革命の消えたロシア、ナショナリズムのぶつかりあう世界
- 2014年 5月 15日
- 時代をみる
- ロシア加藤哲郎
2014.5.15 ひと月ぶりの更新です。連休はロシアでしたので、やや長めの紀行文にします。5月1日のメーデーは、モスクワで迎えました。クリミア自治共和国のウクライナ離脱、ロシア連邦編入に発して、ウクライナ情勢は緊迫し、米国・EUがロシアに対する限定的経済制裁に入り、4月末に予定されていた日ロ外相会談は延期になりましたが、私たちの文化交流は、何とか実現できました。もともと今回の旅は、本サイトでもたびたび報じてきた、旧ソ連時代の片山潜秘書で、1930−34年に無実の罪で強制収容所(ラーゲリ)に送られ奇跡的に生還した勝野金政(かつの・きんまさ)の生涯をロシアに伝えるためで、彼が日本帰国後1930年代に書き残した『赤露脱出記』『ソヴェト・ロシヤ今日の生活』『二十世紀の黎明』『ソヴェート滞在記』などの記録文学を、人類学者の故山口昌男さんにならって「日本のソルジェニツィン」としてロシアの人々に紹介し、再評価するためのものでした。モスクワ・ソルジェニツィン・センターでの講演会は、それなりの関心を惹き、日本の時事通信やロシアの日本語放送「ロシアの声」がとりあげてくれました。私が「日本のソルジェニツィン・勝野金政」を、勝野の長女稲田明子さんが「インタ-ナショナル・ヒュ-マニズムを求めて―ソ連国籍・BBカナル運河軍の一員だった父の不屈な生涯」をそれぞれ講演し、健康上の理由で同行できなかった藤井一行富山大学名誉教授の「スタ-リン体制告発の世界的先駆者・勝野金政―スタ―リン運河をめぐる勝野とゴ―ルキ―」も、ロシア語で読み上げられました。その模様は、時事通信でモスクワから配信され、また、モスクワの日本語放送「ロシアの声」でも大きく報じられていますから、ご参照ください。5月17日(土)午後、早稲田大学での「桑野塾」(3−6時、16号館820号室)で、稲田さんと私が、報告会を開きます。
モスクワは7年ぶり、サンクト・ペテルブルグ(旧レニングラード)は20年ぶりでした。冷戦崩壊後、国崎定洞ら旧ソ連在住日本人粛清犠牲者の資料・情報を求めて1990年代に足繁く通ったモスクワは、ゴルバチョフ、エリツィンの時代から、プーチン、メデヴェージェフの時代に移って、すっかり様変わりしていました。一時のポスト社会主義の混乱・物不足からは脱して、モスクワ中心部には外資系ホテルやショッピングセンターが林立し、旧い建物も改築して残っていますから、ヨーロッパの大都市と変わりません。インターネットWiFiや携帯電話も、お世辞にも速いとはいえませんが、まあ何とか使えます。野菜や果物、家電製品や化粧品も、IKEAの大きな店舗が郊外にできたりして、豊富に店頭に並び、不自由しません。かつて『地球の歩き方』 に、ロシア旅行では必ずスーツケースに入れよと書かれていた ティッシュペーパーも、ドラックストアやコンビニがたくさんできていて、持ち込み不要でした。でも、街の全体は、「ソ連」が消えて「ロシア」が強調される、20世紀の70年間をフェードアウトした伝統回帰でした。帝政時代の寺院や宮殿は華麗に復活し、ロシア革命とレーニン、スターリンの遺物は、一部のお年寄りのノスタルジアのために、ひっそり残されているだけです。大ロシア・ナショナリズムの復興です。例えば今回初めて訪れた、モスクワ市立のラーゲリ博物館。旧いビルの地下室を利用して、スターリン時代の運河建設や強制収容所の悲惨な生活を再現していますが、ロシア正教会やイコンの祈りの写真に囲まれて、政治的抑圧犠牲者の告発というよりも、宗教的受難者の救済のイメージです。そのすぐ向かいの路地が、外資系ブランドショップが並ぶ新名所ストレシニコフ横町、メーデー当日は、そこで若者・家族連れ用の路上ロック・コンサートが開かれていました。
5月1日のメーデーに、ソ連崩壊後初めて、クレムリンの赤の広場で労働者の行進が行われたのは事実です。新聞報道では10万人とのことですが、それはソ連時代の労働者階級の示威とは、似て非なるものでした。主たる参加者は選ばれた労働組合員で、広場の出入りには厳重な警戒線がしかれ、通行証を持った人々のみの参加です。私たち旅行者は、近づくこともできません。そこで掲げられたプラカードも、賃上げを求めるものもあったそうですが、大半は「クリミアはロシアのもの」「ウクライナのロシア人を護れ」といった愛国のスローガンと、国際社会に堂々と立ち向かう強い指導者「プーチン万歳!」です。警備の厳しい赤の広場に入れず、旧インツーリスト・ホテル(昔は日本人の定宿だったのに、今では超高級外資系ホテル!)前にいたとき、20人ほどの横断幕を掲げたグループがデモしてきたので眺めていると、警察の武装部隊が素早く取り囲んで、リーダー二人を装甲車の中に引きずり込みました。二人は「ウクライナ万歳」と叫んでいました。つまり、ウクライナの緊迫した情勢の中での官製メーデーで、「ロシア万歳」以外は許されない、ナショナリズムの労働者動員でした。もっとも旧ソ連時代とは違って、動員から逃れた普通の人々は、すっかり休日を楽しんでいます。各所のロック・コンサートのほか、屋台のアイスクリームや菓子屋が並び、ボリショイ劇場前の広場には、ソ連時代の勲章・バッジやレーニン全集の古本を売るお年寄りの店も並んでいました。「革命の消えたロシア、ロックと愛国のメーデー」というのが、17日の私の報告の演題です。
このことは、帰路にサンクト・ペテルブルグにまわって、いっそう実感されました。かつての十月革命の聖地、旧名レニングラードです。この街には、40年以上前の1972年に、一度訪れています。街全体が革命博物館で、労農兵ソヴェトの軍隊がどこでどう蜂起して電話局や電報局を占拠し、いかに冬宮(現在のエルミタージュ宮殿)を攻略したかと、レーニンとボリシェヴィキの武勇伝が、国営インツーリスト旅行社の日本語ガイドから語られました。レーニンが座った椅子とか、演説したバルコニーとか、社会主義革命に関わる広場や建物が見学地でした。それから20年後、1993年の2度目の訪問でも、まだ革命の余韻は残っていました。同じく民衆蜂起で政権を倒したからと、敢えて十月革命とエリツィン革命をつなげたり、クロンシュタット水兵の反乱は共産党独裁に対する民衆の最初の蜂起でペテルブルグから始まった、といったこじつけも聞かれました。それが2014年、今回の3度目の旅では、すっかり「革命」は消えていました。国営企業から私企業に転換したインツーリスト旅行社の若い日本語ガイドは、ピョートル大帝以来の大ロシア帝国の首都として、ロシアの宗教と文化の中心として、レーニンの名が消えた伝統の街を案内しました。ロマノフ王朝の完全復活で、ペトロパヴロフスク聖堂のイコンとロマノフ家の墓棺に長い行列で時間がとられ、アレクサンダー二世がテロリストに襲われたキリスト復活聖堂では、レーニンの兄もテロリストとして処刑され、十月革命はその復讐の試み、いやクーデターであった、という具合です。もちろん、エルミタージュの豪華な秘宝と美術品、金銀や琥珀で飾られた帝政文化こそ、レーニンやスターリンの銅像に代わって、ペテルブルグの歴史の象徴になっています。ソチ・オリンピックの開会式を、想い出しましょう。ドストエフスキー、チャイコフスキー、プーシキンの伝統が今日につなげられ、ソヴェト時代は、わずかにアヴァンギャルド芸術と近代化・工業化の達成、それにドイツの侵略に対する大祖国戦争勝利の時代としてのみ、今日に引き継がれたようです。ロシアの友人に聞くと、5月1日のメーデーは市民にとってダーチャ(別荘)での休暇用で、5月9日の対独戦勝記念日とクレムリンの軍事パレードこそハイライトだ、とのことでした。事実、メーデー前から戦勝記念日の方が着々と準備され、街頭でリボンを渡されました。9日は軍事パレードのみならず、プーチン大統領がクリミアを訪問しました。11月7日の革命記念日が消えて平日になり、11月4日の対ポーランド戦争勝利記念日を「国民統一の日」として祝う新しい伝統が、すっかり定着したようです。
ナショナリズムの賞揚・昂揚は、無論、ロシアやウクライナだけではありません。アメリカもかつての「偉大なアメリカ」「パクス・アメリカーナ」へのノスタルジアを 隠しませんが、アジアでは、中国、韓国、台湾、ベトナム、フィリピンと、領土や歴史をめぐって、ナショナリズムのぶつかりあいが続き、武力衝突さえ起きかねない情勢です。インドの総選挙も、宗教と結びついたナショナリズムの台頭を示しています。そして、ほかでもない日本。冷戦崩壊後の「失われた20年」と「チャイメリカ(米中支配)台頭」を背景に、かつての高度経済成長、ジャパン・アズ・ナンバーワンへのノスタルジアを伴った、内向きのナショナリズムが、全年齢層に広がっています。隣国中国・韓国を蔑視したり憎悪する言説は、新聞でも週刊誌でも、テレビやインターネットでも日常化しています。そこにつけこんだ安倍内閣は、内向きから外向きへと「仮想敵」を設定し、安全保障国家、戦争ができる国へと、改造しようとしています。日本に帰国すると、「集団的自衛権」論議が、 政府の解釈改憲の方向で高まっています。本サイトは無論反対で、学術論文データベ ースに、神戸の弁護士深草徹さんの「集団的自衛権を考えるーー北岡伸一批判」(2013.11)、「砂川事件最高裁判決によって集団的自衛権の行使が認められるとの俗論を排す」(2014.4)などの論考を収録して、警鐘をならしてきました。私の新著『日本の社会主義ーー原爆反対・原発推進の論理』(岩波現代全書)や 『ゾルゲ事件ーー覆された神話』(平凡社)も、広い意味では、冷戦時代のイデオロギー対立を超えて、どのような新しい国際秩序を作るべきかの探求です。その学術論文データベ ースに、いまは「ちきゅう座」でも活躍する常連の論客、宮内広利さんの新稿「柳田國男と折口信夫 ~民俗学の原像をもとめて~ 」(2014.5)をアップ。私の「国際歴史探偵 」の原点である国崎定洞研究の到達点「国崎定洞ーー亡命知識人の悲劇」(安田常雄他編『東アジアの知識人』第4巻、有志舎)と共に、ぜひご笑覧ください。
初出:加藤哲郎の「ネチズン・カレッジ』より許可を得て転載 http://www.ff.iij4u.or.jp/~katote/Home.shtml
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
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