尊厳と誇りを胸に
- 2014年 11月 23日
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2014年11月23日 連帯・共同ニュース第338号
尊厳と誇りを胸に
沖縄通の御方は長い前書きは端折り、後半だけをお読み下さい。
(前段)2014年11月16日午後8時。沖縄ジャーナリズムは「ウマンチュの会」知事候補者、翁長雄志氏の「当確」を報じた。投票を閉めた瞬間の出来事であった。これと同じ現象が4年前の名護市長選挙における稲嶺進氏の当選の時に起きた。その時に私はヤンバル高江の住民の会宿泊施設で仲間と飲んでいた、「勝って欲しいな」と語らいながら。追い上げたとは言え当時の現職島袋吉和の優勢は変わっていなかった。期日前投票が島袋にとって有利な結果であったからだ。投票所閉鎖の瞬間に稲嶺氏当確の連絡が携帯で伝えられた。場はどよめいた。その報を信じられずにあちこちに電話をして確認した。電話を受けた方も小生の連絡が信じられなくて右往左往の態であった。「飴と鞭」の構図が崩れ始めた瞬間である。沖縄県民は「尊厳と誇り」に向かっての歩みを踏み出した。名護市では比嘉鉄也が市長の時に二度の住民投票で「辺野古新基地反対」の意志を示したにもかかわらず比嘉鉄也市長が裏切り、辺野古容認に転じた。その後の行政では容認派が続いていたのをこの市長選で稲嶺進と選挙民が覆した。その勢いで名護市議選も圧倒的な当選者数をだし、「反辺野古」を加速した。中央政府は膨大な金額の官房機密費を注入し、その年の知事選を取り、その後にオスプレイ普天間配備の噂の仲で宜野湾市長選を取った。そこまでしても保守陣営は市民の反オスプレイの声に抗しきれず全県の首長を動員し、宜野湾市多目的公園で官制の県民集会を開催した。行政の不作為に憤懣やるかたない市民はこの集会を盛り上げ10万人の集会とした。「辺野古は県外に」と主張して県知事になった仲井眞弘多はこの集会にたいして参加を表明しなかった。仲井眞の選挙参謀であった当時の那覇市長翁長雄志は「集会に参加しなければ次の選挙では協力しない」と仲井眞を集会に誘った。しかし、仲井眞は副知事を出席させたに過ぎなかった。このときに仲井眞の辺野古沖埋め立て許可の腐臭が漂い始めている。これをきっかけに仲井眞と翁長の距離は離れ始めた。この集会の成功にも拘わらず、2012.10月オスプレイ12機 普天間基地に配備、11月 衆議院議員選挙 自民党大勝利2013.7月 参議院議員選挙 自民党大勝利、2013.07. 那覇市会議員選挙 自民・公明大勝利、2013.8月 オスプレイ12機 普天間基地に配備と右傾化の波は高くなり、沖縄の民意は無視され続けられた。市民は普天間基地周辺でオスプレイ配備撤回の行動を連日続け(この運動は大山口でサラバンジヌ会、野嵩口で平和市民連絡会、普天間爆音訴訟により現在も継続中)られている。
これらの市民の声を聞こえない素振りで沖縄防衛局は高江のオスプレイパッド建設を急いだ。巷では「島ぐるみの戦い」、「琉球弧の自己決定権」などの言葉が流行し、その中心には山内徳信や翁長雄志などがいた。
年の瀬も迫る頃、仲井眞弘多県知事は辺野古沖公有海面埋め立て許可を出した。完全な裏切り行為に対して「ゆくさータンメー(嘘つき爺さん)」の怒号が巷を埋めた。
こんな空気の中で稲嶺進が名護市長選に再度勝利した。この勝利を支えた民意は名護市議選の圧倒的勝利へつながる。
「島ぐるみ」の風潮は琉球民族独立の動きをもあちこちで大きくしていく。島袋純琉球大学教授の主催する「琉球民族独立総合研究学会」もその一つである。この動きは21世紀になってから既に活発になっていた。2007年に高江の座り込みテントが建てられ、ここで起居を始めた故佐久間務氏は「沖縄独立」の檄文を座り込み当初からテントの横幕に貼り付けていた程であった。
何度も何度も民意を無視して沖縄を差別し続ける中央政府に対する民族の尊厳と誇りを守るための決意の表明であった。これ以上の沖縄処分は許されないとの決意表明でもあった。
(選挙)選挙戦は宜野湾多目的公園の十万人集会で始まったと言って良い。ここではまだ保守対革新の対決構図は続いていた。そしてじわりと膨れ始める「島ぐるみ」なる言葉が革新・中立の動きの中で勢力を持ち始めていた。平成25年の暮れに仲井眞弘多は予想をもしなかった「公有海面埋め立て許可」を発表した。当時那覇市長であった翁長雄志は仲井眞を激しく糾弾した。県民もこの裏切りにたいして怒った。翁長雄志を含めた「辺野古基地建設反対」は島ぐるみの戦いの胎動を感じさせた。次期県知事候補筆頭と認識してきた翁長雄志を諦めざるを得なくなった自民党は仲井眞後継を副知事高良倉吉にゆだねようとした。高良倉吉は次第に大きくなる「島ぐるみの戦い」と翁長雄志の人気の高まりに怖気を振るい、立候補要請を受諾できなかった。仲井眞弘多のレームダック化は始まっていた。それにも拘わらず仲井眞弘多が立候補に色気を見せ始めた。市民は唖然とした。あり得ないと思ったことがいきなり現実となった。自民党中央は支持しないことを鮮明にしていた。地元沖縄では消極的ながらも仲井眞の三選に動き始めた。どう説得しても仲井眞は立候補の意志を翻さなかった。他に有力な人物もいないことを知り、自民党中央は渋々仲井眞を候補にすることを決定した。「仲井眞では駄目だ」という確信的な絶望を僅かでも希望に変える手段は大きな飴玉を転がすことであると自民党中央は動き始めた。「琉球大学医学部を普天間西の海兵隊住宅跡地へ移す」、「重粒子癌治療器を設置する」「再編交付金の増額」、「カジノ特区を設定する」などなどである。しかし、これらの飴に涎を垂らしたのはごく少数の特定の人間に止まった。
沖縄には「島ぐるみ……」の風が吹きまくった。かりゆしホテルチェーンの平良朝敬会長と金秀 グループの 呉屋守将会長が早々に翁長支持をぶち上げた。それに続いて県内財界人の多くが支持を表明した。翁長氏の「辺野古基地反対」に同調して沖縄自民党から除名処分を受けた自民党市議が翁長の応援団になった。ここまでであれば自民党内部の内輪もめで終わったかも知れないが、「辺野古基地反対」は元々革新側の主張である。他に有力な人材もなく、一点共闘の可能性に期待して共産党が翁長支持を表明した。社民党、地域政党沖縄大衆党が続いた。市民を巻き込んで、「ウマンチュ(たくさんの人たち)の会」が立ち上がった。「平和の党」を標榜する公明党は辺野古新基地を積極的に推進する仲井眞を推薦することは出来ずに「自由投票」という札を切った。
翁長陣営の支持政党・団体の宣伝カーが町を村を山までも走り回る。まさに人海戦術の極である。普天間や辺野古、高江の座り込み部隊も選挙応援に出動する。自民党は主街道沿いに運動員を並べ、それに数倍する幟旗を立てる。証書が貼ってないポスターを全ての電柱に貼り付ける。翁長の運動員が驚いていた。「チラシを各戸に配ったが、既に仲井眞のチラシが4回分もポストに押し込められていた」。驚くべき物量作戦である。
投票所には企業のマイクロバスが行き交い、期日前投票をして帰る(驚くべき人数が投票していた。なんと20万人。全投票者数が約70万人であるので、その数字が如何に多いか解るであろう。その大部分が仲井眞に投票させられている。現地の人が企業恫喝は自民党のお家芸だと言っていた)。
那覇の野球場セルラースタジアムで翁長陣営の集会があった。10,000人を集めようと思っていたが、15,000人も集まった。なんと菅原文太氏が押しかけ応援にきて、
「私は全ての戦争に反対します……」と演説をした。スタジアムが歓声に揺れた。
2014年11月16日午後8時。沖縄ジャーナリズムは「ウマンチュの会」知事候補者、翁長雄志の「当確」を報じた。投票を閉めた瞬間の出来事であった。最終結果は翁長雄志(36万票)対仲井眞弘多(26万票)。如何に出口調査が正確だとは言っても驚くべきジャーナリズムの自信である。
沖縄県民の「尊厳と誇り」が示された瞬間だった。 文責 冨久亮輔
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