今、病んでいる人々を全力で救わねばならない。《日本改造革命の極意》脱資本主義反乱の方向性と焦点
- 2015年 10月 17日
- 交流の広場
- 武田明
花崎皋平氏にちきゅう座を観て頂くようにお伝えしたので、ピープルズプラン研究所の研究、更に、花崎皋平氏の著作を少しづつ読みながらであるが、日本社会、資本主義の問題点を先日の資本主義・社会主義・民主主義・独裁主義の比較論、池上彰ニュースそうだったのか(10月10日)基礎視野を更に拡大する事から展開してみたいと考える。
まずは、こちらの画像集、そして、資料からご覧いただきたい。
告発せよ。資本主義社会の非人間的人間消費構造
http://revolutio.exblog.jp/22331732/
《第5楽章》 反乱の焦点、革命の方法と到来する未来世界①
自由主義と言いながら自由ではなく、画一化しているものが、6334制の階級教育制である。
資本主義矛盾の根本と言ってよく、子供を親から引き離し労働機械としての歯車を作る疑似共産主義の根源悪と言ってよい。
それは、若さを消費させ、骨抜きにするシステムであり、人を労働機械に変える資本主義の害悪の根源基礎支えるそのものである事について気が付かねばならない時であるだろう。
気が付いたときは、資本主義に消費され、病み捨てられている社会である。
これが、日本の社会実態であり、超高齢化介護社会の実態である。
それでありながら生きた実感は、ここには存在しない。
消耗された絶望感だけで、老人たちは、まさに廃棄され、友愛も理想も人徳もその心の豊かさも最終的に得られない。
老人を敬わない社会が、資本主義、空虚なる若者消費もてはやし文化=消費社会の実態である。
《何故、いつからこの様な資本主義利権構造、原子力廃棄物、人間廃棄物社会となってしまったのか?》
その中心にあるものが、資本主義そのものであり、資本主義を脱皮できない盲目的社会主義段階(中国、北朝鮮)問題こそが、歴史的現在の段階であり、この悪循環社会輪廻を絶つには、どうしたら良いのであろうか?
それこそが、子供たちを合法的に誘拐し、切り離し、労働機械へと育て上げる6334制の階級教育制の疑似共産主義的全体主義偽物まみれの構造であるのだが、
教育を家庭に取り戻す直接民主主義の方式、それこそが、これまで展開してきた三世代革命論(一族・家族・個人)である。
現行の教育では、年齢で区切り遮断する方式である。
一学年違うと別世界とする階級化、プライベート牢獄囚人教育の出来上がりである。
だが、英語を習いたいなら、英語教室、そして、歴史を習いたいなら歴史教室、哲学、経済学を習いたいならそれぞれの教室となる可能性は、現代史研究会の実験的学習会からも可能である事が、実証されている様に感じている。
(伊藤誠先生は、日曜教会の様に家族で学べる木曜塾学習会をされていました)
単位制と言う教条こそが、資本主義商品消耗の最初の押しつけであり、それは、商品消費そのものとしての元凶であるのだ。
それは、学習達成度、読み書きそろばん、技術成熟度評価を否定するものではなく、むしろ、その本物の達成度として、人間学を達成させるものを阻んでいる資本主義を糾弾しているのである。
基礎教育をどうするのか?
それは本来、家庭が担うものであり、親が無学である事が、この社会の欠如であり、戦争があり、消耗がそちら側にあった故でもある。
また、親たちは、既に、労働機械として洗脳が出来上がっていて、基礎教育たる「人生哲学」を持ち合わせていない、忘却を強要されている元凶がある。
それが、資本主義社会の人間消耗性であり、生きながら墓場へと追い込まれている状況である。
豊かさとは何か?
学びたいものの切磋琢磨を邪魔するのも6334制であり、怠け消費行動の中に置く余暇の作成、パチンコ、AKB安倍友プロデューサの戦略へ誘うのもメディア堕落を誘っているのも堕落腐敗としての社会とする元凶としてあることが、気が付かれ始めているだろう。
思想の独立を、真の自由を破壊するのも疑似共産制6334制教育である事に対して、三世代革命論は、対峙しなくてはならない。
韓国の女子学生が、「儒教、まずは、家族を大事にする事です」それを日本は、忘れていると述べていた事。
これに学ばなくてはならない時が来ているのである。
取りあえず、序章として。
続く。
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