小説 「明日の朝」 (その9)
- 2015年 10月 16日
- カルチャー
- 小説川元祥一
9
遠いネオンを映して幻想的に光る水面から、人のつぶやきに似た水鳥の低い鳴き声が聞こえた。不忍の池。聖子の肩に手を置き、指に触れる頬のやわらかい感触を楽しみながら歩いた。
「あら鳥がたくさん泳いでる」
聖子が彼の手から摺りぬけて池の欄干に寄った。暗い水面に鴨が数十羽群れを作って泳いでいた。
「鴨だね、きっと」
「鴨って夜も泳いでいるのかしら?」
「この辺は街灯があるからね、結構明るく見えるかもね」
「そうねえ。でも、もしそうだったらかわいそうみたい。明りつけて眠るの邪魔してるみたいで」
「まぁね。鴨に聞いてみる?困ってますか~て」
平崎が言うと聖子がはしゃいで彼の手の中に戻ってくる。二人は鴨の群れが遠ざかるのを見ながら水辺のベンチに腰を下ろした。
「そう言えばねえ、私の家の裏の川に鴨がたくさんいるの。近所の小父さんが餌をあげてるみたいなの。以前は見たことなかったのよ、鴨なんか」
上野公園に着いた時、二人は公園の入り口にある大きな樹の下の野外ビアホールに席を取って、生ビールを注文し、聖子のために“お帰り”と乾杯したものだった。軽い食事も出来そうなので、しばらくそこに座って初夏の風物を楽しもうと話してもいた。しかし、簡単な中華料理を注文してはこばれた頃には、樹の下に並んだ数十のテーブルが人で埋っていた。そして、やがて二人のテーブルに相席者が現れるのだった。二人は席を立った。人目を気にせずに肩を寄せ合っていたかった。そして不忍池に下りてきた。
「子どもの頃川で遊んだ友達に会った?」
「ううん。子供の頃一緒に遊んだ人、ほとんど村にいないのよ。一つ年上の男の人がね、二人いるだけ。女の子はみんな町に出てるの。私もその一人だけど…」
「そうか…」
「それにねえ、私の友達で、もう結婚した人いるのよ。去年お見合いで結婚したんだって」
「へえー」
「ビックリしちゃった」
「あおられちゃう?」
「そんなことない。あまり早く家庭に入っちゃうとつまんない気がするし」
「自分の村で結婚してるの?」
「同じ村ではないけれど、近くの農村の男性と結婚したんだって」
「でも、都会に出る人が多いのに、偉いじゃないそんな人」
「そうねぇ」
「君も言われなかった?早く田舎に帰ってこいって」
「うん。直接は言わないけど、もしかしたらお父さんそう思ってるかも知れない」
聖子がチラッと彼の顔を見た。
「お父さんもお母さんもそんな話はしないの」
「うん……」
が、その簡単な返事に少し間があった。言い淀んだ感じでもあった。牧歌的に進んでいた田舎の印象と二人が話す言葉の間に、何か引っ掛かるところがあったのかー。いろいろあるだろうな、と思う。親元を離れて一人で暮らす若い女の子のことなのだ。
その後少し沈黙があった。音もなく水面を滑る水鳥の世界のようにー。特別とりたてて言うこともない沈黙ではあろう。しかしその後の聖子の何気ない言葉が気になった。
「私はいいの…」
ちょっと堅苦しい口調だった。何よりも、少し唐突な感じがした。
何のことかー。
「何かあったの?」
彼は聞いた。が、体を寄せたままの聖子はゆっくり首を横に振っていた。しかしその動作も少し間があいた感じだった。何か考えて応えているようなー。
もしかして、と彼は思った。<もしかしてこれは、俺が聞きたかったことに繋がっているのかも知れない…>
彼はずっと気になっていたことを口にした。
「俺のことお父さんに話してみるって言ってたじゃない」
「……」
「話した?」
「ううん」
聖子はやはり首を横に振った。
「……」
「私はいいの。お父さんお母さんに何を言われても」
聖子がつぶやいた。
<いったい何んだと言うのだ。何が始まっているというのだ…?>
聖子の顔を揺り起こし<いったいどうしたというの?>と詰め寄ろうとする自分を感じた。しかし彼は黙って聖子の肩を抱いていた。いとうしいとは思った。しかし<それとこれとは別ではないか…>。
彼は暗い池の面に目を移した。何も話さなかったと言いながら、お父さんお母さんに何を言われてもいいと言う。しかもそれは俺に向かって言っているのではないかー。
彼は聖子の言葉をたぐり寄せながら、自分の立ち位置が何やら曖昧なのを感じた。そしてまるで自分の存在を探るかのように<二人の間では、まだ何も始まっていないんだぜ。聖子がどんな覚悟をしようと、それはそれでいい。しかしそれは俺が関知しないところで起こっているんだぜ。何かを勝手に思い込んでいるかのように…。俺はただ俺の歴史の一コマを話しただけなんだ。あの、勝手な思い付きの小説の中の、丑松とやら言うくだらない人物像のように何かを乞うて言ったんじゃないんだぜ。俺はただ単に、そこに石ころがあるように、その石ころのことを教えただけなんだ。それを忘れてはいけないんだぜ…>
「歩こう」
彼はいらいらし、気分を変えたくて言った。ベンチを立つと、聖子がまるで打ちひしがれたように彼の腕に抱きついた。いとおしさが胸を走る。しかしまだ何も始まってはいない。<俺はただ俺の一部を話しただけなんだ。俺の頭に警棒で叩かれた傷跡があるのと同じに…>
「正直に言っていんだよ。俺は何も気にしないから。いつか川の話してて、俺の村の事言ったけど、そのことを話したの?」
「ごめんなさい」
彼の腕を抱く手に力を入れる聖子の声は消え入るかのようだった。
「でも私はいいの。お父さんお母さんに何を言われても」
聖子が彼の腕を堅く握る。
池の水面を取り巻く闇と同じように、奥で複雑に屈折するものがあるのを感じながら、彼はゆっくり足を運んだ。<やはりそうなんだ>彼は思う。すがりついている聖子を抱きしめてやりたいと思う。だが、<なぜなんだ>という思いは消えなかった。今ここでその答えとして思いつくのは、俺と彼女との“おつきあい”が前提で何かがあったとしか言えないのではないか。彼女はおそらく俺とのつきあいを親に話した。そしてその時、俺の村の歴史を話した。そこまでは確かなのだろう。<しかしなぜなのか、俺と彼女の間に親が入って来るようなことは始まってはいないのではないか。そうなのになぜ彼女はこれほどまでに打ちひしがれるのか…>
<俺とつきあっちゃだめと言われたんだね>そのように問いたかった。しかしこのことで、これ以上彼女を問い詰めてはいけないかも知れない。そんなふうに彼は思う。彼女は父や母の態度を無視しようとしているのだから。
二人はゆっくり歩いた。もはや話すことはないかも知れない。平崎はそんなことを思った。<すべてが晴れることはないかも知れない。しかし一人一人が自覚しておれば、そこから何か新しいものが始まる…>そんなことかも知れない。
彼は聖子の肩に手を置いたまま暗闇を歩いた。そしてやがて公園を出た。車が交錯する大通りの向こう、街並みの建物の上に赤や青の丸いシンボルが浮いていた。聖子が一度顔をあげて辺りを見回したが、再び彼の肩に頭を置いた。
そうした部屋に入るのは平崎も初めてだった。そのためにだけ作られた部屋。いささか飾りすぎのピンクのベット。平崎は黙って聖子を引き寄せ、抱きしめる。唇を寄せ、彼女の上衣を取っていく。肌の触れあう感触を頭に描いて自分も急ぐ。素肌を寄せ合い、聖子がすがりつく。すべてが変転する世界。すべての言葉が消え、すべてが許容されたかのように変転し、愉悦がはじける。柔らかくはずむ肢体を押し、倒れ、抱え込む。すべてが甘く新鮮で―。求めあい絡みあう―。愉悦の響きの中で、平崎の手は独り泳いでやがて神秘の泉へ。探り、包み、撫ぜ、柔らかく、その神秘の中、平崎自身が押し入り、その圧力と皮膚感ー。波打ち、擦れあい、奥へ―。予感と期待。裏切ることのない実感。はずみ、揺らぎ、熱く華麗な、いとおしくも、美しい響きの中―。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔culture0170:1501016〕
「ちきゅう座」に掲載された記事を転載される場合は、「ちきゅう座」からの転載であること、および著者名を必ず明記して下さい。