高市早苗発言のホンネ
- 2016年 2月 15日
- 時代をみる
- 澤藤統一郎
私、高市早苗です。総務大臣のポストにあって、微力ながらもけなげにアベ政権を支えています。甘利さん、島尻さん、丸川さん、岩城さんなど、アベ政権を支える閣僚の不祥事や問題発言、そして無能ぶりが話題になっています。しかし、私に関しては不祥事とも、問題発言とも無縁です。もちろん無能とも。私の発言はすべて計算ずく、言わば確信犯なのですから、島尻さんや丸川さん岩城さんなどと一緒にされるのは、迷惑至極と言わねばなりません。
アベ政権の反知性の姿勢が批判の対象となっていますね。島尻さん、丸川さん、岩城さんなどは、いかにも「反知性」を感じさせますが、飽くまでも私は別格です。私は、アベ政権の知性を代表して、アベ政権を支えるために日夜奮闘しているのですから。
総務省って昔の自治省と郵政省を統合したもので、郵政省が管轄していた電波監理行政は今総務大臣である私の手の内にあります。NHKも民放も、放送法の縛りの中での免許事業ですから、私の意向を忖度しながら動かなければなりません。それが当然、当たり前のことではありませんか。
放送に携わる多くの方には、私が何を考えているか、どうすれば私の意に沿う放送内容になるのか、またどうすれば私の逆鱗に触れることになるのか、よくご理解いただいています。それくらい気がきかなければこの世界で生き抜いていくことが出来るとは思えませんものね。「憲法9条を守れ」だの、「解釈改憲は怪しからん」だの、「アベ政権の姿勢はおかしい」「アベノミクスは大失敗」だのといえば、免許権を持っている官庁との間に無用の摩擦が生じてものごとが面倒になる、そのくらいのことは大人の分別をお持ちの方ならよくお分かりのはず。
でも、今に限っては、「よくお分かりのはず」では不十分なのです。テレビやラジオの放送事業に携わる者の大部分はものわかりのよい方ばかりですが、ごく一部ではありますが変わり者もいます。「ジャーナリズムの真髄は政権批判にある」などと訳の分からぬことを言う人たち。普段ならともかく、今はこういう確信犯的人物の出番をなくさねばなりません。そのために、放送事業者に絶えずシグナルを送り続けなければならないのです。
何しろ、これから無理をしてでも、国民に不人気な明文改憲をやろうというアベ政権なのです。今のメディアの状況が続けば、アベ政権批判が噴出して、もたないことになるかも知れない。その危機感は閣内全体のものとなっています。だから、私がアベ政権を支える立場から、メディアの政権批判を抑制するよう火中の栗を拾わなければならないのです。
私は知性派ですから、必要な限りでホンネを発言しつつ、突っ込まれても躱せるように、切り抜け策を十分に準備しています。それが、「忖度と萎縮効果期待作戦」あるいは「ホンネチラ見せ戦術」と言うべきものなのです。私の独創ではなく、敏腕の政治家や官僚の常套手段といってもよいのではないでしょうか。
「おまえ、人を殺すようなことをするなよ」とか、「嘘を言うものじゃないよ」と言えば、言われた方は怒ります。「オレを人殺しだというのか」「嘘つきだというのか」と。でも、「『人を殺すようなことをしてはいけない』も『嘘を言ってはいけない』も、当然のことを言ったまでのことで、あなたを人殺しや嘘つきと決めつけたわけではない。だからなんの問題もない発言」と切り返すことを準備しているのです。これがアベ政権の悪知恵、いや知能犯、でもなく知性のあるやり方なのです。
私は、2月8日の衆院予算委員会で、「放送局が政治的な公平性を欠く放送を繰り返したと判断した場合には、放送法4条違反を理由に、電波法76条に基づいて電波停止を命じる可能性がある」と確かに言いました。でも、飽くまで、一般論を述べただけ、「人を殺すようなことをしてはいけないのは当たり前だろう」と開き直って切り抜けられるように計算した発言なのです。何が政治的な公平性を欠くものか、どこの局のどのような番組にその虞があるのか、具体的な決め付けは何もしていません。
それでも、停波可能性発言のあとに、「行政指導しても全く改善されず、公共の電波を使って繰り返される場合、それに対して何の対応もしないと約束するわけにいかない」「私の時に(電波停止を)するとは思わないが、実際に使われるか使われないかは、その時の大臣が判断する」と続けました。ここまで言っておけば、放送事業者には私の真意を十分に忖度していただけるはず、そして萎縮してくれることが十二分に期待できるのです。
当たり障りのないことを言っているようで、実は萎縮狙いの効果抜群の私の発言。知性派である私なればこそ出来ることで、私がアベ政権をけなげに支えていると申しあげた意味も十分にお分かりいただけるものと思います。
ところで、「政治的な公平性」とは何か、誰が判断するのか、ということがにわかに議論となってまいりました。
「政治的な公平性」あるいは「公平性を欠く」という判断は誰がするのか。その判断の権限は、主務官庁の責任者である私にあることは明らかです。私は、逃げることなくその判断をいたします。
考えてもいただきたい。民主主義の世の中です。選挙で主権者の多数からご支持をいただいて政権が出来ています。私の職責も、主権者国民から委託されたものなのです。私がその職責を果たさないことは、国民を裏切ることになろうというものです。
では、「政治的な公平性を欠く」とはどういうことか。私が申し上げましたとおり、「国論を二分する政治課題で一方の政治的見解を取り上げず、ことさらに他の見解のみを取り上げてそれを支持する内容を相当時間にわたり繰り返す番組を放送した場合」で十分だと思います。これで、多くの放送事業者はものわかりよく、「憲法を守れ」「9条改憲反対」「アベ政権は非立憲」などと言ってはいけないのだと、正確に呑み込んでいただけるはず。これをアウンの呼吸とか、魚心あれば水心というものでしよう。これにツッコミを入れるなんて野暮というものではありませんか。
えっ? なんですって? 「あなたの目は結局政権だけに向いていて、国民の方には向いていないのか? とおっしゃるのですか」
その質問がおろかなのです。国民が選んだ政権ではありませんか。アベ政権こそが、国民の意思を体現しているのです。ですから、軽々にアベ政権批判は慎んで戴きたいという私の真意は、国民の意思を尊重することでもあるのです。お分かりでしょうか。
ああ、私って、なんて知性派。
(2016年2月14日)
初出:「澤藤統一郎の憲法日記」2016.02.14から許可を得て転載
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〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
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