教育現場の現状がつづくかぎり、いじめによる自殺はなくならない
- 2015年 7月 15日
- 評論・紹介・意見
- いじめ阿部治平
――八ヶ岳山麓から(151)――
7月7日、岩手県矢巾町の中学2年・村松亮君(13)は、駅に入ってきた列車にはねられて死んだ。鉄道自殺である。
以下報道にたよるが、彼が学級担任に毎日提出する生活記録ノートには、いじめや自殺をうかがわせる言葉をいくつも残していた。「暴力、悪口、やめてといってもやめないし」「もう市ぬ場所はきまってるんですけどね」「ボクはついにげんかいになりました。もう耐えられません」など。
この種の問題が発生すると、日本では社会全体がきまった反応をみせる。
まず、マスメディアは学校に批判を集中させ、担任教師と校長の無能をなじる。校長あるいは副校長などが「教師から報告がなかった」とか「いじめといえるかどうかわからない」などといい、地方教育委員会は「学校から報告があれば対応できたのに」などと弁解し、たいてい対策プロジェクトチームを作るという。そして人々の怒りは(テレビなどに誘導され)学校と教師に対して破裂する。
今回もまったく同じである。
私は、8日朝「モーニングバード」(テレビ朝日系)に教育評論家の尾木直樹氏が出演して、「学校の体をなしていない」と激しく非難し、担任教師や校長を「失格だ」と漫罵したのを見た。――だが、ほかの学校はどうだ、似たようなものではないか。
信濃毎日新聞(2015・07・10)社説も「教訓がかすんでいる」と題して、「子どものSOSがまたも見過ごされた。やりきれなさが募る」とか、「(教師は)子どもの心の叫びをどこまで深刻に受け止めていたのだろうか」という。――ここにいう教訓とはなんだ。
校長は今回担任と村松君のノートのやり取りについても「担任から聞いていない」と話し、 7月7日に開かれた保護者会でもいじめの有無を説明しなかったという。――校長は学校を代表して表に出るが、クラスや生徒をいちいち知っているわけではないから、たとえ誠実な人でもその発言はまぬけな印象を与える。
矢巾町教育委員会は遺族の意向も踏まえ、いじめがあったかどうかや学校の対応について第三者委員会を設置し調べるという。また今春の教職員や生徒への調査が実施されていれば「調査で生徒の自殺前に何か手がかりをつかめた可能性は否定できない」とも話している。――これは責任逃れといわれても仕方がない発言である。第三者委員会など何かといえばつくられるが、いじめ防止の役には立たない。アンケートでは事態がわかりにくいのはやってみればわかる。
校長の発言があいまいのうえに、他の教師たちは箝口令をしかれているから村松君を取り巻く環境がわかりにくい。私もメディアの報道だけから判断するしかない。
たしかに担任教師のノートでの対応はとんちんかんであった。だが、同級生は「いい先生だ」と擁護している。これだけ村松君がノートで訴えているのだから、担任を信頼していたに違いない。だからこの前後に何があったかわからないと本当に担任が「教師失格」なのか判断できない。
担任の責任を問うためには、クラス内のいじめが同僚や校長に漏れれば評価が下がると思って囲い込んでいたか、村松君の窮状を知ってから傍観者である生徒も引入れて問題を解決しようとしたか、そのために他の教師の協力を頼んだか、教師集団は問題をどのくらい知っていたか、知っていたならどう対処しようとしたかなどが明らかにされなければならない。
友人によれば文部省の全国調査では、いじめ問題は村松君と同じ中学2年1学期に集中しているという。なぜこの時期に問題が起きやすいか、憶測は可能だがしっかりした分析はできていない。
私は、これを解明するためには加害生徒集団の実態を明らかにすることが重要だと思う。どのような生徒を中心にいつごろから形成され、彼らの学校内外の日常がどのようなものであり、教師集団はこれにどう対応していたか。
早い話が生徒間の暴行を教師が知ったとき、口頭で叱ることはできても(現にこの担任は叱っている)、これを根絶することはできない。私の現役教師時代のことを考えても、暴力と脅迫で向かってくる生徒に反撃できる教師は少なかった。加害生徒たちはたいてい教師には手に負えないほど強固で、しかも柔軟狡猾である。
村松君はあからさまな暴行を加えられており、それを多数の生徒が目撃しているが、この状況は30年以上前から続いている。文科省は確かにいじめ対策法を作った。矢巾町の中学もそれに対応する体制を一応整えている。だが官僚が発案した法律ではものごとの解決にならなかった。
学校は数十年前からかなりの児童生徒にとって怖いところ、教師にとっては危険で厳しく汚い3K職場になった。ところが、いまも教育行政も学校も教師もこの教育現場の惨状に対応できるだけの力量を持ち合わせていない。
このさい教師に批判が集中しがちだから教師についていっておこう。
まず大学で教職課程を選択したとしても、校内暴力、学力不振、不登校など課題に対処する講義をする大学は珍しい。教師が教職を続けるなかで力量を向上させられるかといえば、これがはなはだ難しい。夏休み冬休みには教育委員会主催の研修があり、これへの出席が義務化されているが、研修内容はマンネリ化し、たいていは現実に対処できるものになっていない。
小中高教師のほとんどは、学級全員の生活ノートを毎日丹念に読んで返事をしたり、生徒の変化に気づいても詳しく事情を聴いたりするゆとりがないことが多い。長期休業期でも休みは数日しかない。信濃毎日新聞社説にいうように「世界的に見ても日本の中学校は教員が多忙で、学級の人数も多い。(これは)OECDの調査が示している」
というわけだから、教師間の競争、成果主義の押しつけをやめ、雑用を減らし、教師を増員することは緊急に必要だ。だが、いじめや不登校については数を増やすだけでは解決できない。能力を持った教師の採用と養成が必要である。職員室に生徒の動きに敏感な教師が複数いるだけで、ことは大分改善できるはずである。
私は、小中高の教師に最低必要な資質は「子供・生徒好き」であること、これが出発点だと思う。ところが現状の教員採用・昇任システムではそうした教師向きの人物が教師になり、校長になれるとはかぎらない。採用側の関心は教職員組合対策などにあるし、2008年大分県の教員採用や校長・教頭の昇任をめぐるスキャンダルに見るように、教委はネポティズムに傾きがちである。
能力の点でいうと、矢巾町の中学の担任も校長も日本の現役教師の平均像からそんなにはみだしてはいない。東京都庁前で衆人環視の中、数十分も生徒を正座させた教師よりはましだ。もし尾木氏のいう通りこの担任と校長が「失格」なら、小中高教師や教師上りの教委管理職のほとんどをクビにしなくてはならない。
とりあえずどうすべきか。
このさい学校・教師は、勤務校にいじめがあることを恥とする考えをすててほしい。また学校だけで解決できるほどことは簡単なものではないと認識してほしい。「いじめ」は「嫌がらせ」「暴行・傷害」であり、少年法を前提に迷惑行為防止条例と刑法204条などの適用対象の刑事事件と考えるべきである。
学校は事件を察知したら、保護者・教委などにただち通知し、被害生徒の通学を止めるなどの保護措置をとり、校長は弁護士などの援助を得て事件を告発すべきである。
そして加害者を特定し事件の全容を徹底解明する仕事は、警察に任せること。今回父親が警察に調査を求めたというが、これは当然の行為である。大津中学生自殺事件のとき警察は300人余の生徒から事情聴取を行った。教師が授業をほったらかしにして調査しても、各方面からさまざまな口実の妨害が入って、なかなか事件の究明はできない。これは私の痛切な反省である。
被害者と保護者は警察に被害届を出し、同時に民法上の損害賠償を加害者とその保護者に請求してほしい。
担任教師や校長も公務員法上の責任を問われるべきであるし、情状によっては刑法の対象になるかもしれない。
こうすれば生徒らにも、いじめを「嫌がらせ」「暴行・傷害」の犯罪行為として認識させることができし、学校内外の「悪い仲間」からの救済になる。
メディアには報道は急ぐよりもっと慎重であれと願う。とくにテレビはその影響力が絶大であるから、現場に行ってよく調査し、時間をかけてできるだけ多くの事実をつかんでほしい。思慮のない、型にはまった発言を繰返すだけでなく、もっと多様な意見を伝えても罰はあたらないと思う。
私見に対し読者の皆さんのご批判をお願いする。多ければ多いほどいじめ問題を広く考えていただくことができ、その解決に役立つと思うから。
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