憎むは人の業にあらず、裁きは神の領域
- 2015年 2月 3日
- 交流の広場
- 熊王信之
イスラム国(IS)の人質になり、殺されたお二人には言葉もありません。
なかでも、紛争地帯に進んで入られ、身を挺して凄惨な戦いを報道されておられた真のジャーナリストの死には、報道の使命をかけた一生を終えられた、との印象が強く、畏敬の念を居抱かざるを得ません。 日頃は、「マスゴミ」等と軽薄なこの国の報道の様とその関係者を貶しています私でさえ、後藤氏のような方なら、その職業意識に敬意を表するに吝かではありません。
報道に依れば、人質となってからの数少ない通信にあっても妻子へ御自身の愛を伝える細やかな心をお持ちであり、また、テロリストの支配下にあっても、自身の精神の平衡を保ち、自身が生命を断たれる場においても平静を保ち御自身の尊厳を保持される強靭な精神力をお持ちの方であったようです。
動画を見れば、人として恥じるべき行いをした犯人は、その所業に相応しく、己の面体を隠し、黒ずくめの服装で、まるで黒魔術師の如く装っていました。
人質の側が昂然と画面に向かわれ、死に際しても身じろぎもされず、俗な例えで申しますと、その挙動は侍のようでした。
あの人を刃物で刺すことが出来るのは、正邪の分別を弁えた人では出来ません。 正しく神仏の教えを受け、自身の行いを糺す分別がある人であるならば、例え、人に刃を向けることが不可避であっても、刃を向ける相手であるかどうかを問わねばなりません。 それが出来ないからテロリストであるのでしょうが。
まるで神仏のように人質に振る舞う彼等ですが、正義の剣を構える右手のみでは無く、正義を量る秤を左手に持つのが神であるところ、彼等テロリストは、右手の剣のみしか持たないのです。
後藤氏の御家族の方々も、氏の御親族として真に似つかわしい程に勇気をお持ちであり、生涯の難局に向かわれ、挫けることがありませんでした。 なかでも氏の死後に拝見しました奥様の認められた文書には、勇気とともに夫への思いが溢れていて、涙で読むことがままなりませんでした。 私自身がどのような言葉であっても奥様へ向かえば、発することは出来ないであろう、と思われる程に寂寥感と無念に満ちる思いで一杯です。
後藤健二さん妻「夫を誇りに思う」 支援団体通じ声明【イスラム国】
しかしながら、この思いで戦いの衝動に駆られ報復しようとは思いません。
それでは、亡くなくなられた後藤氏の御遺志に反すると思われるからです。
氏が残されたツイートには、このような一節があるそうです。 「目を閉じて、じっと我慢。怒ったら、怒鳴ったら、終わり。それは祈りに近い。憎むは人の業にあらず、裁きは神の領域。-そう教えてくれたのはアラブの兄弟たちだった。
— 後藤健二 (@kenjigotoip) September 7, 2010」
後藤健二さん「憎むは人の業にあらず…」 紛争地の人々に寄り添い続けた日々
今世界で、この言葉が広まっているのです。 「憎むは人の業にあらず、裁きは神の領域。」と。
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