書評 戦後意識の変兆
- 2015年 6月 6日
- カルチャー
- 宮内広利小熊英二書評江藤淳
≪いわば、丸山(丸山真男)や大塚(大塚久雄)が「近代」という言葉で述べていたものは、西欧の近代そのものではなかった。それは、悲惨な戦争体験の反動として夢見られた理想の人間像を、西欧思想の言葉を借りて表現する試みであった。「個」の確立と社会的連帯を兼ねそなえ、権威にたいして自己の信念を守りぬく精神を、彼らは「主体性」と名づけた。そうした「主体性」を備えた人間像を、丸山は「近代的国民」とよび、大塚は「近代的人間類型」とよんだのである。≫『<民主>と<愛国>』 小熊英二著
小熊英二はこの本の中で、敗戦直後から高度成長経済を経て、1970年ころまでの間の戦後のナショナリズムに関する言説の変遷を検証している。それによれば、敗戦から1955年までを混乱と改革の時代として第一の戦後期と呼び、1960年以降は安定と成長を旗印にした第二の戦後期と規定した。そして、このような色分けが可能であるためには、あらかじめ1990年以降の第三の戦後期との比較において問題意識が設定されていなければならなかった。なぜなら、第三の戦後期は、社会主義ブロックの崩壊とともに、敗戦時から続いていた東西の冷戦構造が消滅して、それまで第二次世界大戦の記憶によって支えられてきた世界秩序はおおきく揺れ動く時代に直面したからである。わが国にとってそれは、ほとんど第二の敗戦体験といってもよかった。そのため、あらためて過去の戦争や戦争をつうじて変化した戦後のナショナリズムのありかが問い直されることになったのである。つまり、現在の行き着いたゼロ地点から振り返って、戦後思想の最低限の了解事項が追認され、再検討を迫られる事態になったのも自然な成り行きだった。それは不可避であり、また、わたしたちのだれもが認めざるをえない過程とおもえる。
小熊によれば、丸山真男や大塚久雄の「主体性」の問題は、敗戦直後の時代状況の中で、人々の戦争体験の記憶という広範な土壌に根づいたものであった。そのため、多くの知識人が抱いていた心情の最大公約数を表現していた。彼はそれに「ナショナリズムとデモクラシーの綜合」という名称を与え、「民主」と「愛国」が両立していた稀有な時代の代名詞とみなした。このような見方は、もし、戦後思想というべきものが明治以降の近代史の中で重心をもち、決して近代史一般に埋め込まれてしまわない現代をきわだたせる目印になりうるとすれば、何より先に、戦争体験をどう思想化するかであり、日本人にとって戦争の記憶とは何であったかを問うことと同義であった。
戦争と敗戦からの出発は、戦死した親族のことや空襲で焼け出され何もなくなったところから、人々は「死」とは何か、「正義」とは、「国家」や「公」とは何かを頭で理解するより前に深く心に焼きつけ、生半可な言葉や思想への懐疑と反発によって開始された。そこでは、大衆のナショナリズムの核心は、戦争体験という個人の体験でありながら、同時に、他者の体験でもある共同性の行為の表出になっており、「民主」と「愛国」は共存して、戦後の改革・民主化運動の推進力となった。この小熊の主張の目新しさは、戦争体験を共同体験として、それ自体ナショナリズムを喚起するものに見立てたことであり、それこそが戦後思想の枠組みをつくったことを示したことにある。
しかし、小熊はそのような枠組みを拡大再生産させるどころか、途絶させるような事態が生じたと考えた。それは、戦後意識の風化を待つように、ある傾向の言説の大きさが無視しえなくなったことだ。戦後思想の異変に対する危機感が如実になったのは、戦争の記憶の風化とともに、戦争体験の共有意識が大衆の経済ナショナリズムにとって代わりはじめた1955年以降である。1960年の安保闘争をはじめ、まず、第一の戦後思想の危機は、言葉に尽くせない戦争体験を基盤にしているゆえに、戦争体験をもたない世代と共有する言語思想をつくれなかったことだった。
第一期の戦後が終わり、高度成長経済の中で相対的安定期を迎えた頃には、戦争体験にもとづく思想は、もはや人々の潜在意識に訴える力をもつことができなくなり、戦争を知らない世代との断絶をうみだした。こうした背景を後押しするように、吉本隆明や江藤淳の戦後思想批判がはじまった。彼らの戦後思想批判は戦後民主主義批判と総称され、その波紋は60年代の安保闘争後の戦後世代による帝国主義批判やその後の江藤の抽象化した戦死者のシンボル化に偏ったナショナリズムとして、左右両翼から発せられたことにあらわれた。こうして「民主」と「愛国」の共存状態は破綻し、それ以降、批判対象としての戦後思想は、安易に戦後民主主義と揶揄されることになり、のちのちまでその批判は、戦後という去りゆく時代を呪縛したと指摘されている。
小熊は、吉本や江藤の戦争のくぐり抜け方をつぶさに観察しており、それによると、彼らがともにロマンチックな戦争観をもちながら戦後民主主義批判をおこなったとしかおもえなかった。敗戦時の若すぎた体験思想は、強い被害者意識に縁どられており、さかのぼれば、世代や階層によって偏った戦争観が増幅される証明とされた。彼らの年長世代への反発は、たとえば、吉本の戦争責任論のように、戦前の一部のマルクス主義者が戦中には戦争賛美を行い、戦後はすました顔をして民主主義者を詐称して再転向していったことに、ことさら目くじらをたて、拡大鏡にかけて覗きこんでいるようにみえた。
戦争体験がもっていた言説の可能性を剥離させ、無理やり「民主」と「愛国」の間を裂いて、いわば、メタ戦後の方向にひっぱっていったのは、戦争体験の風化であり、その風化を加速させたのは吉本や江藤の言説だったというように小熊は考えたのだ。小熊には、それ以降のさまざまな言説は、共通の前提になっているはずの戦後ナショナリズムの原点からの逸脱としかおもえなかった。戦後批判が、より若い戦後世代によっておこなわれるようになった時点において、吉本、江藤などが敷いた戦後思想のレールの上でさまざまに蒸しかえされ、彼らから与えられた言語圏で幻想の戦後と対面しながら、独り相撲をとっているようにみえたのだ。
しかし、わたしは戦後思想の鞍部とは、たとえ、読みまちがいがおこるかもしれないが、大衆のナショナリティをどれだけ至近距離で、いち早く反映することができるかどうかにかかっていると考える。もちろん、ナショナリティとはイメージの世界にすぎないから、結像するには条件があって、小熊の疑似的なルポタージュの方法では不可能だとおもう。彼が吉本や江藤の体験を特殊なものにすぎないという批判の仕方では、どこのだれの体験が一番都合よく戦争を体現しているか示さなければならない。そうでなくとも、あれやこれやの特殊な場所から抽出される体験の相を選り分け、普遍性に向かう経路を示さなければならないはずだ。つまり、いうなれば、使用価値から交換価値をつくらなければならない。
わたしのいうナショナリティとは、この場合、貨幣価値のことを指している。さらに、貨幣は時間をうみだすから、場所だけではなく、人間の心的なレベルにまで凝縮された普遍性への経路が、当然、計測されていなければならない。つまり、戦争と聞けば、第一に戦友のことだったり、塹壕堀りだったり、傷痍弾で焼かれる家だったり、被爆だったりする人の数だけちがう特殊な体験を普遍につなげるには、言葉と現実との距離測定をしなければ、陰影の薄いモンタージュ映画のようなものにしかならない。小熊は普遍と特殊の切り割りの言語論を知らないまま、より抽象化したレベルまでの手間を惜しんで、貨幣単位(貨幣の貨幣)を貨幣価値と読みまちがえたはじめから、「民主」と「愛国」の対立軸を既定の事実のようにして、それだけで戦後思想をふるいにかけようとした。
そのため、「民主」と「愛国」の区別は、かえって彼が否定しているところの「保守」と「革新」の対立の構図にかぎりなく似かよってみえてくる。「保守」と「革新」が互いを必要にして十分条件として共存しているのと同じくらい、「民主」と「愛国」の関係自体、もともと同じコップの中のようにつながり、補完的なものにすぎない。それなのに、戦後当初、しばらくは「民主」と「愛国」は幸運な共存をしていたのに、あるとき目を覚ましたら、突然、ウルトラ「民主」やウルトラ「愛国」が出現したことに慄然とし、稀有な共存の夢が破れたことに気づいた彼は、その原因を探してこの新しい悪夢を精神分析しようとしたのである。
だが、そのウルトラ「愛国」は戦前の農本ファシズムや社会ファシズムとは似て非なる顔つきをしていることに更なる驚きがつけ加わる。少なくとも、「民主」と「愛国」の共存自体、それ以降、凡庸な中間点からみた錯視でしかない時点が想定されなければならなかったのだ。こういう折り返し地点は、やがて、小熊によって戦後民主主義の危機を招きよせた当人と名指しされた江藤淳においても、危険な均衡を背負わされることになった。
時事的な文章を読むとよくわかるが、江藤の思考が敗戦の痛手を強く受けているところからはじまっているのは明白である。しかし、はじめの頃は後年のように保守的な日本への回帰の論調というよりは、むしろ、逆に、近代主義的な見方を前面に押したてていた。『二つのナショナリズム』で、開明的ナショナリズムを頑迷な攘夷論から区別し、勝海舟が体現した近代国家観を評価して、また、『英語と私』では、外側から見た日本を具象像として自覚する過程が描かれており、その主張はいずれも、国際社会の相対性の中での国家や国民の基本的なあり方が近代主義的な色調で統一されている。
とりわけ、国家への忠誠が「天皇」や君主へのそれにすり替えられる封建性を、藩閥や戦中期のファナチズムのうちにみてとって、それからの対比で公的なるものへの忠誠を、国民と国家への信頼感のうちに内面的に位置づけ、それを冷静な知覚で理想化している姿勢には、古典近代的な国家観が息づいているのがよくわかる。また、江藤が自らを律する立場を一言で言えば治者の論理であるが、これも責任ある社会的地位にあり、責任ある言動をとるべき人間の倫理として、自己責任の論理から近代的な立場を説明するものであった。
江藤が近代の定着を、内面の自意識の劇としてとらえるようになったのは『小林秀雄』を書いたときである。小林にとって自意識の処理方法は、近代を内在化する方法を方向づけた。ここで特徴的なのは、小林の自意識の劇は二項対立の精神の揺らぎとして表現されたことである。つまり、江藤がのちのちの批評活動を決定するパラダイムである父と子、自然と社会、生と死、現実と自己などの近代の二元的な思考様式がはっきりと色づけされたことである。そして、これらのパラダイムによる解剖から浮かびあがったのは、もともと、現実嫌悪がその資質であったのが、倫理の介在によって、他者と不可避に対面せざるえない二律背反が円環をなして、内面の対立と相克を繰り返した自意識そのままの小林秀雄像であった。その点において、現実嫌悪を本質とする小林の精神は、マルクス主義への違和感をつうじて「社会化された私」の問題を俎上にのせると同時に、歴史との対面を強いられたとされている。
ところが、長谷川泰子をめぐる中原中也との三角関係に遭遇することによって、再び、小林を歴史の彼岸に連れ出していく。そういう歴史の彼岸に最も親しい風景を、江藤は「青い海」に象徴される心の内奥のイメ-ジに凝縮させて死の意識と呼んでいる。だが、当時の戦争突入頃の時代背景は、小林をこの内閉的な場所にとどめておかず、個人の思惑などはるかにこえて、急激な自意識の崩壊に直面させずにはおかなかった。暗い戦争の影は、自らの文学を大衆としての他者とのつながりの中で、やっと確証せざるをえなかったからである。
しかし、戦争に対する絶望感は、更に、彼を「青い海」の虚無の風景に吸い込ませてしまう。小林の精神は、戦争期をつうじて仮面の透明感とモノの手触りに回帰していくのである。これは小林に親しい死の意識とモノの感触との統一感として溶解していく場所にほかならない。こうして小林の積年の自意識を中心に据えた揺れと振幅の円環は、敗戦によって完結する。この小林の精神に対する江藤の着眼点は、江藤の眼を完結することにも手を貸した。江藤における早熟の眼は、このような場所でそれからの身の処し方を決定づける。
俗にいわれているように、江藤が『小林秀雄』を境にして、進歩的立場から保守的立場に転向したという見方は見当外れである。『小林秀雄』の中でも、あくまで、江藤は精神における近代主義的な思考様式を如実に示しているからである。もともと、江藤は、『夏目漱石』によって近代における社会と個人などの二律律反を倫理の問題として提出した。この倫理的方法は、『小林秀雄』における倫理の問題を映して二重化されているからである。おそらく、真の意味で、江藤が変質したのは、もっとのち、明治の群像の中に「現在」を溶解しようとする意志をもってからである。まだ、『小林秀雄』の段階では、「現在」を「現在」のままで提出しようとしていたとおもえる。
ところで、江藤の本来的な資質からいえば、『成熟と喪失』で俎上に乗せた安岡章太郎、小島信夫、吉行淳之介など戦後第三の新人の作家たちに擬された「母性回帰」の願望は、潜在的に共有されていたはずのものであった。だが、彼はそれを父性原理、公的なるもの、治者の論理に黒白に反転させて際立たせた。彼は『成熟と喪失』の中で、小島信夫の『抱擁家族』に触れて、「母」の喪失がわが国の文学者の心にどのような陰影を強いるかを次のように述べている。
≪今や日本人には「父」もなければ「母」もいない。そこでは人工的な環境だけが日に日に拡大されて、人々を生きながら枯死させていくだけである。時子がのこした「家」がこのような状況の象徴であるとすれば、そして時子自身が実は「父」を求めていたのだとすれば、作者は少なくとも『抱擁家族』のなかに「父」の欠落を明瞭に刻みこんでおかなければならなかった。それが実現されていないのは、前に指摘した通り作者にはじめから「父」の機軸が欠けていたからにほかならない。これはかならずしも小島信夫氏だけの弱点では
ない。『沈黙』の作者遠藤周作氏をも含めて、いわゆる「第三の新人」一般に「母」に対する敏感さとうらはらに「父」の背後に超越的な「天」を視る感覚が欠けているのである。彼らは昭和三十年代の産業化がもたらした具体的な解体現象をとらえ得ても、その先にある問題を、つまり内にも外にも「父」を喪った者がどうして生きつづけられるかという問題をとらえ得ていない。≫『成熟と喪失』 江藤淳著
だが、江藤のいう文化的な背景を背負った母と息子の粘着性の高い関係への着目は、江藤自身が4歳のとき母をなくして以来、周囲のあいだにいつも癒しがたい違和感をもち続けてきたことと決して無関係ではないとおもえる。この経緯は、江藤のコンプレックスの所在として、吉本隆明が指摘したことがある。吉本は、江藤のコンプレックスを「母」と死別した乳幼児期の体験に原型を求めている。この不幸な傷跡は、江藤には出来損ないのおちこぼれ意識をともなって、親の目をかすめて文学作品を読み漁ることで、慰めをみつけた少年期をすごしたとされている。だが、彼には「母性」喪失の高い代価を支払ったものの、経済的余裕と教養主義的な家庭環境と再会すべき「一族」があった。
この家庭環境を支えとして江藤は、外の世界へ向かうことができた。彼の治者とは、これら「一族」たちの家庭環境のバックボーンすべてを意味した。そのため、残念なことに、彼は落ちこぼれであった自己に、一瞬、対面しえたかとおもえた『成熟と喪失』期をのぞいて、自己資質と面接することを避け、文体にかかわる視力を失ってさえ、喪失した治者の立場に固執し続けたようにみえる。江藤をみていると、人は文学が慰安であった時期から、やがて、大人の文学者に成長していくにつれ、自らの過去を忘れようとしたり、喪失感をともなって別の自分になることが、公に対する義務であるかのようにおもいはじめることの意味を、あらためて深く考えさせられる。老いについても、所詮、どう老いるかということに過不足なく重ねることができるとすれば、もしかしたら、第三の新人のような場所に踏みとどまっていたなら、自殺しないですんだのかもしれない。
それにしても、『成熟と喪失』は、わが国の知識人の脆弱さ、未熟さを、戦後文学者にとどまらず、近代の精神史のパ-スペクティブにおいて摘出した点において、個人と社会、内面と外面、個人と共同性の関係等、『夏目漱石』以来のもち続けた問題意識がすべて出揃っている。つまり、知識人の神話に対して自己反省がない社会意識の暗部に垂鉛を届かせ、「甘え」と「ゴッコ」に奔走する彼らの内部精神が、いかに自己欺瞞に満ちたものであるかを、鋭く摘出することになった。
江藤の筆鋒は、わたしたちにおざなりの民主主義や平和、ヒュ-マニズムなどの戦後民主主義の合言葉が、空疎で擬制に満ちたものでしかないことを教えたばかりか、何よりも、自分の存在の底から絞りだされた言葉でないものを振り回すことの自己喪失感について気づかせてくれた。時に傲慢に、時に卑屈である知識人の態度が、大人であることの悲哀や責任の重圧への忍耐によって解体されるさまは、国家、社会、個人の背離を浮き彫りにする以前に、江藤という文学者の内部精神の所在が、生き続ける生活者であることの意味をとおして、知識を映しだすために加担した幸運な時期でもあった。
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