安倍談話における「歴史」
- 2015年 8月 20日
- 評論・紹介・意見
- 岩田岩田昌征
『朝日新聞』(8月15日)第6面の「戦後70年の安倍談話(全文)」を読んだ。
20年前の村山談話、10年前の小泉談話とくらべて何倍も長い。近代史・現代史担当大学教授による通年講義の初回序章としてみれば、中々立派なものだ。私には書けない。
(記者会見での冒頭発言)において、安倍首相は、「8月は私たち日本人に・・・。今は遠い過去なのだとしても、過ぎ去った歴史に思いをいたすことを求めます。」と語っている。この短い冒頭発言に「歴史」が6回も出て来る。その「歴史」とは、「遠い過ぎ去った歴史」である。
(談話を読み上げた後)の短い発言においても、「歴史」が5回も出て来る。
比較的に長文の談話本体において「歴史」は5回出て来る。「歴史」が最も効いている例を示そう。「何の罪もない人々に、計り知れない損害と苦痛を我が国が与えた事実。歴史とは実に取り返しのつかない、苛烈なものです。」 ここに言う「取り返しのつかない」は、「遠い過ぎ去った」と同義である。私は、ここにStatesman(国政家)安倍、Politician(政治家)安倍を見る事は出来ず、Professor(教授、教諭)安倍しか見い出せない。
言うまでもなく、近現代は、近世、中世、古代と違って、過去になり切れない時間である。それをあえて「取り返しのつかない、過ぎ去った」昔々として純粋理性的に見つめる。それが歴史学教授の仕事だ。それに対して、政治家は、「取り返しがつくかも知れない、過ぎ去りかねている」今昔として実践理性的に働きかける。「謝罪」も亦実践理性のカテゴリーである。
安倍氏は、今すぐ母校成蹊大学の歴史学教授となるべきであろう。
今日、大学教育において歴史学をはじめとする人文諸学が冷遇・軽視されている。談話・発言にみられる如く、かくも「歴史」重視の安倍政権の下でかかる文教政策が実施されているとは、腑に落ちない。
平成27年8月20日
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔opinion5592:150820〕
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