書評 戦後意識の芽ばえから
- 2015年 7月 1日
- カルチャー
- 宮内広利江藤淳白井聡
表現行為そのものには、自らの内面に沈潜すればするほど、外面に向かって拡散してしまう逆説が秘められている。この逆説は、「私的感性・意志」のあり方と結びつけて考えるとき、はじめて戦後のナショナリズムの動向は、いままでとはまるでことなった顔つきをしていることがわかる。それどころか、戦後の人々の意識の推移のなかで文学意識をおしはかる際に、「私的感性・意志」以外に有効な武器はないとさえおもえる。敗戦を境にして国家意識統合のシンボルを喪失したことによって、戦後のナショナリズムはひたすら横へ拡散していった。このような認識を基調にすえれば、わたしには戦後の大衆社会の動向は3段階に区分され推移したとおもえる。
まず、第一段階は、1945年の敗戦時から、朝鮮戦争の特需から経済復興がはじまり、ようやく戦前の水準にまで回復して、政治的には講和条約締結で独立をはたした直後の1955年前後までの間である。その間、戦前は縦の関係に吸引していたナショナリズムの核が奪われ、行き場を失ったひとびとの感性・意識が横へ横へと分散していった時期である。次の第二段階は、その後の高度成長経済の到来とともに、経済大国のナショナリズムは膨化しながら、1970年から数年の間の収縮期をくぐり抜けたあと1975年頃まで「私的感性・意志」は膨化の一途を辿り、とうとう第三段階の「私的感性・意志の解体」をまねきよせ、現在にまでいたっているというコースである。
後年、敗戦期のトラウマと米国の占領化への反発に固執する江藤淳は、敗戦後10年間の区切りをもって、戦後社会と文学はすべて、米国の占領政策によってお仕着せられたタブ-の支配を許してしまったと述べた。もし、そうであれば、戦後の全階梯を反故にしてしまったのも同然になり、あとは戦前に回帰することしか残されていない。しかし、米国の影響下にとどまったのが事実であるにしても、戦後のわたしたちの意識・感性は、それ自身に刻印した時間の累積をもっている。
それは第一段階においては、何より、国家権力の解体によって戦後を出発する際、ナショナリズムの求心軸が喪失するのに応じて、人々は新しい時代の実感を物質的欲求によって表現しようとし、その自由が先鋭な輝きを放ったことである。戦前の封建体制をこわすため占領軍は、戦争犯罪人の裁判、戦時指導者の追放、思想警察の廃止、治安維持法の廃止、政治犯の釈放、財閥解体、農地改革、天皇の人間宣言、憲法の起草、婦人参政権などを矢継ぎ早に推し進めた。
戦後いち早く花開いた野間宏、椎名鱗三、梅崎春生などの第一次戦後派の作家たちが、敗戦時の体験を自由に表現したことにおいて意義をもっており、その自由の背後には、江藤のいう「占領軍からの自由」だけでなく、自由を物質的なものとして、身の丈にあった社会的な広がりの中で考えることができる環境をつくりだしていたことである。なにより占領軍は、莫大な量の放出物質として小麦粉やとうもろこし粉、粉乳などの食糧の供給者の印象をわたしたち日本人に残した。江藤が認めたがらない敗戦と戦後の自由は、ポツダム宣言受諾のあり方や占領軍による検閲など国家的レベルの理解としてではなく、大衆意識の即物的な面から抽出すべき理由がここにある。
第一次戦後派は、戦前・中・後のこの自由を連続させるアイデンティファイに失敗した体験を、自我の喪失あるいは解体として表現しようとした。しかし、これは実際には内面性に関わるというよりも、より正確には、家族と死別したり、空襲で家財道具を失って着の身着のまま焼きだされても、闇市的自由は、今まで味わったことのない感触が加担した解放と自覚すべき性格のものであった。戦時経済統制のもと、配給券以外に生活物資を得るすべをもたなかった普通の人々にとって、内面性はもとより、一部のブルジョア階級をのぞいて、自我に値する特権を享受する自由などありえなかったはずだからである。縦に貫通するブルジョア国家権力による統制と天皇制国家の経済外的強制の圧迫下をくぐりぬけた敗戦による大衆の解放は、本人たちの自覚の如何を問わず、何よりも第一に、農地改革による食料に対する自由であったと同時に、何をしても誰からも咎められないという闇市的自由の到来を膚で感じたことだった。
この二重の自由が人々の意識上の原点であることは、戦後を考える場合、まず、前提にしなればならないとおもう。戦中、戦後をつうじて食料に窮することがあっても、あくまで痩せ我慢をつらぬいた江藤や、食料に対する自由も知らず、江藤の本を通じてしか戦後を知らないより若い世代の政治家たちが、「美しい国ニッポン」などと、まるで、海外から訪れた観光客のような気分で、戦前・戦中・戦後を一筋につないで、つぎはぎだらけのナショナリズムを煽るような試みは、ほとんど、ナショナリズムの外皮だけの妄想でしかない。
しかし、この奇妙に明るい闇市的自由は、やがて経済復興と、占領から独立へと続く政治的変動を通過するにつれて、安定と秩序を求める国家的・社会的再編成の前に次第に色褪せてくる。それとともに、60年安保闘争を最初の発火点とする経済至上主義の到来をまって、自由は色合いを変え、戦後当初の明るさと恣意性を失っていき、文学的表現としてもモノト-ンに変調していく。そうしたことから、それまで米軍基地反対闘争、炭鉱争議などはあったが、60年安保闘争は真の意味で、敗戦直後から拡がった国家の意志に抗する自由の存在性が試され、次に継承されるかどうかが問われた最後の闘いにちがいなかった。60年安保闘争の渦中にあった吉本隆明は、戦後の大衆意識の変容を次のようにとらえた。
≪戦後十五年は、たしかにブルジョア民主を大衆のなかに成熟させる過程であった。敗戦の闇市的混乱と自然権的灰墟のなかから、全体社会よりも部分社会の利害を重しとし、部分社会よりも「私」的利害の方を重しとする意識は根づいていった。…中略…丸山(真男)はこの私的利害を優先する意識を、政治無関心派として否定的評価をあたえているが、じつはまったく逆であり、これが戦後「民主」(ブルジョア民主)の基底をなしているのである。…中略…また、これら社会の利害よりも「私」的利害を優先する自立意識は、革命的政治理論と合致してあらわれたとき、既成の前衛神話を相対化し、組織官僚主義など見むきもしない全学連の独自の行動をうみ、まず、戦前派だったら自分でこしらえた弾圧の幻想におびえてかんがえもおよばないような機動性を発揮した。…中略…このような「私」的利害の優先原理の浸透を、わたしは真性の「民主」(ブルジョア民主)とし、丸山真男のいう「民主」を擬制「民主」であるとかんがえざるをえない。≫『擬制の終焉』 吉本隆明著
全学連と行動をともにした吉本がやり玉に上げているのは、戦前派の率いる革新政党と国民共闘会議などの自称前衛運動と、丸山真男や竹内好などのイデオローグを擁する啓蒙市民主義運動であった。特に、市民民主主義派は、「私的感性・意志」の発露が、自らの運動に都合よく按分されたときだけ進んだ部分と理解し、政治的無関心や傍観者になったときは遅れた部分として否定的評価を与え、かえって、みずからを古臭い公的立場に追い込むことにつながった。そういう丸山らの唱えた民主主義を擬制的と呼び、「真性」民主こそが既成の前衛党神話をくつがえし、安保闘争を独自の行動に駆り立てた原動力になったとみなしたのである。その上で、学生を中心とする急進的な運動も、それに対して一見、傍観者でありながら、「声なき声」を支えた多くの人たちも、「私的感性・意志」の流出であるかぎりにおいて同列にあつかったのである。
ともかく、1960年代初頭においては「私的感性・意志」を中心に据えた人々の経済ナショナリズムは、もはやあともどりのできないくらいの大きさに膨れ上がっていた。それから本格的な高度成長経済の滑走期を迎えて、1965年(昭和40年)を境に、さらに、社会の根本的な質的転換がおこる。その過程こそ、わが国の戦後世界の中で真に変容しつつある時間の別名になった。これは全社会的な消費活動、生産・流通の網の目の拡がりと緊密さにおいて、公的意志よりも私的利害をより重視する「私生活中心主義」=エゴイズムが開花した時期であった。日本人がいままでとちがって自己の利益に目覚めたということである。
私生活中心の意識はマイホームにむすびつき、片や企業社会では、モーレツ社員をうみだした。マイホームを維持するために企業内エネルギーを投入し、それによって企業の生産性を上げ、そこで生まれた商品が市場の中で、さらに多くの人々のマイホームへの欲望をかきたてるという私生活意識の拡大循環がおこるようになったのである。それは仕事中毒といわれている働き主義が猛然とおこってきたことを意味した。はじめはそれぞれの家族を養うためという目的をもっていたのであるが、次第に家族のためというよりも会社のために働くという思想にかわってきて、それがわが国の国際競争の中で勝ち進んでいく原動力になった。1960年から70年までの10年間で、勤労者世帯の実支出は2.6倍となり、支出構成では食料費の割合が低下し、耐久消費財や教養、娯楽、交際費などの支出が増加した。
マイカー時代が到来して、自動車、カラーテレビ、ルームクーラーが新しいステイタス・シンボルになった。また、若者にとっては余暇関連支出が急膨張した。所得の増加、労働時間の短縮により、レジャー産業ではボーリング、ゴルフ、スキー、旅行の大衆化など、つぎつぎと欲望の肥大化をもたらした。ここにおいては、私生活意識=マイホーム意識という消費は美徳の意識が、職域、地域、家族のなかで他をおしのけて前面にでてくる。より便利な豊かさへの競争に一旦入り込むと、消費生活の向上が、世間並みの生活実感にいいかえられ、すぐさま中流意識の浸透とむすびついた。1970年の時点で、みずからを中流とおもっている人は、すでに国民の9割に達していたのである。この飽満意識の拡充は、その後、1975年(昭和50年)頃まで続き、大衆消費社会の爛熟期の意識変容を決定づける。高度成長経済に酔うもの醒めているものを問わず、大都市圏のスモッグと通勤ラッシュに窒息しながらも、それが当たり前のように、より豊かになる可能性がすぐそこまで来ている期待に向けて足並みをそろえたのである。
しかし、「私的感性・意志」からあふれ出た経済至上のナショナリズムは両刃の剣であった。おそらく、江藤淳における変節と擬されているものは、おもに、大衆社会の変質期に当面して自分の居場所を見失い、そこから振りかえって、敗戦直後の恣意的自由の氾濫から戦後経済社会の高度化にともなう人々の意識の膨化の関連づけに失敗したことに帰因していた。このような膨れあがった生産・消費意識の変調を、江藤は、「母性」の喪失さえ意に介さない大衆の「私的感性・意志の拡散化」の過程としてとらえそこない、『成熟と喪失』で主張した治者の論理は、概念としてのみ機能しはじめる。そのため、治者は内実が形骸化したまま拡延したところで、国家意識との無媒介な結婚に繋がることになった。この大衆社会にまるで共鳴しない国家意識や戦後民主主義批判は、ただ影として概念の中に殻のように包まれ、閉じられていく危険に晒されるようになる。
なぜなら、第一次戦後派や第三の新人の作家たちに対して素直な違和感を吐露してみても、さて、その反発のルーツを探して辺りを見渡したものの、そこにあるのは醜悪な(にみえた)私生活ナショナリズム=エゴイズムばかりであった。そのことに気づいた江藤は、一瞬、目をつぶってみたが、まぎれようはずもなく、その届かないおもいは、大衆消費社会の爛熟期をくぐりぬける過程で、さらにアイデンティティ不在の疎外感をつのらせる。とどのつまり、イメ-ジとして戦後の歴史的時間を繰り込むことができなかった彼は、「一族」のイメージと治者の概念を継ぎ合わせることに落ち着いた。他面、この経過のなかで、必要以上に日本的なるものに固着を促したのには、留学体験の影響が大きかった。
留学は江藤にとっては、当然、外からみるわが国の自覚を迫った。この場合、外からみた当時の日本は、懸命に経済成長に邁進している最中の姿であった。しかも、それは外からみられているよりも、自己を求めるのに急ぐあまり、内と外の相対感覚を脇に置き忘れたかのように映り、江藤にとって衝撃は倍加した。江藤のその後の方向を決定づけたのは、この外の世界への方位感覚であり、それが外からみられていることを内在化した論理として、ぶざまな姿を外にさらしてはならぬという度はずれた使命感に形を与え、必要以上に力瘤をつけさせ、緊密な文体をひきよせたといえる。彼の近代史を総ざらいするようなノンフィクションノベルの舞台装置が、ともすれば人工的で硬直しているのは、これらの要因による相乗作用にほかならない。
敗戦はまちがいなく、わが国のすべての人々の胸中に近代史の断層を招き入れた。それにひきかえ、江藤の占領史話は、敗戦による大衆ナショナリズムの横への拡散とは異なり、ネガフィルムのように裏返しの陰影を描いた。彼にとって大衆意識の断層は、戦争の終結による混乱そのものからではなく、その混乱を収束させた勢力(占領軍)によってもたらされたようにみえたのだ。しかも、混乱の収束のやり方はより巧妙であったので、断層さえ見分けがつかないほど、その後の日本人の無意識に奥深く浸潤し、いつ終わるかも見通しがたたない新たな米国との影の戦争の絶望感に誘われたといわれている。
占領軍GHQの検閲は徹底をきわめ、戦後の言語表現すべてにわたって、日本人的なるものに反動的とレッテルを貼り、口を封じただけではない。検閲の対象は反米的な言説や検閲それ自体に対してもおよび、その結果、言語の呪縛は、米軍の直接的な検閲が廃止されてもなお、日本人の意識の奥深くに無意識の澱を植えつけた。さらに、戦後文学の空疎さも、その原因をさかのぼれば、この呪縛の構造の内部に閉じ込められたというのである。これらについて、江藤はうず高く積まれた資料の厚さをもって検証に応えようとした。
検閲の実態が次第に明らかになり、日本国憲法の制定過程にさえおよんでいたことでさらに驚きがつけ加わる。江藤のいう「1946年憲法(日本国憲法)」は、以後の検閲によって巧妙に隠蔽されているものの、実際に起草に関与したのはGHQ民政局であった。その上、その憲法たるや、第9条2項に示されているように、米国に対して日本国そのものが将来にわたって脅威にならないようにするために交戦権を否定することで、「主権制限条項」を含んでいるとされる。
江藤にすれば、もはや、わが国は国家ではなく、「国家なき国家」に転落したといっても過言ではなかった。そして、占領憲法起草の過程を発端に、わが国と米国の関係は、≪保守改憲派、革新護憲派、および米国とのあいだに存在する黙契の関係、反発力というよりはむしろ相互に不思議な親和力が作用しあっている≫関係を密教としてきた。戦後憲法が改正されないかぎり、その政治的駆け引きは再生産されて現在をも拘束し、その後、経済力をつけてきたわが国と米国の力関係のうちにみられる現実とのギャップを拡げながら、「日米戦争は終わっていない」という江藤の確信につながった。
本多秋五との間に交わされたいわゆる「無条件降伏論争」も、彼の戦後史が近代史総体の中で、過程としてではなく昭和20年に停止した時間を逆に押し戻した価値観のありかを浮き彫りにした点で、その後の江藤の方向を決定づけた。江藤は、「自由」と「禁忌」の対句をつうじて、いわば、戦前の天皇制国家を一方的に「闇」として断罪しながら、逆に、戦後社会を「進歩」とする通念を反転する。つまり、明治維新後の近代国家形成の道筋からすれば、依然として続く占領米軍の威圧の元での拘禁状態の方が例外であるとしたのである。その上で、戦争と敗戦の意味を曖昧にやりすごし、占領軍にあてがわれた戦後民主主義に自己同一化してしまった戦後知識人の内面の方が「闇」と呼ぶにふさわしいとした。
彼からすれば、戦後社会は今でも米国の占領下にあるというのは、文学的メタファーでもなければ、特定のイデオロギーでもなく、「国家なき国家」でしかありえないわが国の受け入れている現実であった。彼の口吻は、明治以降、あれほど莫大な犠牲を払い、懸命に近代国家の礎を築いてきた営為が、戦争によって水泡に帰したばかりか、戦後はその理想と現実のギャップを埋めるてだてもないまま、わが国が米国の世界戦略のレ-ルの上を走っていることに向けられている。米国の世界戦略としてばかりか、その射程は文化の根底にまでおよび、無残にも骨抜きにされ、人々は「禁忌」に支配された言語空間に気づこうともしていない。こうして戦後史の核心は、言語をめぐる「自由」と「禁忌」の周辺に切実さをもとめられた。
最近、同じような問題意識をひきだしているようにみえるのが、白井聡の『永続敗戦論』である。彼はこの国の権力の中枢を担っている構造が「永続敗戦」の状況にあると述べている。つまり、戦後という時代は政治・経済・軍事的意味で直接的には対米従属構造が永続化されている。そればかりか、わが国が戦争に敗北したという敗戦そのものの意識を巧みに隠ぺいしてきたという。このように日本人の大部分の歴史認識の構造が二重化しながら、継続しているととらえたのだ。
こうして「永続敗戦」の構造は戦後の根本レジームになった。戦後民主主義を批判する保守改憲派は、彼らの信念においては、戦争は負けたのではなく終わったのであり、ポツダム宣言を否定し、東京裁判を否定し、サンフランシスコ講和条約を否定するのである。しかし、そのような筋道に対するもう一方の極においては、自分たちの勢力を容認してくれている米国に対しては卑屈な臣従を続けているのである。国内及びアジアに向けては敗戦がなかったかのようにみせると同時に、米国に対してはたえずご機嫌伺いを怠ってはならない構造こそが「永続敗戦」という概念が指し示す状況なのだという。この意味で、白井は敗戦の否認と対米従属は相互に補完する関係であるとみなしている。敗戦を否認しているがゆえに対米従属を続けなければならず、対米従属を続けている限り、敗戦を否認することができるのである。
白井は江藤と同じく、戦前の国体=天皇制との類比で戦後レジームにおける顕教と密教の二重性を明らかにしている。つまり、戦後の権力は、大衆向けの顕教のレベルでは平和と繁栄に裏支えされて敗戦の意味を可能な限り希薄化するように機能してきた。その実、密教のレベルでは対米関係における無制限な「永続敗戦」、すなわち、恒久的な対米従属をリアルポリテイックとして演じてきたのである。そうして、「永続敗戦」は戦後の国体になったといわれる。それは米国を引き込むことによって、敗戦を乗り越え、恒久的に自己を維持することができることになったのである。
白井が江藤とちがうのは、こういう戦後史の空間が権力中枢の政治にどのような影響を与えてきたかという点をめぐるものであった。それに対して江藤の場合は、あきらかに革新護憲派=戦後民主主義派のあやつる言語の欺瞞を暴露するものである。江藤にとっては、わが国の戦後の言語は米国の占領政策の中で決定づけられ、ほんとうの自由を奪われ続けてきたとみなしたのである。しかし、1970年以降、日米間の関係は重大な節目を迎え、経済的にはほとんど対等な立場にまでなった。また、米国は世界戦略の上でも重大な転換を迫られ、米国主導の世界体制は大きく揺らぎ、混迷と移行の時代を迎えている。それにもかかわらず、わが国は精神的鎖国状態のまま、あいもかわらず、米国に押しつけられた「禁忌」を保守しながら、鏡貼りの密室で堂々巡りの議論に明け暮れしているありさまということになる。
しかし、江藤の場合、こういう「私」の逼迫した被虐状況の認識や言語の拘禁感に対する失意と抵抗の舞台は、残念ながら、占領からはじまった戦後という単色の世界に限定されていた。戦後と「私」に関係づけられた固有の認識は、戦後そのものの舞台が変質していくとき、仮構の舞台装置を求めることになってくる。この内省が欠如しているから、彼にとって敵は仮構としての「私」たちでしかなくなる。
生前の江藤からは、「私」の言語の危機は、対米従属からもたらされる性質のものではないのではないか、ほんとうの敵はむしろ、この膨大にふくれあがった大衆消費社会の時間のサイクルそれ自体にあるのではないかという肉声は聞けなかった。わたしには大衆消費社会からくる「私」の窒息感、客体化こそが、彼に戦後の「閉ざされた言語空間」という仮構の舞台を設定する理由を与えたようにおもえる。「私」の主体の変容は、それ自体としてとらえられるものではなく、奪われた時間の質量に応じて計測されるものだ。だとすれば、どこからくるか不明な漠然とした不安、焦りの感情が増せばますほど、敵は「私」の外側に投射され、戦後占領期に居座った江藤の想像上の戦後と「私」の関係を妖しく照らしだす。
江藤は、「閉ざされた言語空間」のこちら側で、もっとむきになって戦後の大衆社会のもうひとつの現実と対面すべきであったのだ。もしも、感受性の差異というのなら、自身の初期の文体論に立ち戻って考えてみればよかった。現実や他者は概念として抽象化すると、いかなる場合でも言葉の風化を避けることができない。また、イメ-ジが先行し、言語をあと押しする江藤の方法にとっては、その概念が大衆社会状況にさらされなくなり、目前の微妙なイメ-ジの転移に言語が追いつかなくなった時点で、現実や他者は、具体性をもたなくなる。このため、イメ-ジが拡がらず、時間に圧迫され、時計の針が逆回りして、たどりついたのが縮退化した国家意識であった。なぜなら、経済社会構成の膨大化によって、理念としての現実や他者が、ただ生活者の感慨と同背丈のイメ-ジに納まりきれない社会的背景が横たわっていたからである。
このようなイメージや概念の意味変容は、1970年代中頃から80年頃までの、ちょうど高度成長経済の爛熟期と符合していた。人々は経済的豊かさの中で、戦後大衆意識は一階梯を終え、新たなステップを用意していた。その頃から、戦後の文学史を大衆意識における「私的感性・意志」のゆくえという方法で考えなければならなかったのだ。文学が文学意識の表出とされるかぎり、社会意識の関係が歴史と交差する場所にのみ、言語のリアリティがうまれると考えるからである。つまり、このとき、「私的感性・意志」はすでに解体されつつあったのだ。この点は戦後のナショナリズムの動向とも結びつき、人々の生活意識に照らして、文学意識を測定するきわめて有効な基準となったとおもえる。
1980年代に入って、ポスト・モダンのかけ声が遠巻きに聞こえるようになり、わたしたちは江藤の言説に困惑し、もはや彼の文学的位置づけをするのが難しくなった。彼が文学意識の必然としてこだわっている戦後史論は、政治情勢論の観点から眺めると、わたしたちが60年、70年安保闘争を経過する過程でつかんだ常識の範囲に属していたが、それ以降の戦後社会の認識については、まるで正反対の方角を向いていたからである。
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