏教」の思想をどう融合し、発展させ、実践していくか、その挑戦的試みこそ21世紀における地球環境時代が問いかけている最大の課題である。
▽ 「持続可能な発展」(=持続性)の多様な柱
「持続可能な発展」の概念を豊かに発展させたのが、世界自然保護基金(WWF)、国際自然保護連合(IUCN)、国連環境計画(UNEP)が1991年、発表した提言『新・世界環境保全戦略―かけがえのない地球を大切に』(原題は「Caring for the Earth―A Strategy for Sustainable Living」)である。
持続可能な発展(=持続的発展)を構成する柱を列挙すれば、以下のように多様である。
・生命維持システムー大気、水、土、生物ーの尊重
・人類に限らず、地球上の生きとし生けるもののいのちの尊重
・長寿と健康な生活(食糧、住居、健康の基本的水準)の確保
・基礎教育(すべての子どもに初等教育を施し、非識字率を減らすこと)の達成
・生活必需品の充足
・政治的自由、人権の保障、暴力からの解放
・雇用の確保、さらに失業・不完全就業による人的資源の浪費の解消
・特に発展途上国の貧困の根絶
・不公平な税制度、政治的腐敗、資本の国外逃避、非効率で恣意的な投資などへの対処
・核兵器の廃絶、軍事支出の大幅な削減、軍事同盟の解消
・環境保全を中心とする新しい安全保障観の確立
・公平な所得分配と所得格差の是正
・景観や文化遺産、生物学的多様性、生態系の保全
・持続不可能な生産・消費・廃棄構造の改革と廃止
・エネルギーの節約と効率改善、再生可能もしくは汚染を引き起こさないエネルギー資源 への転換
・生産における原料の再利用促進と廃棄物量の削減
・環境の質の確保と文化的、精神的充足感の達成
以上のように発展(Development)という概念は、政治、軍事、経済、社会、文化、環境など多様な側面から捉えられている。このことは同時に生活の質的向上の多面的な内容を示していることに着目したい。さらに経済成長が一つの柱として掲げられていないことにも注意したい。これはGDP(国内総生産)や所得が増えることは、発展や生活の質のごく一面を示すにすぎない。それどころか自然や環境を破壊しながらGDPや所得が増えることは、発展や生活の質的充実にとってむしろマイナスと理解されているのである。
▽ 持続的発展と仏教思想(1) ― 共生と生命中心主義持続的発展の思想と宗教とは実は深い関係にある。この点があまり気づかれていない。もちろん仏教に限らない。キリスト教、イスラム教、ヒンズー教(注)などとも深くかかわっている。
(注)キリスト教の最大の教えは、「汝の敵を愛せ」である。一方、イスラム教には五つの行(信徒義務)がある。具体的には信仰告白(「唯一絶対神アッラーのほかに神なし」と告白すること)、礼拝(一日五回の礼拝が義務)、喜捨(施しの意で、救貧税や自発的な布施など)、断食(一カ月間、日の出から日没まで一切の飲食を断つ。欲望抑制と清浄な境地を目指す)、巡礼(聖地メッカへの巡礼)の五つ。ヒンズー教では欲望を投げ捨て、「私」、「私のもの」という思いも捨てて、他者へ奉仕する無私の行為を尊重する思想が流れている。
ここでは持続的発展に仏教思想がどのように具現化しているのかを考えたい。以下は持続的発展と仏教思想とのかかわり方についての私(安原)なりの読み方である。
第一に持続的発展は、人類に限らず、生きとし生けるものすべての共生・平等の思想であり、そのいのちの尊重であり、仏教思想の共生と生命中心主義の具現化であること。
これは持続的発展を軸とする「持続可能な社会」(Sustainable Society)の中で「地球上のすべての生命は、一つの大きな相互依存システムの一部」、「すべての生物種と生態系は、人間にとって利用価値のあるなしにかかわらず、尊重しなければならない」(世界自然保護基金ほか編『新・世界環境保全戦略』)などと認識されていることからも明らかである。
この認識は、生きとし生けるものすべての相互依存関係がそのまま共生であり、自然、人、動植物それぞれがお互いに同価値で平等だと捉える仏教思想の生命中心主義とまさしく重なり合っている。
▽ 持続的発展と仏教思想(2) ― 質の充実と不殺生、不偸盗、知足、中道
第二に持続的発展は、量の拡大ではなく、質の充実を意味しており、これは貪欲の否定と知足のすすめ、さらに中道という仏教思想の反映であること。
先進諸国が一層の量の拡大、つまり基本的ニーズを超える物質的欲望と経済成長を追求し、地球環境を汚染・破壊するのは貪欲であり、持続的発展に反する。これに対し、精神的、道徳的な分野も含めて生活の質の充実を追求することは、足るを知ることの智慧の実践であり、少欲にして簡素、節約をも意味する。使い捨て商品を大量生産して無造作に使い捨てる時代ではもはやない。長期使用に耐えるモノづくり、つまり節約こそ大切であり、これは「もったいない」という足るを知る精神の実践である。
一方、持続的発展は発展途上国における貧困の追放、すなわち途上国の基本的ニーズ(必要最少限の水、食料、住居、教育、医療など)の達成を目指している。従ってその基本的ニーズの達成のための経済成長は知足の範囲内であり、貪欲を意味しない。
簡素、節約とは無駄、浪費を惜しむことであって、必要なことまで惜しむ吝嗇(りんしょく)、すなわちケチとは異なる。いいかえれば、持続的発展は貪欲とケチの両極端を排するのだから、これは仏教思想の中道、すなわち正しい道の実践にもつながるといえる。
第三に持続的発展は、戦争、軍備の増強などの暴力を拒否しており、これは仏教の不殺生や少欲知足、中道の思想とつながっていること。
仏教の不殺生戒(ふせっしょうかい)は、殺生を戒めている。国家レベルの殺生の典型例が戦争であり、それを促す軍備の増強も資源、環境に浪費と破壊をもたらすのだから殺生といえる。米国における同時多発テロも、それに対する報復戦争も持続的発展に反する。第一回地球サミットが採択した「リオ宣言」が「戦争は、持続可能な発展を破壊する」と述べていることを忘れてはならない。
非道な殺生は貪欲から生じるのであり、少欲知足の智慧があれば、殺生を避けて、中道の正しい道を選択することができる。
第四に持続的発展は、浪費、廃棄、破壊を拒否し、節約、循環、保全をすすめており、これは仏教の不偸盗戒(ふちゅうとうかい=盗みをしないこと)、少欲知足、共生、中道の思想につながっていること。
リオ宣言は「持続的発展と質の高い生活を達成するために、持続不可能な生産・消費を削減すること」と述べて、持続不可能な生産、消費につきものの浪費、廃棄、破壊を否定している。一方、仏教が説く不偸盗戒についてここでは、その盗むという行為を広い意味に理解したい。
例えば大量生産ー大量消費ー大量廃棄という現代の経済構造の中での資源、エネルギーの浪費、廃棄は地球や自然からの必要以上の無用な強奪、つまり盗みである。失業と不完全就業による人的資源の浪費も、人から仕事の機会を奪うのだから、盗みといえる。
一方、持続的発展は節約、循環、保全のすすめであり、これは少欲知足の実践であり、自然との共生を目指す実践でもある。同時に持続的発展は浪費、廃棄、破壊という悪しき振る舞いやその社会システム・構造を拒否するのだから、ここでもまた中道のまっとうな道理に合った経済、社会、生活を目指すことを意味する。
以上のように持続性(=持続的発展、持続可能な発展)は通常理解されているような「経済と環境の両立」という程度の狭い概念ではない。多様で、幅も深みもある歴史的な概念、思想と理解したい。
<参考資料>
・IUCN(国際自然保護連合)、UNEP(国連環境計画)、WWF(世界自然保護基金)編/(財)世界自然保護基金日本委員会訳『新・世界環境保全戦略ーかけがえのない地球を大切に』(小学館、一九九二年)
・安原和雄「持続可能な発展と仏教思想 ― 日本型モデルをどう創るか」(駒澤大学仏教経済研究所編『仏教経済研究』第三十一号、平成十四年)
初出:安原和雄のブログ「仏教経済塾」(10年11月12日掲載)より許可を得て転載
http://kyasuhara.blog14.fc2.com/
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔study353:101112〕
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多様性は共生と寛容を世界に広げる -連載・やさしい仏教経済学(21)-
仏教経済学の八つのキーワード ― いのちの尊重、非暴力(=平和)、知足、共生、簡素、利他、多様性、持続性 ― のうち今回は「多様性」を取り上げる。
多様性とは何を意味しているのか。生物多様性条約にかかわる名古屋会議(10月末閉幕)には世界各国から沢山の多種多様な人々が集まった。多様性は生物はもちろんのこと、人間、文化、地域、国(政治、経済、社会、体制)、民族、文明のあり方の多様性 ― にまで視野を広げている。このような多様性を重視することは、国、文明のあり方まで含めてそれぞれの存在価値、個性の尊重につながり、そこには共生と寛容の世界が広がる。多様性を妨害・拒否する暴力は当然否定されなければならない。(2010年11月5日掲載)
▽ 「生物多様性条約=名古屋会議」が残した課題
経済広報センター(日本経団連の広報機関)が2010年3月に行った「生物多様性に関するアンケート」調査結果(「経済広報」2010年7月号掲載)を紹介しよう。
今年が国連の定めた国際生物多様性年であることを「知っている」は12%。また名古屋でCOP10(生物多様性条約=注1=第10回締約国会議)が開催されることを「知っている」は15%で、ともに10%台であった。
(注1)生物多様性条約は国連主催第一回地球サミット(1992年)で採択され、現在、193カ国・地域が加盟している。同サミットで合意された地球温暖化対策のための気候変動枠組み条約と並んで「双子の条約」とも称されている。
この10%台という数字はたしかに低い。しかし重要なことは生物多様性が意味するものは何かをどれだけ理解しているかである。生物多様性について簡潔にして示唆に富む社説(毎日新聞2010年10月18日付)を紹介する。
地球に最初の生命が誕生したのは約38億年前と言われる。それから長い進化の道筋を経て、多種多様で複雑な生命が花開いた。現在知られている種の数は約175万、実際には3000万種とも推定される。
今、この多様な種が、開発や人口増加のために急速に失われている。地球の歴史を振り返ると生物の大量絶滅は過去にも起きた。しかし、現在進行中の絶滅は過去のどの時代よりもスピーが速い。
多様な生物をはぐくむ生態系も損なわれている。世界では九州と四国を足し合わせた面積の森林が毎年失われているというから深刻だ。
食物はもちろん、水の循環や土壌の保持、医薬品など、人間は生態系の恩恵に支えられている。生物が多様性を失えば人間の将来も危うい。(以上は社説の一部)
着目すべきは末尾の「生物が多様性を失えば人間の将来も危うい」である。つまり生物多様性のお陰で人類は生かされているのであり、その多様性の行方は、ほかならぬ人類の生存そのものを左右するのである。
その「生物多様性条約=名古屋会議」が2010年10月末日、「名古屋議定書」(遺伝資源の利用=例えば熱帯雨林などの微生物を使う医薬品の研究開発=とそれに伴う利益配分を定めた議定書)と「愛知ターゲット」(2010年以降の生態系保全のための国際目標)を採択して閉幕した。
「愛知ターゲット」では最大の焦点だった保護区域の面積について「少なくとも陸域の17%と海域の10%を保全する」ほか、「劣化した生態系の15%以上を回復する」、「外来種の侵入を防ぐ」などを打ち出した。ただこの目標は義務づけられたものではない。しかも現在の保護区域は海域の場合、わずかに1%にとどまり、乱獲や乱開発の中で生物多様性の保護をどう進めるのか、「生物多様性条約=名古屋会議」が残した課題は前途多難というほかない。
▽ 多様性重視は共生と寛容の世界への道 さて仏教経済学の唱える多様性は何を含意しているのか。もちろん生物多様性に限らない。多様性は自然はもちろんのこと、人間、文化、地域、国(政治、経済、社会、体制)、民族、文明のあり方の多様性 ― にまで視野を広げており、多様性の内容は実に多様そのものといえる。多様性の重視は、自然、人間、文化、地域、国、民族、文明それぞれの個性の尊重につながり、そこから共生と寛容の世界が開けてくる。
仏教思想家の梅原猛氏(注2)は次のように述べている。
仏教国日本は、世界の和平運動の先頭に立つべきであり、もう一ついいたいのは、多神論の復活である。神道も仏教も多神論である。もちろん自分の信じる神や仏も大切にするが、他人の信じる神や仏も大切にするという精神である。これは多(た)の尊重という思想である。生物の世界にはたいへん多くの種がある。この多様性を含む世界をひとつの神の思想で一色にぬりつぶすのは、神々に対する冒涜(ぼうとく)だと思う。世界は多を含むことによってすばらしい。
多神論は正義より寛容の徳を大切にする。いま世界で求められるべき徳は寛容の徳、慈悲の徳である。この寛容の徳、慈悲の徳は仏教ではよく説かれている。(梅原 猛著『梅原猛の授業 仏教』朝日文庫)
(注2)梅原猛(うめはら たけし)氏は1925年生まれ。京都大学文学部哲学科卒。立命館大学教授、京都市立芸術大学学長、国際日本文化研究センター所長などを歴任。文化勲章受章。多くの著作は「梅原猛著作集」に収められている。
梅原氏も示唆しているように、仏教は多神教的であり、いいかえれば多様性尊重、寛容の精神に富んでいるのであり、ここがキリスト教やイスラム教のような唯一絶対神を信じる一神教とは異なる点である。しかし仏教はキリスト教など他宗教との共存は不可欠と考えている。その一つの具体例が世界宗教者平和会議(注3)である。
(注3)世界宗教者平和会議(WCRP=World Conference of Religions for Peace)はすでに8回に及ぶ世界大会(第1回は京都、その後約5年に1回)を開催、第8回大会が2006年京都で100カ国から2000人の宗教家を集めて開かれた。テーマは「あらゆる暴力を乗り超え、共にすべてのいのちを守るために」。WCRPに参加している世界の諸宗教は、仏教、神道、儒教、キリスト教、ヒンズー教、イスラム教、その他の諸宗教である。私(安原)自身、第8回京都大会に参加し、盛会という印象を得た。
▽ 多様性に背を向ける米国の覇権・単独行動主義 生物の多様性を守るための「生物多様性条約」(米国は企業活動の自由が制約されることを理由に条約に不参加)と並んで、「文化の多様性」を保護・促進するための条約(ユネスコが2005年10月の総会で採択。賛成148カ国、反対は米国とイスラエルの2カ国)もある。この条約採択の狙いの一つは、文化の多様性を壊す米国主導の新自由主義的文化攻勢への対抗策である。
これら多様性を尊重するための条約に米国はいずれも不参加である。それだけではない。米国は、国(政治、経済、社会、体制)のあり方の自由な選択、民族、文明それぞれの存在価値にも不寛容である。その背景には米国政権の独断と偏見に満ちた単独行動主義、覇権主義、軍事力中心主義がある。
具体例としてまずベトナムへの侵略戦争を挙げることができる。結末は1975年の米軍の敗北・逃走となった。ベトナムの戦勝30周年記念の2005年に日本人訪問団の一人としてベトナムを訪ねた時、政府高官の発言、「米国はベトナムを破壊して、原始社会に戻すことを狙っていた」が私(安原)の印象に残っている。大規模の北ベトナム爆撃、大量の有毒枯れ葉剤散布などはベトナムの国独自の進路と建設を妨げようとした暴力である。
目下進行形にあるのが米国によるアフガニスタン、イラクでの軍事作戦であり、計り知れない大きな犠牲を強いている。これも国それぞれの多様性の価値を否定する無法な所業にほかならない。
多様性に背を向ける米国の姿勢は、多様性を尊重する仏教経済学の視点に立ってこそ、正当に批判できる。しかし多様性への視点をもたない現代経済学では批判できないどころか、むしろ米国を擁護する立場である。
▽ 日本にみる多様性への感覚(1) ― クマがいるほど豊かな自然 「クマ 射殺では何も解決しない」という新聞投書(杉山幸子・54歳・東京都中野区=朝日新聞2010年10月24日付)を紹介したい。
5年ほど前に住んでいた静岡市でも、クマが里に出て騒がれた。そのとき聞いた、山奥に住む98歳のおばあさんのお話を思い出す。昔から山に住む人は人と動物の境に動物のため、実のなる木を植え、畑を作っていたという。そこまでが動物と人間の境界だと教えるためで、実際、クマはそこで食べ物を食べて山へ帰っていった。
これが古人の知恵で、クマが頻繁に人里に出没するようになったのは、古来の知恵が伝わらず、なくなってしまったことも原因ではないか
クマを射殺するだけでは、何も解決しない。クマがいるほど豊かな自然を日本は持っているのである。そのことに感謝し、古人の知恵を借りてもう一度考えてみたい。
この投書の中で「クマがいるほど豊かな自然」という指摘に注目したい。私(安原)はこれを「クマがいるほど豊かな自然の多様性」と読みたい。
▽ 日本にみる多様性への感覚(2)― 動物とすみ分けた日本の自然
もう一つ、「クマ大量出没 人と動物、共生の回復を」という見出しの朝日新聞社説(2010年10月25日付)を紹介する。その要点は以下の通り。
・なぜ最近、クマが大量に出没するのか。農山村が疲弊し、山が荒れ、里に動物が押し寄せる。人と動物のバランスが崩れている。都会にいては気づかない日本の現実だ。
・欧米諸国は近代に多くの動物を絶滅させてしまった。動物とすみ分けた日本の自然は私たちの財産でもある。
末尾の「動物とすみ分けた日本の自然は私たちの財産」という指摘はその通りである。ところが現実は農山村の疲弊、山の荒廃が進み、動物とのすみ分けが難しくなっている。いずれも人間の所業であり、クマに責任はない。クマにとっては生きるためには人の住むところに出てくるほかないだろう。クマを射殺すれば済む話ではない。自然の多様性の再生をどう図っていくか、これはわれわれ人間の責任である。
欧米など諸外国に比べれば、日本列島の自然が豊かな多様性を誇りとしていることは言うまでもない。ところが高度成長時代から今日にかけて高速道、ダム、港湾、空港などの巨大公共事業が続けられた結果、生態系に深刻な影響を及ぼしてきた。
今、沖縄県名護市辺野古の海域に新たな米軍基地建設計画が日米両政府の合意で持ち上がり、生物多様性保護の観点からも反対論が強い。というのは米軍基地建設は、珊瑚(さんご)などのほか、絶滅危惧(きぐ)種とされ海の生物、ジュゴンの生息場所を奪うことにもなるからである。
日本こそが豊かな多様性の存在価値を世界に訴える資格があるといえるのではないか。地球規模の多様性を軽視していると、それこそ人類そのものが絶滅危惧種になりかねない。
<参考資料>
・安原和雄「世界宗教者平和会議にみる平和観 ― <平和すなわち非暴力>の視点」(駒澤大学仏教経済研究所編「仏教経済研究」第三十六号、平成十九年)
初出:安原和雄のブログ「仏教経済塾」(10年11月05日掲載)より許可を得て転載
http://kyasuhara.blog14.fc2.com/
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔study352:101105〕
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