書評 『歎異抄』を読む③
- 2014年 6月 15日
- カルチャー
- 『歎異抄』宮内広利書評
死と鼻をつきあわせたような生活状態に投げこまれた衆生に対面して、どんな理念が衆生を救済できるかという親鸞の答えは、どんなにかかわっても人が救済される保証は得られないという絶望が先にあった。人々は、生きているあいだ救済されないことは確からしい。それなら、死に臨んでいる人々に死後の世界の浄福を説き、浄福者となったのちに、また現世にもどってくることを教えるしかないではないか。これが餓えや病いで死んでいく者たちの答えになるかどうかはわからないが、そうするより仕方のない危うい均衡の上に立った絶対他力の世界による救いであった。
だが、救いのための称名念仏と浄土のあいだに確約がとれる人間などいないのではないか。なぜなら、救いを求めようとしている煩悩にまみれた人間は、どこまでいっても煩悩そのものによって救われるほかない人間的な存在にちがいないからである。ここにいたって、親鸞は現世をつきはなしてしまう。つまり、親鸞は「契機」の概念を借りて、人間はただ、前世の「宿業」によって生きるものだといい、称名念仏を媒介にして浄土とかろうじて結ばれていた浄土教の理念を疑義に晒してしまうのである。
『歎異抄』の中に、「宿業」について親鸞と弟子の唯円との間で交わされた問答のことが書かれている。親鸞のいうことに背かないかと念押しして問われ、それなら往生のために人を千人殺せと云われたが、唯円ができないという。すると、親鸞は、何事もおもいどおりに実行できるなら、往生のために人千人を殺せと言われたならば直ちに殺すであろう。しかし、一人さえも殺せないのはその業縁がないのである。自分の心がよくて殺せないのではない。自分の心が殺そうと思っても「契機」がなければ、一人たりとも殺せないが、逆に、「契機」さえあれば、そう思っていなくても人千人を殺すことがあるというのである。ここで親鸞は善悪の倫理が沈没する世界のことを語ったのである。
≪それならば親鸞のいう<契機>(「業縁」)とは、どんな構造をもつものなのか。ひとくちに云ってしまえば、人間はただ、<不可避>にうながされて生きるものだ、といっていることになる。もちろん個々人の生涯は、偶然の出来事と必然の出来事と、意志して選択した出来事にぶつかりながら決定されてゆく。しかし、偶然の出来事と、意志によって選択できた出来事とは、いずれも大したものではない。~中略~親鸞が、現世の中心にこの<契機>(「業縁」)を据えたとき、「苦悩の旧里」である現世と「安静の浄土」とが、称名念仏を媒介として直結するはずだという浄土教の理念は疑義にさらされたとおもえる。≫『最後の親鸞』 吉本隆明著
吉本隆明によれば「最後の親鸞」は、この不可避性の極限において、「契機」自体を自己解体してしまうことになっている。なぜなら、「契機」というのであれば、信じる「契機」も信じない「契機」もともに等価であるからである。それは人が自覚的にこうしよう、ああしようという倫理の谷間のようなもので、「信」の自覚そのものの解体を意味した。
倫理の谷間という意味で吉本は、福音書の中にもそれと同様な箇所をみいだしている。イエスの弟子ペテロはイエスを前にしてどんなことがあっても背信することはないと誓う。ところが、イエスは、今宵、鶏が暁のときを告げる前におまえは私を三度裏切るだろうという。そんなことは絶対ありえないとおもっていたペテロだが、群衆に問い詰められて、イエスの予言どおりイエスとは自分はかかわりないと三度言ってしまうのである。ここで吉本はそれぞれの教義に水を引くように宗教的な救済の仕方を露出させている同じ風景を見たのである。それなら、こういう倫理のあり方を絶対他力に跳びこそうとするなら、どうしても、念仏を棄てようと棄てまいと「面々の御計なり(めんめんのおんはからいなり)」という地点まで超えていってしまわなければならないのである。
親鸞のいう「面々の御計」というのは、関東から信仰上の疑念を携えて尋ねてきた念仏者に対して親鸞が答えた究極の境地のことである。念仏によって確かに往生するものかどうかわからないが、自分のような悟りから縁遠い煩悩具足の者は厳しい修行のできない身だから、念仏を称えて往生することを教えてもらった釈迦、善導、法然のような師をひたすら信じた結果が、地獄へ墜ちようともしかたがない。そうして、こういう私の考えを信じるのも信じないのもめいめいが自由にきめることであると言ったことを指している。
念仏を称えることによって地獄へ墜ちることになるかどうかはわからない。しかし、念仏を称えて地獄へ落ちたとしても自分(親鸞)は後悔しない。なぜなら、自力修行のできない自分には念仏以外には選択肢がないからである。こういう私の信心が嘘であるなら、念仏を捨てようともそれは各人の料簡次第であるというのである。これは倉田百三にいわせると、非論理的な絶対性の信仰に乗り移る入口にみえるらしい。もはや、思想などというものではなく、弥陀の本願をただひたすら信じるということから、法然上人にだまされて、地獄へ墜ちても後悔しない、弥陀の考え、釈迦の教え、善導の教え、親鸞の考えは正しいに決まっているという信仰の入口に立った断言が語られているとされるのだ。だが、倉田とは異なり、吉本はここに、「知」や「愚」がともに相対化され「信」や「不信」自体を放棄する親鸞の思想の最後の着地点をみた。
わたしたちが、吉本の『最後の親鸞』にみるのは、現世を生き、その確からしく思われたものが不可避性の衣をまとってしまうことで、人間の煩悩そのものが自らの基盤を消失してしまうような相対化の極限にほかならない。もちろん、ここでいう「知」を有する知識人に対置されている「非知」は、自覚的な過程としてなら、一方では吉本のいう「大衆の原像」への回帰という理念的な疎外意識の帰結でもあるが、この場合、むしろ、吉本の親鸞像において「大衆の原像」の意識そのものが、メタレベルに転移されていると言ったほうがより正確である。かつて、わたしたちの「知」と現実はパラレルに対応していると信じていたはずだったが、「大衆の原像」との遠近感がとれなくなった分だけ、死からの視線の照り返しをうけて「知」は均衡を失って、歪んだ鏡のように「知」におさまりきれない現実の相貌を、一瞬、垣間見せてしまったのである。
わたしは、吉本の『最後の親鸞』は、1970年代半ばの発表時にすでに読んでいた。しかし、その意味については、当時は十分読み込めたとはおもえなかった。いや、知識人の「大衆の原像」の繰り込みの変奏ぐらいのニュアンスだけをつかみとっただけで、それまでとはちがう吉本の立ち位置までおもいいたらなかった。今はそのとき衝撃をうけたかどうかさえ思いだすことができない。ただ、戦後知識人批判から自立思想を深めている吉本が、なぜ、絶対他力なのか不審のまま残っていて、やや意識的に再読することができるようになったのは、その後、吉本の思想の全体像を追うことができるようになってからだ。吉本自身は、当時、価値論としてではなく、マルクスの自然哲学の疎外論と呼びならわしていたが、わたしの吉本像からすれば、峻厳なリゴリズムを詩作に表わしていたそのままの姿から想像して、マルクスの疎外論との遠近感で彼の意識や思想をおしはかることができるとおもえるようになった。
だから、読みようによっては、この本は、自立の往相、還相を親鸞の思想に投射したものとみえ、従来からの自立思想の焼き直しと映るかもしれない。だが、当時の吉本は情況に押されて、現実像の不可避な変容の只中で、疎外感を映している現実というもののとらえどころのなさが凝視され、屹立する自立の姿勢が居場所を失い、自立の足場そのものの再検討が求められていたのだ。だからこそ、吉本からみた親鸞という思想家は、現実に対してどこまでも開かれていなければならなかったのである。
吉本にとって、いわば、現実を掬ったはずの言語が現実を切れ切れの断片に刻んでしまうようになったため、現実や大衆という名の固形のシンボルを言語の中心に呼び込むことができなくなってしまったのである。この変質は、戦後、大衆意識の変貌や高度化の速度が勢いを増し、もはや、大衆自身の手のとどかないところまで、肥大化した兆候にちがいなかった。裏面では、戦後社会が一階梯を終え、ようやく知識人に依存しない大衆像の片鱗をみせたときでもあった。吉本は、ここではじめて「知」の分量をあてがわれた知識人や大衆概念の死というものに当面し、資本主義の死の感触にまで手を届かせようとしていたのである。そして、『最後の親鸞』以降、吉本の思想が方法としたのは、「信」と「不信」とを同時に見渡すことのできる垂直の上空に据えられた台座であった。死からの視点だけが確からしいその世界からみると、「信」と「不信」は「契機」をぬきにすると全く等価である。
吉本によれば、親鸞は、まず、「放棄」の構造によって現世を空間の彼方に疎外した。ここで、現世は救済されると同時に、「信」を社会生活の外に自己疎外した。だが、これで終わらなかった。今度は、この信仰にまとわる「念仏さえ称えれば、浄土に掬いとられるはずだ」という因果律そのものを疑い、時間に包んで日常生活の外に疎外した。こうして「信」は、現世と日常生活の交点から二重に疎外されたというのである。そこで、「信」の解体とは、二重の自由を手にいれた代償として支払われた通行手形(横超)を意味した。
もともと、吉本のこのような自己疎外論は、マルクス解釈の上で人間と自然の媒介関係をメタレベルに吸収させると同時に、最後の親鸞は「面々の御計」に帰着する。「知」は原イメ-ジとしての大衆の本源的なあり方の前で、着地すべき最後の場所を求めていた。ただ、親鸞の到達点と吉本のそれが、ただひとつ異なるとすれば、そのまま(即自的)非知に回帰するものと、意識して逆コ-ス(解体)を辿るための危うさが介在するかどうかの一点のみである。そこで親鸞を「知」の最後の課題を背負った思想家ととらえた吉本隆明にとって、「知」の究極の処理法は、次のように提示される。
≪<知識>にとって最後の課題は、頂きを極め、その頂きから世界を見おろすことでもない。頂きを極め、そのまま寂かに<非知>に向かって着地することができればというのが、おおよそ、どんな種類の<知>にとっても最後の課題である。この「そのまま」というのは、わたしたちには不可能にちかいので、いわば自覚的に<非知>に向って還流するよりほか仕方がない。しかし最後の親鸞は、この「そのまま」というのをやってのけているようにおもわれる。≫『最後の親鸞』 吉本隆明著
だが、吉本が描く親鸞の団円は、「信」の解体=「知」の解体へ向かうマイナスの軌跡にほかならないが、本来、これは逆に修正されなければならない。なぜなら、親鸞にとって「信」は、なぜ、解体する運命にあるかというと、初めに解体されるイメ-ジが「自然(じねん)」として想定されていたからである。「信」は受動的であればこそ、機縁次第で「不信」を包括し、もともと解体すべき可能性を内包していたから、この最後の到達点があったのだ。
親鸞においては、はじまりから「不信」が「信」と格闘する疎外感があり、「不信」は「信」自体を時間的に疎外した。その上で、「信」の中で煩悩にまみれた現世は、専修念仏をもって善悪の空間を死の世界や天上界へ二重に疎外した。この二重の疎外が、親鸞の現実意識を宗教的意識に構造化したといえるのである。その意味から、元来、親鸞が次のような言葉を吐くとき、いやおうなくニヒリズムの匂いが漂ってくるのを見逃すべきでないのである。
≪弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに、親鸞一人がためなりけり。≫ 『歎異抄』 唯円著
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