東京オリンピックを機に東京にいらっしゃる外国人の皆さんに訴えます。東京は信仰の自由を認めない野蛮都市なのです。
- 2016年 3月 28日
- 時代をみる
- 澤藤統一郎
2020年東京オリンピックまであと4年。世界中から、多くの人々が東京にやってこようとしています。既に東京に観光客の増加は著しく、今年の花見の名所には、外国人があふれています。しかし、本当に東京は平和と自由の祭典である、オリンピック・パラリンピックを開催する都市としてふさわしいのでしょうか。オリンピック開催都市としての資格があるのでしょうか。是非、その実態を知ってください。そして、できれば、ご一緒に東京都に抗議をしていただきたいのです。
世界中の皆様に、とりわけオリンピックを機に東京に足を運ぼうとしていらっしゃる方々に申し上げます。東京には、公権力によって思想や信仰に対する弾圧に苦しんでいる人が現実にいるのです。その背景にある事情に耳を傾けてください。
400年ほど昔のことです。戦国の動乱を経て統一日本の政権が江戸に打ち立てられたころ、時の為政者は極度に民衆の叛乱を恐れました。為政者の権威確立に邪魔となるものとして、厳格に宗教を統制しました。外来の宗教である、キリスト教は布教も信仰も厳しく禁じられました。さらに進んでね、江戸幕府の為政者は、キリスト教の信仰者を徹底して弾圧して信仰を抹殺しなければならないとまで考えたのです。しかし、信仰は目に見えません。どうしたら、キリスト教の信仰者をあぶり出すことができるでしょうか。
悪知恵を働かせて彼らが発明した独創的手段が、「踏み絵」というものでした。信仰者にとって大切な聖なる図柄を描いた踏絵板(後に真鍮製)を用意し、これを全民衆に踏ませたのです。キリストやマリアの像を踏みつけることはできない、罪の意識から躊躇する者を信仰者としてあぶり出したのです。普段は見えない信仰を可視化する見事な方法といわねばなりません。多くのキリスト教徒が「踏み絵」によって殉教を余儀なくされました。この踏み絵は、九州全域の年中行事として、幕末まで実に230年に及ぶ長期間、続けられたのです。日本の為政者の狡猾にして残忍な一面をよく表している歴史の一こまと言わねばなりません。
その後近代に至って、権力を掌握した天皇制政府は、踏み絵を発明した為政者のあとを襲って、宗教的・政治的弾圧に狂奔しました。彼らは、天皇を神とする宗教によって民衆の精神を支配しようと試み、天皇の権威を認めない宗教を徹底して弾圧したのです。ここにも、信仰者受難の歴史が刻まれています。また、政治的信条故に天皇の権威を認めようとしない者も過酷な弾圧を受けました。
70年前の敗戦にともない、日本は天皇制のくびきから解放され、憲法によって個人の精神的自由が保障される時代に入ったとされています。しかし、ご存じのとおり、日本の現首相自身が「戦後レジームからの脱却」や「日本を取り戻す」と広言し、戦後民主主義を否定して戦前を志向しているのです。この国には、思想・良心・信仰の自由はいまだ根付かず、為政者は折りあらば思想や信仰の統制を狙っているのです。
13年前のことです。時の東京都知事石原慎太郎は、狡猾にして残忍しかも傲慢な人物でした。その人物が、自分の「盟友」たちを教育委員として採用し、知事の意のままとなる教育委員会を作り上げました。こうして知事の意を受けた東京都教育委員会は、「学校の入学式や卒業式においては、全教職員は国旗に向かって起立し、国歌を斉唱しなければならない」「この命令に従わない者には懲戒処分を科す」という通達を出しました。悪名高い、「10・23通達」です。
日本の国旗とは「日の丸」、国歌とは「君が代」のことです。いろんな理由から、このハタやウタに敬意を表することはできない、という日本人はたくさんいます。政治的信条や、教員としての良心、そして信仰者としての立場などを理由とするものです。この通達は、そのような人々に、起立斉唱を強制し、踏み絵と同様の精神的苦痛を与えているのです。
教職員の多くは、国旗国歌に敬意を強制することには反対の立場です。国旗国歌は、人格の形成を目的とする教育の場にふさわしくないと思っているからです。しかし、このような多くの教員が、自らの信念に従って不起立を貫くか、それとも心ならずも起立せざるを得ないと屈するか、の選択を迫られるのです。
神は果たして、踏み絵の前で苦境に立たされた信仰者に「信仰を貫け」「踏み絵を踏んではならない」と命じるのでしょうか。それとも「許すから踏んでよい」と人の弱さを認めるのでしょうか。神の意思を忖度して悩むのは、生身の信仰者です。これによく似た問題が、東京の学校現場で現実化しているのです。
踏絵を強要した宗門改めの役人の人物像に、石原慎太郎の顔か重なります。人間の尊厳よりも為政の秩序を優先することにおいて、人の精神の自由の価値に対する理解のない点において、日の丸・君が代を強制して恥じない石原の罪は、絵踏を発明した役人の残忍さに後れを取るものではありません。
東京都教育委員会は、「日の丸・君が代」の強制に服しなかったとして、既に延べ474件の懲戒処分を強行しています。これは、人の良心に鞭を打つ行為というほかはありません。思想・良心・信仰の発露としての行為が制裁の対象とされているのです。それぞれの人の内面における思想・良心・信仰と,そのやむにやまれぬ発露としての不起立・不斉唱という外部行為とは分かちがたく結びついています。ですから懲戒処分は各人の行為だけではなく内面の思想・良心・信仰をも鞭打つものとなっています。
たとえば、このような実例があります。敬虔なクリスチャンである教員が、どうしても「日の丸」の前で起立して「君が代」を歌うことはできない、として繰りかえし懲戒処分を受けています。
この人の目には、「日の丸」とはアマテラスという太陽神の象形と映ります。この神こそは、国家神道の中心に位置する天皇の祖先神です。また、「君が代」とは、神なる天皇の御代の永続をことほぐ祝祭歌にほかならないのです。その宗教的な意味づけ故に、自らの信仰と抵触し、これを受容しがたいというのです。
東京都はこのような教員を容赦しません。懲戒処分を繰りかえしています。処分を受けた者には、再発防止研修という名の嫌がらせも繰りかえされているのです。
このような東京都の野蛮な行為は、思想・良心・信仰をあぶり出して、制裁を加えようというもので、400年前に発明された踏み絵の流れを汲む日本の為政者の傳統といわざるを得ません。
思想や良心や信仰が大切なものだとお考えの皆さま。東京都に対して、「オリンピックに取り組む前にやるべきことがあるだろう」「東京都の思想弾圧・宗教弾圧の体質をあらためるべきではないか」と、私たちとご一緒に是非声を上げていただくよう、お願いいたします。
(2016年3月27日)
初出:「澤藤統一郎の憲法日記」2016.03.27より許可を得て転載
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