手術して-はみ出し駐在記(89)
- 2016年 3月 27日
- 評論・紹介・意見
- 藤澤豊
四月末に帰国して、赴任する前の仕事に復帰したものの、甲状腺機能亢進をなんとなしなければならい。父親が知り合いの医者から聞いてきたのだろう、表参道にある甲状腺疾患専門の病院の院長宛に紹介状を書いてくれた。これを持って行って来いと言われて、なんと書かいてあるのか気になって見てみたら、「愚息が。。。」で始まっていた。オヤジになんだ愚息かと言ったら、馬鹿、そう言うもんだと諭された。こんなの持って、何の役に立つわけでもないと思いながら病院に行った。
院長先生が紹介状をひらいて「xxx先生のご子息ですか、。。。」「いえ、愚息です」面識もないのに、いかにも旧知の間柄のような口調で話すのに驚いた。社会にでて丸八年過ぎていたが、愚息も知らず、旧知の間柄のような体裁も知らない。今でもたいして変わらないが、世間知らずだった。
症状が進みすぎていて、完治には外科手術しかないとの診断だった。薬で症状を抑えられないこともないかもしれないが、それでは一生薬を離せなくなる。手術できるのは三十歳くらいまでなので、年齢的にも今しかない。思い切って切ってしまった方がいいと言われた。
肥大した甲状腺をチョキンと切って小さくするだけの手術なのだが、基礎代謝を司るホルモン分泌器官だけに慎重になる。基礎代謝のデータ取りに二週間、手術して順調であれば一週間で退院とうスケジュールだった。ただ手術といっても、七月まではベッドが空かない。入院したのは七月中旬だった。
入院の日、着替えやパジャマに本を何冊かバッグに詰めて一人で病院に行った。一緒に入院する人たちには家族が付き添っていた。北海道から来ている人もいれば山梨からという人もいた。そこは甲状腺疾患専門の病院として全国的に知られていた。
初めての入院に手術なので、ちょっと心配して個室にした。入院した時期が良かったのか悪かったのか、初日からびっくりした。甲状腺機能亢進を発症するのは九割までが女性で、男性の入院患者は取るに足りない数しかいない。夏休みを利用して手術ということなのだろう、入院患者のほとんどが女子大生と若いOLだった。
病気で入院しているのだから病的にというのもおかしいのだが、甲状腺ホルモン過多は病的に旺盛な食欲と元気過ぎる病気で、どこも若い女性たちのエネルギーが溢れていた。みんな人目を気にすることもなく、ノーブラにパジャマを着て、すっぴんで廊下を闊歩していた。そんな女性たちを見れて、いいじゃないかと思う人もいるかもしれないが、そこまで数が違うと、男の方が遠慮のない女性たちの視線にさらされる。群れを成して羞恥心の薄くなった女性たちが怖くなる。男性は隅の方の部屋で小さくなっていた。
首を切る手術なので、術後の数日は苦しいし、ベッドに貼り付け状態で大変だが、基礎代謝を測定している二週間は元気そのもの。質素な病院メシで我慢するのはつらい。女性たちはあっちの部屋でもこっちの部屋でも、差し入れのスイカも含めて、毎晩病院メシをはるかに超える何かを食べていた。
ある晩、あれ?と思ったら、ラーメンの出前があっちの部屋にもこっちの部屋にも出入りしていた。翌日、こわごわ優しそうなお姉さんに訊いたら「知らなかったの?、下に夜鳴きそばの屋台が来ているから、食べに行ってもいいし、出前を頼んでもいい。。。」その晩、四階の病室の窓から下をみたら、入院患者を当てにした夜鳴きそばの屋台が店を開いていた。昼間は竹の子族で賑わっている通りも、夜になれば首切り病院で元気なお姉さんに夜鳴きそば、なんともおかしな取り合わせだった。手術するまでは誰もかれもが元気で若いしで、女性たちは毎晩宴会ムードだった。
三週間も入院していれば下着やらなんやら洗濯しなければならない。屋上が物干しになっていた。集団になるとここまで羞恥心がなくなるのかと思うのだが、女性たちは人の目を気にすることもなく洗濯物を干していた。干された洗濯物のほとんどは女性もの。その隅っこに恥ずかしながらという感じで男性の干し物があった。
時期はちょうどお盆の頃で、屋上からあちこちの花火が、一部でしかないにしても見えた。その頃から屋上が日比谷公園化した。何人もいない男子にちょっかい出してくるがいる。毎晩のように屋上のあっちでこっちでデートのような光景が出現した。さしもの病院もそのまま放ってはおけなかったのだろう。夜間屋上への立ち入りを禁止した。
禁止になったら、早稲田の文学部の学生が急に親しく話しかけてきた。「小一時間個室を貸してくれない?」元気でいいねと思いながら、シーツをあまり汚すなよと言って、二人部屋にいた慶応の工学部の学生と世間話で時間をつぶした。工学部だからなのか?慶応の学生の方が擦れてなくて、気持ちのいい若者だった。
甲状腺機能亢進で入院して、何か月後には産婦人科のお世話なんて、あそこでは毎年何人かいたんじゃないかと、ろくでもないことまで想像してしまった。
入院して何日もしないのうちに夏風邪を引いた。ちょっと熱がでただけで、たいした風邪ではなかったが、何かにあたったのか、じんま疹まででた。布団をかけると体温が上がって、痒くて眠れない。毎日痒み止めなのか睡眠導入剤なのか分からないが注射してもらっていた。担当という訳でもないのだろうが、注射に来てくれた中村さんという看護婦さんがかわいかった。帰国して彼女もいないし、白衣の天使に通俗な憧れのようなものがあった。
二週間目だったと思うが、廊下にでてナースステーションの方に歩いて行ったら、枯れた感じの尼さんがこっちに向かって歩くるのが見えた。目が合ってしまって軽く挨拶はしたが、なんでこんなところに尼さん?縁起でもない。どこまで歩いて行くのかと思っていたら、こっちの部屋の一つ手前の部屋に入っていった。後で看護婦さんに聞いたら、隣の部屋のおばちゃんが甲状腺がんでなくなった。都心の病院で敷地が狭く、安置しておく部屋がないのだろう。病院で坊主やその手の人たちは勘弁してほしい。まさか、手術でトラぶってなんて。。。といらぬ心配までしてしまう。
手術をする前日、術後のテイクケアの説明会があった。看護師から、縫い目が付くのを避けるため縫合しない。切口をテープで留めておくだけだから、適宜テープを交換して清潔に保ってください。特に女性は。。。何で特に女性は?それまでは男女の差のない話だったのに、ここで急に女性は。。。何のことかと思って訊いたら、女性は重石がついているから、首の切り口が開きやすいので。。。ここまで聞いてもなんのことか分からなかった。後で気が付いたのだが、女性は胸に重みがあるということらしいのだが、胸の重みが首の切り口にまで影響するか?そんな重さの胸だったら、それこそ病気だろうなどと、くだらないことを考えてしまった。それは、胸の重さがどうのというより、切り口がきれに接合しないと見た目が悪い。特に女性は気にするということだろう。
手術の当日、一緒に入院して一緒に手術の人たちには家族が見舞いに来ていた。多くは母親、中には母親と兄弟姉妹だった。うん、それが家族ってもんだろうって思ったが、こっちには誰も来やしない。いつ来るかと思っていたら、手術の番が回ってきて、。。。
甲状腺は首のところにある。首には頭と体を結ぶ神経が走っている。そばには声帯神経もある。どの神経もだらんと弛んじゃいない。甲状腺を手にするには、ピンと張っているかどうかは知らないが、弛んではいない神経が邪魔になる。邪魔になるので神経を引っ張ってずらす。引っ張られるたびに、苦しさに体が突っ張る。突っ張るのが分かっているから看護婦が腰と両ももを抑える。抑えられたら神経を引っ張られると気持ちの準備をする。そんな拷問のようなことをされているさなかでも、何か楽しみを見つけるとでもいうのか、いらぬことを考える余裕があった。両手は自由、抑えた看護婦さんを中村さんだと思って手を握り返していた。呆れた馬鹿患者だった。
声帯神経をどけるときに、目的はよく分からないが、院長先生が「声をだしてください」という。とても話なんかできない、声帯神経を引っ張られて出せるのはうめき声で「うう、ええ、おお」患者をリラックスさせようとしてのことだろうが、竹下通りがどうの、竹の子族がどうのとどうでもいいことを話す。それが若い人たちに興味のある話題をというのが分かる。そんなものを気にする性質でも歳でもない、どうでもいいから早く手術を終わらせろって。。。
切って部屋に戻ったとき、後でおふくろに聞いた話では、血の気が失せて蒼白だった。意識はあるが周りの音という音全てが神経に触った。おふくろとおふくろの姉-おばさんが来てくれていた。二人で小声で何か話しているのが耐えられない。手で出てけと言った。テレビやなんかで見る絶対安静の意味が分かった。ちょっとした声-意味の分かる音は神経に触る。
機能亢進の手術では、多すぎる甲状腺ホルモンをちょうどいい量を分泌するようにするのではなく、少ない量しか分泌しないようにする。人間の体はよくできていて、低下した機能を回復する。機能が回復したときにちょうどいいホルモン量(誤差はつきもの)になるように甲状腺をちょん切って小さくする。見舞いに来た同級生が切り取られてホルマリン漬けにされた破片を見に行って、ホルモン焼きの肉のようだったと言っていた。気持ち悪くて自分では見に行かなかった。ホルモンとかもつ焼きからちょっと足が遠のいた。
腹が減って、食べても食べても太らない体質だったのが、手術した途端、ほとんど食べてないのに太った。首を切って一週間程度では首を動かすのが怖い。水を一口飲むにも、顎を上げるのではなく、俯いたまま上半身全体を後ろにそらしてになる。退院する頃には軽い食事が出されたが、切ったところが痛くて、ろくに食べられない。
それでも一週間で十分歩けるようにはなる。いざ退院。一緒に入院して一緒に切って、一緒に退院の人たちにはお迎えが来ていた。オヤジか誰かが車で迎えに来てくれるだろうと待っていたが、誰もこない。いつまでも待っている訳に行かない。退院なんだから、早く部屋から出てゆけという視線を感じる。一人で帰るかとパジャマを脱いで、入院してきたときに着てきたシャツを着て、ズボンを穿いてと。。。とろこが、シャツの前が閉まらない。顔を下に向けるのが怖くて、鏡の前に行って見たら、太ってしまってシャツが合わない。まるで「ちゃんちゃんこ」のようになって、前が閉まらない。ズボンも、ももの辺りでひっかかって上がってこない。
着れるのはパジャマしかない。どうしようかと考えたが、表参道から田無までタクシーを使う勇気はない。全く冗談じゃない。パジャマに靴を履いてバッグを提げて原宿までとぼとぼ歩いていった。俯いているから信号が見えない。上半身を斜めに反らして、まだ赤か、また反らしてまだかよ。なんどか繰り返して青になって。。。たいした距離でもない原宿の駅が遠かった。そこから山手線で高田馬場に出て、西武新宿線に乗り換えて実家に戻った。頭は手術前にざっくり切られて虎刈り、首にはテープがペタペタ張ってある。退院してきたのは一目瞭然。開きなおった。ちょっと奇抜なスーツを着ているつもりで平然としていた。少なくとも、自分では平然としているつもりだった。開き直ってしまえば、もう格好なんかかまいやしない。
シャツもズボンもスーツも入らなくなった。慌ててとりあえず出社できる格好までは整えた。食べても食べても太らなかったのが、手術を機会に太り気味になった。あだ名がガラとか骨だったのが、多少は押し出しも利いて格好だけは人並みになった。
Private homepage “My commonsense” (http://mycommonsense.ninja-web.net/)にアップした拙稿に加筆、編集
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔opinion5993:160327〕
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