真面さの弊害
- 2014年 12月 23日
- 交流の広場
- 藤澤豊
グチャグチャでどうしもうないコンピュータシステムと労働生産性という視点が欠落した業務プロセスのなかで、真面目な人たちが、毎日毎日当たり前のようにかなりの残業をして業務をこなしている。その真面目な人たちが協力して、些細な業務改善を繰り返して微々たる生産性の向上を図っている。ただいくら改善をしたとしても上げ得る生産性には明らかな限界がある。それでも、与えられた環境下で責任を果たそうと努力し続ける。そこには素直には認めたくないある種の感動がある。
そんな労働環境を提供している社長の言葉が呆れる。「みんな、なんでそんなに遅くまで残って仕事をしているんだろう。」、「早く家に帰れって言ってるんだけどな。」、「うちの社員は燃えているんだ、早く帰れと言っても、残って仕事をしてる。」、「こんなに優秀な社員がいる会社はざらにない。」、「先週の日曜に会社に来てみたら、あいつとあいつが日曜出勤してた。偉いヤツらだ。」
知らない人が聞いたら、さぞ立派な経営陣に率いられた会社だと思うだろう。ところが実態は全く反対で、まず、社長に従業員の生産性を向上しなければという考えがない。だからだろうが、どこをみても生産性向上の余地が、余地と呼ぶには大きすぎる、改善の手を付けないことは、もう犯罪に近いのではないかというのが転がっている。どう考えても、社長とその取り巻き連中には経営陣として必須の能力が欠けているとしか思えない。どこを見ても転がっている課題や改善の余地を見ようとする意思もなければ、認識する知能もない。起きていることを素直に見れば、こう考えるしかない。
一見鷹揚にしか見えない、しばし妙に明るい社長の言動(ある意味ひっかかる)からは、生産性の欠如の根源が彼の本質的、多分遺伝的な性格の歪みから起きていることに気が付かない。妙にひっかかる明るさも、鷹揚な、しばし歌舞伎もどきの取ってつけたような大袈裟な振る舞いも、持って生まれた、歳とともにその度が進んだ慎重というより度を過ぎた臆病、人を信じられない性格に加えてそこまで計算するかという吝嗇からきていた。
間違ってもこのような性格の人はリーダになってはいけない。もしなってしまったら、こういう問題、ああいう問題、従業員を不幸にしかねないありとあらやることが起きる。鷹揚な態度で従業員からの具申を拝聴させて頂きますという演技はあるのだが、生来の吝嗇ゆえ業務効率を上げる設備投資を一切受け付けようとしない。それは、まるで農業機械の導入を拒絶して、人力で農耕できるじゃないかといった信念に近いものがあった。
そのようななかでも、以前にどこかの企業で多少なりとも事務の生産性を気にしていた中途採用者がいる。その多くが、大して時間の経たないうちに、無言でか、馬鹿馬鹿しいという類の言葉を残して去ってゆく。その去ってゆく人たちに対する社長の非難には、まるで宗教裁判における教祖のような響きがあった。多くのフツーの人たちが、教祖の真意を汲み取り得ない劣った人間として、教祖とその取り巻き信者から迫害されるようにして去ってゆく。フツーの人が居着かないから、組織内に健全な、なくてはならない批判的な思考の文化が根付かない。いきおい組織文化のカルト化が進む。
カルト化した企業文化のなかに居続ける人たちの多くが、色々な意味で、どこにも行きようのない人たちだった。でも、その人たち、覇気はないが優しい性格の実に真面目な人たちだった。その真面目な人たちが、日々些細な改善をして残業を厭わず会社に残っている限り、根本的な改善もないし実感のある労働の生産性向上も望めない。給料もほとんど上がらないしボーナスもしれている。
たとえ多少愚痴をこぼすことがあっても、その環境で一所懸命与、私生活にでるであろう支障を苦と思うことなく、与えられた仕事を黙々とこなそうとする。いい加減に転職した方があなたのためにも、この会社のためにもなるんじゃないかと世間話がてらに話したことがあるが、そのような人たちには自らの意思での転職という考えはない。時代感覚を失いかねない、ある意味では感動とでもいうのか、アナクロニズムの海に放り投げられたような感じだった。自分の責任で自分で考えて自分で行動してという本来あるべき互いに独立した個人が個人として互いに認め合える関係がない。まるで新興宗教の教祖に無批判について行く信徒のごとく、日々の奉仕とでも呼んだ方があっている仕事。それは、もう、ほとんど反社会的と言っても言い過ぎではないと思う。でも、そこにいる個々のいい人たちの顔を思い浮かべると優しい懐かしさだけが残っている。説明の付かないというより、説明したくない懐かしさが。
いい人たちが集まって、いいことであるはずのことを一所懸命やっているのだから、いいことに違いないのだと思いたいのだが、いいことばかりじゃないどころかよくないものを生み出す可能性がある。あなたがたの真面目さが、社会の進歩を阻害しかねないこともあるんだぞって言いかけたが止めた。言っても聞きゃしないし分かりゃしない。分かるときがくれば勝手に分かるだろうし、そのときが来なければいくら言っても分からない。相手も一社会人、余計なお節介もほどほどで。もし、解決できるものがあるとしたら、それは時間だけだろう。
Private homepage “My commonsense” (http://mycommonsense.ninja-web.net/)にアップした拙稿に加筆、編集
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