ロスアンジェルス支店-最後の自由―はみ出し駐在記(25)
- 2015年 6月 26日
- 評論・紹介・意見
- 藤澤豊
輸出業務代行を目的として作られた子会社で営業マンの下働きをしていた。そこに同世代の職工さんが次期駐在員として送られてきた。(こっちは油職工崩れ、職工は差別用語でないと思っている。) 日本で海外市場を支えている事務方の仕事も見てもらおうとのことで、赴任する前にちょっとした時間を過ごすのが決まりだった。
昨日まで作業着に安全靴だったのが、お見合いに行くのではないかという新調したスーツにネクタイ。慣れないいでたちのおかげか、場違いと言ってもいい事務所でも溌剌としていた。七十年代中頃、フツーの人たちにとって海外はまだまだ遠い存在だった。工業高校出の職工さんが、海外駐在ということでちやほやされて、選ばれた-エリートと勘違いしてもおかしくない。もう気持ちはもうロスアンジェルス、心ここにあらずだったろう。北米担当営業やアシスタントの女性から業務の流れを聞いたところで右から左へ、当事者意識がないから何も残らない。
営業や技術の日常業務のバタバタを何を見るわけでもなく眺めていた。現場と事務所の敷居はどちらからも高い。人によっては慣れるまでに数ヶ月かかる。行ってすぐ何かできるわけではない。それでも何かできることでもと言って来るかと思ったが、最後まで何もしないで平然としていた。大物なのかただの愚鈍か分からない。この神経の太さ?を買われてのロスアンジェルス駐在だったろう。
ロスアンジェルス支店(以下LA支店)は駐在員を育てられないところとして鬼門だった。とんでもない人材ではないにしても、それなりに嘱望されたのを送り込んではいるのだが、一年も経たずに追い返された。今度来た押し出しだけは立派なのが、果たしてLA支店でどこまで持つか。技術の窓口担当としては半分他人事、半分そうとも言ってられない立場にいた。
未経験者ではなく、どこかの支社の駐在員上がり-駐在員として独り立ちした人をLA支店に送る手もあったろうが、独り立ちした同士がぶつかり合って、最悪の場合事務所が空中分解しかねない。若いのを送って上手く行けばという希望に託すしかなかった。
LA支店は営業と技術の二人のマネージャ-が切り盛りしていた。二人とも外様で、日本の本社の枠内に納まりきらない一匹狼だった。営業は日系商社をスピンアウトしてブローカのようになっていた人で営業手腕を買われた。技術は制御機器屋のLA駐在員だった人がスイス人と結婚して帰国できなくなって転職してきた。方や居酒屋営業の典型、方や技術研究畑一筋、お互いの領分を侵しようもなく、大人の付き合いで支店がもっていた。
二人とも、いつでもどこにでも転職できると思っていて、日本の本社の意向など気にしない。まして後進の育成などに興味はない。若い人たちは、自分たちがしてきた苦労をしてこそ、自分たちのように一匹狼として通用するビジネスマンになれるのだと信じている。
二人の目には日本から送られてくる若い駐在員、誰も彼もが使い物にならない。技術的には不勉強の極み、ビジネスや英語に至っては端にも棒にもかからない。苦労して学ばなければならなのに苦労を疎む。。。
工場にいてオヤジ連中のなかでゆっくり育ってきた若い職工さんが、ポンとアメリカに送られただけ。その人たちに何を求めているのかと聞きたくなる。送られてきたぼんやりした若いのを一人前の駐在員に育て上げるのがあんた方の仕事じゃないかと箴言できる、しようとする人はいなかった。いたとしても、そんな箴言で何が変わるような人たちではなかった。誰が付けたか、ニックネームが語っている。営業の酒やけしたのが赤鬼、技術の痩せぎすなのが青鬼。どっちも自分に合わない人たちを弾き飛ばして生きて来た我の強さでもっている人たちだった。
案の定、一年待たずに帰国した。羽田で見送ったときとさして変わらない笑顔でゲートをできた。内心は分からない。LA支店で散々嫌な思いもしてきたろうから、羽田に着いてほっとした顔なのかもしれない。それでも三年の予定で出て、一年持たずの帰国。多少なりとも憔悴した様子があってもと思ったが、誰かが買った底抜けの緩さのおかげか、出ていったときと同じように溌剌としていた。
若いのを日本からいくら送ってもつぶされるだけ。そこで妙案としてでてきたのが、NY支社で半玉まで立ち上がったボブをLA支店に出して、その補充としてこっちがNY支社に赴任。ボブ、フィールドサービスとしては半人前をちょっと出た程度だが、NY支社で駐在員として仕事をしてきたという実績もあって、二匹の鬼に潰されるようなことはない。
もし潰れるようなことがあったら、ボブ個人の問題ではなく二人のマネージャとしての責任が問われる。外様然として自分のことにしか関心がないにしても、そのくらいのことに気が付かないほど馬鹿じゃない。それでも最後はLA支店以外に活きる場を求めていった。セクレタリーの娘と結婚して、ニューヨーク時代に懇意にしていたコネチカットの客に転職してしまった。
ボブがいなくなるとの前後して日本から同期入社の技術屋が二人LA支店に送られた。二人ともいいヤツらだったが一年ちょっとしか持たなかった。一人はウィチタ(カンザス州)に出先事務所の設立に出された。社内結婚して奥さんも連れての赴任だった。右も左も分からない新米が一人でゼロから出先を作る?余程の支援があっても難しい。オヤジが走り回って週末しか家にいない状態が続いて、奥さんがおかしくなった。ニューヨークやロスアンジェルスなら日本語のテレビもあるし、日本食もなんとでもなるが、田舎で毎日亭主が留守だと一人でアパートに軟禁状態になる。車をもう一台と思っても金がない。インターネットなどない時代、国際電話は高くて使えない。フツーの神経ではまいってしまう。
もう一人は希少種とでも呼んだ方がいい本当にユニークな男だった。我が道を往って迎合とか阿るなどという言葉があることすら知らないといった性格だった。解決しようにも解決できないでいる問題の根幹を感情抜きの穏やかな口調で上司であろうと誰であろうとストレートに指摘した。あまりのストレートさに真っ赤になって、真っ青になって激怒した上司も一人や二人ではない。
その我が道を往くところを買われてか、島流しの刑かLA支店に派遣された。あそこまで変わっていれば、さしもの赤鬼も青鬼も手の施しようもなく、LA支店という特殊環境に順応して生きて行くかもしれないという人材実験をした。
ちょっと考えれば人材実験などしなくても分かりそうなものなのだが、そこはお役所もどきの名門機械メーカ、思考実験するだけの知識も見識もない。地の利もなければ英語もできないのが、我が道をと思ったところで、行けるのはそこらのメシ屋か飲み屋くらいしかない。
それでも一年以上は持った。よく持ったと思う。そしてある日失踪した。米国支社を上げての不祥事で大騒ぎになった。ご両親になんと釈明すればいいのかと人事担当が悩んでいた。ひょんなところから出てきて、何年かぶりに日本に帰ってきた。同期入社、同じ時期にニューヨークとロスアンジェルスと場所は違うが米国駐在員だったよしみで電話がかかってきた。
駅の改札で待ち合わせて、おい何食いたい?どこ行きたいって聞いたら、柄にもなく小さな声で恥ずかしげに、まず“ロンドン”に行きたい。おいおいわざわざロスアンジェルスから帰ってきて、行きたいのは“ロンドン”か、そりゃねぇーだろうって言ったら、先に“ロンドン”に行って、それから“ざるそば”がいいって。貧乏サラリーマン根性がしっかり染み付いて”ロンドン“と”ざるそば“で一丁あがり。まだ若かった、食った気のしない”ざるそば”食って、裏通りのスナックに。
話は今のことより当時のことが中心になる。。。LA支店?あそこはイヤな事ばかりだった。もうやってられないから帰ろうかと思ったんだけど、アメリカまできて思い出という思い出何一つない。せめて一つ二つの思い出と言える思い出が欲しくて、ちょっとでかけちゃった。みんなに迷惑?冗談じゃねぇー、こっちの台詞だ。
どうしようもないところで、どうしようもない人たちと、仕事に何も求めようがなければ、人はどこかに何かを見つける。見つけるものは人さまざま。それは逃避かもしれない。でも、探さなきゃ、見つけなければ、そのときを生きられない。逃避で終わるか、イヤな思いを梃子にして瓢箪から駒に大化けするか。どうなるか、どうするかも人次第。それこそ個人の自由。LA支店、仕事以上にこの最後の個人の自由に気づかせてくれる事務所だった。
後年いくつもの会社を渡り歩いて、LA支社が特別ではないこと、程度は違えど、どこにでもフツーにあるのを知った。なぜ貴重な人材を追い込んでしまうのか、追い込まれてしまうのか。解決できないはずはないと思うのだが、どこでも赤鬼や青鬼もどきが跳梁跋扈。貴重な人材が潰されて失って、無力感だけが残った。
Private homepage “My commonsense” (http://mycommonsense.ninja-web.net/)にアップした拙稿に加筆、編集
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
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