安倍政治批判、野党共闘、日本共産党の政治姿勢について思うこと
- 2016年 7月 4日
- 時代をみる
- 醍醐聡
2016年7月4日
(以下は昨夜、知人のAさんに送ったEメールである。このブログへの転載に当たっては一部、表現を加除した。小見出しも付け加えた。)
私のように気分が乗った時、手が空いた時に不規則にブログを更新する人間にとって、欠かさず、ブログを更新されるAさんの様子に馬力の違いを痛感しています。
有権者はなぜ安倍政治を支持し続けるのか?
最近お書きになっている記事に一貫して流れているのは、護憲への熱意と安倍政治への徹底した批判と思えました。
しかし、私は、安倍政権批判が足りないというよりも、なぜ、それでも有権者は安倍政権を支持するのかを立ち止まって考えることの方が重要ではないかと思っています。
民主主義が往々、「愚民の数の力に支えられた民主主義」に堕落しがちなことは確かです。しかし、今の安倍政治を支持する民意を「愚民」と言ってしまえるのか、疑問です。
積極的な安倍支持者は別して、消極的な安倍支持者の主な支持の理由は、次の2つではないかと思います。
①安倍(自民党)政権に代わり得る受け皿が見当たらない。
②安倍政治に幻想を持っている。
②が主であれば、安倍政権を徹底的に批判することが重要ですが、その場合も、安保関連法を、誰もに自明のように「戦争法」と呼称してかかるやり方では、「幻想」を解くのにほど遠く、逆に決めつけに対する反感を買うおそれもあると思います。
今の野党共闘陣営(日本共産党も含め)には、借り物ではない、自分の言葉で、意見が異なる人々と対話する能力が決定的に欠けていると日々、感じています。
しかし、議論が前後しますが、私は安倍政治に対する支持が持続する主な理由は上記の②ではないと考えています。なぜなら、安保法、憲法改定、消費税増税、原発再稼働、沖縄基地問題など、どれをとっても過半の有権者は安倍政権の中核的政策を支持していないからです。
このように個々の主要な課題では安倍政権の政策に過半の有権者が反対であるのに、内閣支持率なり、自民党支持率なりが持続するというねじれが起こる主な理由は、文脈からして①と言うほかないと思います。
「野党共闘」の内実を問う
こういうと、「だからこそ、今回の参議院選挙にあたって実現した野党共闘に大きな価値がある」という答えが返ってくるのかもしれません。
しかし、私は今回の「野党共闘」に冷めた見方をしています。そのわけは、一つには、当事者(野党各党)の間で真にどこまで政策の一致があるのか、疑問だからです。Aさんは改憲阻止を野党共闘の大義に据えておられますが、野党共闘で当選した民進党の候補者は選挙後、本当に改憲阻止で一貫した行動をするのでしょうか?
選挙戦のさなかに、改憲阻止を叫んでも、民進党所属議員である以上、選挙後、「党として○○と決定した以上、私はそれに従わざるを得ない」という口上で、改憲阻止の「共通公約」が脇に追いやられる可能性が低くないと思っています。
そうならないためには、野党共闘=既存の野党間の候補者調整、ではなく、比例区も含め、市民が主体的に無党派の候補者を擁立し、それを既存の野党も共同推薦するという形をなぜ組めなかったのかという気がしてなりません。それに部分的に該当するのが小林節氏のグループだけというのは寂しすぎます。
日本共産党の中途半端な自衛隊論
共産党の志位委員長が昨日、「今は自衛隊が合憲か違憲かは問題でない。自衛隊の海外派兵を阻止することこそ重要だ」と演説しているのをNHKの夜7時のニュースで見ました。一見、共感を得やすい議論ですが、立ち止まって考えると底抜けする発想だと思います。
なぜなら、自衛隊の海外派兵という場合、国連のPKOへの参加という形も考えられますが、より本格的なのは日米共同の軍事行動だろうと思います。現に、そのための共同訓練が常態になっています。
「防衛」予算が5兆円を超え、重厚な装備を備えた自衛隊によって、日米共同の軍事行動がスタンバイの状況になっている現状で、自衛隊の海外派兵阻止というなら、ここまで肥大化した自衛隊の存在自体の違憲性を問うのが全うなはずです。
そのような正面からの問いかけをせず(脇に置いて)いかにして自衛隊の海外派兵を阻止する運動をおこすというのでしょうか?
安保関連法の違憲性を主張しながら、法を施行する際に武力行使の中核を担う自衛隊の違憲性は棚上げするという議論を、私は全く理解できません。
国民の間で抵抗を生みそうな議論に蓋をするというポピュリズムが透けて見えます。
内実が伴わない「立憲主義を取り戻す」の公約
「立憲主義を取り戻す」という点も大きな「共通公約」となっていますが、内容はいかにも曖昧です。というより、特段、縛られることもない曖昧な内容だからこそ、「共通公約」になったというのが実情ではないでしょうか?
「立憲主義」の中身は「個人の尊厳を大切にすることだ」という説明がされています。それなら、共産党は、従軍「慰安婦」の尊厳に再度、塩を塗るような昨年末の「日韓合意」をなぜ前進と評価するのでしょうか?
オバマ大統領の広島訪問をかなえるためなら、原爆投下に対する米国の謝罪も事実上、棚に上げるような不条理になぜ同調したのでしょうか?
存在自体が人間の不平等、差別の権化といえる天皇が高座から「お言葉」を述べる国会開会式に同席して一礼するという行為を、共産党はなぜこの時期に始めたのでしょうか?
支持を広げるためなら、こういう不条理、同調圧力にも順応するという態度では、共産党の理性はどこまで劣化するのか、計りかねます。
野党4党、特に共産党は、今回の「野党選挙協力」を画期的な出来事と連日、機関紙でPRしています。しかし、少し、立ち止まって内容を確かめると、共闘優先のあまり、まとまりやすい点に照準を当てたという気がします。これで本当に選挙後に有権者に責任を負う選挙共闘といえるのか、大変、疑問です。
「野合」批判はためにするものですが、それに反論したからといって、「共闘」の中身の価値が立証できるわけではありません。
異論と真摯に向き合う姿勢こそ
以上、述べてきたことは私の特異な思想なり、背景事情から生まれたものでしょうか? 私は野党共闘なり、共産党に他意、悪意を抱く動機をなんら持ち合わせていません。むしろ、私が指摘したような疑問、異論が政党内や支持者内から全くといってよいほど聞こえてこないことに大きな疑問、気味悪さを感じています。
上のような疑問を向けると、必ずと言ってよいほど「利敵行為論」が返ってきます。宇都宮選挙の時も体験しました。しかし、異論、批判に真摯に向き合わない体質が国民と溝を作る要因であることに、なぜ気づかないのでしょうか?
「今は○○が大事だから」という物言いで、組織の根深い体質にかかわる問題や自らの政策に宿る未熟な部分を直視しない態度を、いつまでとり続けるのでしょうか?
初出;醍醐聡のブログから許可を得て転載
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座
〔eye3519:160704〕
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