柄谷行人と「帝国」論の隘路 ――ウィットフォーゲルとマルクスの間で(中)
- 2016年 7月 15日
- スタディルーム
- 石井知章
4.交換様式と世界システムの隘路
そもそも柄谷によれば、社会構成体が複数の「交換様式」によって形成されているということは、あくまでもそれが一つの社会構成体であり、かつ現実には単独で存在するのではなく、他の社会構成体との関係において、つまり「世界システム」において存在しているということを意味している。そしてそれは、主に四つの段階に分けられた。すなわち、(1)交換様式A(互酬)によって形成されるミニ世界システム、(2)交換様式B(略奪と再分配)によって形成される世界=帝国、(3)交換様式C(商品交換)によって形成される世界=経済、(4)交換様式Dによって形成される世界システムである。このうち柄谷にとってもっとも重要な交換様式D、すなわち、<資本=ネーション=国家>を越える新たなシステムとは、カントが呼んだ「世界共和国」でもある。たとえば、マルクスは『ドイツ・イデオロギー』の中で、「共産主義とは、われわれにとって成就されるべき何らかの状態、現実がそれへ向けて形成さるべき何らかの理想ではない。われわれは、現状を止揚する現実の運動を、共産主義と名づけている。この運動は現にある前提から生じる」(花崎皋平訳、合同出版)と記している。マルクスがこのようにいうとき、たしかに前方に「歴史の目的(終り)」を置くことを拒否しているし、その意味でマルクスは、へーゲルを否定して、へーゲルからカントの立場に戻っているのかもしれない。だが、マルクスは、カントのように、未来の共産主義を「理念」(超越論的仮象)であるとは見なさなかった。現実の運動、そしてそれをもたらす「前提」の中に、共産主義があるとしたのである。つまり、共産主義は理念や理想ではなく、資本主義的な生産関係が(生産力の発展によって)それ自身を揚棄するようになることから必然的に生じるのだ、といっていることになる。「ブルジョア社会の胎内で発展しつつある生産諸力は、同時にこの敵対関係の解決のための物質的諸条件をもつくりだす。だからこの社会構成をもって、人間社会の前史はおわりをつげるのである」(『経済学批判』序) 。とはいえ、マルクスはここでは「生産諸力」といっているのであり、柄谷のように「交換様式」とはいっていないことに注意すべきであろう。いずれにせよ、既述のような柄谷によるマルクスの概念の恣意的操作は、彼が次のように述べるとき、より明示的なものになってくる。
「マルクスは、ユートピア的社会主義者のように未来について語ることはせず、もっぱら過去について考察したように見えます。だが、そのことは、マルクスにとって、「未来」を見ることだったのです。彼が晩年、氏族社会について考察したことに留意すべきです。彼がそうしたのは、未来の共産主義を、氏族社会を”高次元で回復する”ものと見なしていたからです。同時に、ここに、重要な問題があります。マルクスが”高次元で”という場合、それが過去のもの(祖型)を一度否定することによってのみ実現される、ということを意味するのです」12。
ここで柄谷が指摘しているように、未来が過去の祖型を否定することによってのみ実現されることは、たとえばマルクスが「フランスにおける内乱」で、「近代的国家権力を打ち砕くこの新しいコンミューンは、当の近代的国家権力にはじめ先行し、のちにはその基盤となった中世のコンミューンの再現だと、思いちがいされた」と述べていることからも裏付けられる13。いいかえれば、柄谷はここで、たとえ過去の「前近代的なもの」ですら、たんに「一度否定」しさえすれば、「高次元で回復する」といっていることになる。つまり、パリ・コンミューンは、中世のコンミューンの再現であると人々はみるかもしれないが、じつは「まったく新しい歴史上の創造物」なのだ、といいたいのである。たしかに、パリ・コンミューンは、中世のコンミューンになんらかの外的操作を加えたものであって、それは中世のコンミューンそのものではないのかもしれない。だが、これこそはまさに、毛沢東が文革を発動した際に、マルクスのいう「コンミューン(=公社)」を建設しようと企図しつつ、暴力の行使(物理的否定)をも公然と肯定した大衆動員(「大民主」)の手段として用いたロジックそのものである。しかるに、本来「コンミューン」とは、「近代的」原理をいったんは通過した「協同体」(ゲノッセンシャフト)のことであって、「前近代的」な「共同体」(ゲマインシャフト)のことではない。だからこそマルクスは、同じ「フランスの内乱」のなかで、「もし協同組合(cooperative)連合会が共同計画に従って全国的生産を調整し、こうしてこれらを彼ら自身の統制下におき、そして資本主義生産の宿命である不断の無政府状態と周期的痙攣(恐慌)とを終息させるべき」として、それこそが「可能なる」共産主義であるとしたのである14。もし中世のコンミューンをそのままで「回復」することがパリ・コンミューンの企てを「否定」するようなものになるのだとしたら、文革によって1000万人以上の犠牲者を出したことは、まさにこのことの現代中国における「再現」を意味するであろう。「共同体の回復」がロマン主義的、あるいはナショナリズム的「復古」にしかならないことは、すでに一九三〇年代でナチズムに帰結したことによって証明されていると柄谷自身が認めているにもかかわらず、この言説は自らの立場を自ら否定するものでなくて、いったいなんなのであろう15。しかも、この「前近代的なもの」が「超近代的なもの」として「高次元で」回復されるとしたロジックは、まさに交換様式Dにおいて、「帝国」概念を構成する際に用いられたのとまったく同じものなのである。柄谷はいう。
「国家は共同体が拡大しそこに階級対立が生じたときに生じるといわれます。しかし、一つの共同体の中では、いかに発展や対立が生じても、それを抑える互酬性のメカニズムが働きます。したがって、先に述べたように、共同体の拡大は、首長制社会以上にいたることはありません。国家が成立するには、共同体が他の共同体を支配するような契機がなければならない。そこに『恐怖に強要された契約』が成立するのです。この場合、国家の下でこれまでの共同体は残ります。そして、国家は、それら多数の共同体を越えるものです。また、そのような原理をもたないかぎり、国家ではありえない。同じことが帝国についていえます。帝国は多数の国家の間に生じる。しかし、それはたんなる国家の拡大ではありません。帝国は、多数の共同体=国家からなると同時に、それらを越える原理をもたなければならないのです」16。
柄谷が指摘しているように、たしかに帝国が必要としているのは、たんに「軍事的」征服力でもなければ、「暴力的」強制だけでもない。だが、帝国の形成においては、生産様式Bだけでなく、さらに交換様式AもCも不可欠な要素であり、さらに交換様式Dも不可欠なのだと柄谷がいうとき、彼はここでもさまざまな超歴史的な「交換様式」という「ブラック・ボックス」をそのまま用いて、「前近代的なもの」を「超近代的なもの」へと歴史的かつ具体的な発展段階を跳び越えて転換しようと目論んでいる。たとえば、なぜモンゴルの世界帝国が中国からアラビアにいたるまでの大帝国として可能だったのかといえば、権力の上層部で「首長制」がとられていたからなのだ、と柄谷はいう。モンゴルの世界帝国は、あるいは「元」をふくむ各地の帝国から成り立っていたのかもしれない。中国では元の皇帝としてあっても、世界レベルでは首長の一人にすぎないのであり、各地から来た対等な首長たちの間で選ばれなければ、全体のハーンにはなれない。いいかえれば、帝国は単独の専制国家にはない、「互酬性原理」にもとづいており、これらのモンゴル諸国の間で元がもっとも強力であったとしても、元だけでどんなに勢力を拡大しても、このような広大な帝国を築くことはできないということなのだろう17。要するに、ここでも柄谷は、一つの「前近代的」な帝国が、同じ「前近代的」な上部の「帝国」秩序によって、その「互酬性原理」が「高次元で」回復されるといっているのである。だが、「前近代的なもの」は、「近代的原理」によっていったんは昇華されない限り、いつまでたっても「前近代的なもの」にとどまるだけである。なぜなら本来、マルクスのいう「否定」とは、いったんは「近代的なもの」をくぐり抜けることを意味していたからである。にもかかわらず柄谷は、ここでも意図的に二つのレベルの「前近代性」を隠蔽しつつ、あたかも元の時代ですら、「近代的なもの」を跳び越えて「高次の」互酬性が成立したかのごとく描いてみせるのである。
5.専制国家と「帝国」との間
東洋的専制国家をマルクスのアジア的生産様式の観点から見ると、古代の専制国家は、シュメール、エジプト、インダス、中国など、大河川のそばにあり、灌漑農業にもとづいていたことが分かる。マルクスが東洋的専制国家を灌漑農業と結びつけただけでなく、またウェーバーも、エジプトにおける官僚制化の機縁を灌漑治水の必要に見出している。ここでマルクスとウェーバーの観点を受け継いだのがウィットフォーゲルである。彼は東洋的専制国家が大規模な灌漑農業を通して形成されたと考え、さらに地理的な限定を取り除いて、それを「水力社会」と命名した(『東洋的専制主義』)。だが、柄谷によれば、「このような考えは疑わしい」。それゆえに、彼は次のように続ける。「ウィットフォーゲルは灌漑とともに、官僚軍という国家装置が発展したと考えています。しかし、実際はその逆です。大規模灌漑を行うには、そのような工事を組織すること、また、それに従う人間がいなければならない。それを可能にするのは、官僚制であり、軍隊のような組織です。すなわち、国家です。実際、兵士が工事を行い、同時に農民となったのです」18。
だが、これはウィットフォーゲルの議論をまったく履き違えている。マルクスにとっても、ウィットフォーゲルにとっても、そもそも灌漑が必要とされたのは自然そのものの状態という外的条件ゆえのことであり、これは所与の原初的条件としてすでにして横たわっているものである。この自然的条件は地理的条件でもあるから、これは「取り除く」べき対象どころか、むしろその中で専制権力が生成されたことを立証するための前提条件として扱われていた。ここで柄谷が「地理的限定」を排除しようとするのは、もちろん「停滞論」という一種の決定論を退けるためである。だが、ウィットフォーゲルはむしろ逆に、「停滞を云々することは誤りであろう。この停滞という言葉に伴う宿命論的な響きは全く別としても、いったん形成された生産、および社会体制の内部的成熟は、経済的中国並びに精神的中国をも、かなりの程度に、この長い全期間中、活発な活動(及び発展)の状態に置いたのである」とし19、自然・環境・歴史的決定(宿命)論をはじめから退けていた。柄谷の主張とは裏腹に、むしろウィットフォーゲルが積極的に「取り除いた」のは、そうした地理的条件による環境決定論なのである。さらに土台の第一次性ではなく、専制国家という上部構造の第一次性を強調しつつ、「「アジア的生産様式」なるものは、このように専制国家によって形成されたというべきです」と断じるとき、柄谷はすでにマルクスの土台=上部構造論自体を否定しただけでなく、まったくその逆の結論すら導き出すという倒錯をすんなりとやり遂げてしまっている。それは次のような言説にも顕著に表れている。
「専制国家とは、交換様式でいえば、BによってAやCを制圧する状態です。Aが強いと、部族的な競合が残り集権的な体制ができない。また、Cを管理しないと、王権が成り立たない。集権的な国家を実現するために必要だったのは、第一に、官僚制です。官僚制と常備軍は専制国家において生まれた。では、なぜそうなのか。王権が貴族(豪族)を圧倒するために、それらを必要としたからです。互酬的原理が強いとき、つまり、豪族らの力が強いとき、王権は脆弱なままにとどまります。集権的な国家は、官僚制と常備軍を不可欠とするのです。たとえば、モンゴルの帝国の結果、ロシアで巨大な専制国家が成立しましたが、それは灌漑と無縁でした。そのことは、ウィットフォーゲルも認めざるをえないので、灌漑にもとづく専制国家で発展した人間を統治する技術が、灌漑と縁のない民族や国家に伝えられたというのです。それなら、もともと、大規模灌漑も、そのような技術をもつことによって可能になったというべきです」20。
これはウィットフォーゲルが批判される際につねに使われてきた「揚げ足取り」に等しい議論である。だが、ウィットフォーゲルは柄谷の述べるような人間を統治する「技術」ではなく、人間そのものの「労働」こそが、この専制権力の基礎になっていたと考えた。したがって、「労働」が資本や権力の下で「技術」を生んだのであって、「技術」がそれらの下で「労働」を生んだのではない。同じように、大規模灌漑も第一次的には労働力を組織することによって可能になったのであり、「技術」によって可能になったわけでもない。ウィットフォーゲルの見るところ、「灌漑農業が水の大きな供給の効果的な取り扱いに依存しているとすれば、水のもつ独特な性質――その大量に集積する傾向――は制度的に決定的なものになる。大量の水は大量の労働によってのみ水路に流され、また諸境界内に蓄えられることが可能となる。この大量の労働は調整され、規律され、指導されなければならない。かくして、乾燥した低地や平原を征服しようと熱望する多くの農民たちは、機械以前の技術的基礎のもとでは一つの成功のチャンスを提供する組織的な装置に頼ることをよぎなくされる。彼らは仲間たちと一緒に働き、指令する一つの権力に服従しなければならなくなるのである」21。しかも、ここでウィットフォーゲルは、この専制権力の形成過程を灌漑と労働という二つのモメントを軸にしつつ、ロシア、中国、そしてモンゴルを含むさまざまな歴史上の帝国のなかで実証的に描き出したのであり、モンゴルのようないわば一つの例外事案によって、その他のあらゆる論証がすべて無効になるわけではけっしてない。たんなる「征服」では専制国家を創れないことが明らかだとしても、そもそもアジア的専制国家を第一義的に構成しているのは、「技術」でもなければ、「武力」でもなく、むしろ専制権力によって組織かつ規制された「労働」なのである。
6.「帝国」と帝国主義との間
柄谷によれば、「帝国」という秩序はもともと多くの民族・国家を包摂するものだが、「東洋的専制国家」や「アジア的生産様式」といった見方をすると、それを考えることができなくなる一方、「交換様式」から見直せばそれが容易に可能になるのだという。さらにレーニン以後のマルクス主義者は、帝国主義を金融資本主義の段階に生じる政治的形態として見てきたが、政治学者モーゲンソーはそのような見方を批判して、帝国主義を国家間の関係という政治的次元で見るべきだと主張した。「しかし、”経済的”な観点も不可欠です。いいかえれば、それは、複数の交換様式という視点が不可欠だということです。そもそも交換が広い意味で経済的なものだとしたら、政治的な次元も交換様式Bにもとづく以上、”経済的”なのです」22。モーゲンソーの言葉を引用して柄谷が主張する最大のポイントは、ローマ帝国など「古代」の帝国と、「近代」の帝国主義を「区別しない」ということである。このロジックこそ、じつは柄谷が「前近代的なもの」をけっして「近代的なもの」を媒介することなく、「超近代的なもの」へと現実の歴史を跳び越えて転換させるための前提条件となっている。柄谷の見るところ、「生産様式」では「帝国」と帝国主義とは異質であることも理解できず、「帝国」と帝国主義の違いを見るには、「交換様式」の観点が不可欠である。「帝国」は交換様式Bが優越しているような世界システムにおいて形成され、交易など交換様式Cが重視されるが、あくまで国家による統制に服す一方、世界経済という領域では交換様式Cが優位にあるという。では、柄谷において、「帝国」と帝国主義とは、いったい何がどう違うのか。
「第一に、帝国は多数の民族・国家を統合する原理をもっているが、国民国家にはそれがない。第二に、そのような国民国家が拡大して多民族国家を支配する場合、帝国主義になる」23。
柄谷によれば、ここで「帝国」の原理とは、多数の部族や国家を服従と保護という「交換」によって統治するシステムである。帝国の拡大はモンゴルのように「征服」によってなされるが、それは「征服」された相手を全面的に同化させたりしない。「帝国」はその版図を広げようとしても、周辺には統治できない者、たとえば、漢民族にとっての匈奴のような遊牧民に対しては、外見上服属し朝貢するというかたちをとるにせよ、実質的に、相手に対する贈与や婚姻によって平和を保持するという政策をとった。それに対して、帝国主義はネーション=国家の拡大として、かつ交換様式Cにもとづいている。帝国主義もしばしば征服・略奪を伴うものの、帝国の拡大とは異なって、主として関税権を他国から奪う。このように、帝国の膨張が交換様式Bにもとづくのに対して、帝国主義的膨張は交換様式Cにもとづくというのである24。だが、これらの言説は、子安宣邦が指摘しているように、実際上、「帝国的支配なのか、帝国主義的支配なのか見分けることができない事態になっている」というべきである25。
ところが、じつは「前近代」と「超近代」との間でこうした「あいまいな」状況を作り出すことこそが、柄谷にとっての最大の目的なのである。なぜなら、この類似した二つの概念の「揺らぎ」のなかでこそ、「前近代的なもの」を「超近代的なもの」へとすり替えることが容易に可能になるからである。柄谷はあるところでは帝国(国民国家)とそれを越える「帝国」(広域秩序)とを二つのレベルで区別しておきながら、またあるところでは両者を恐らくは意図的に混同し、あえてここで複数の「交換様式」を媒介させているのは、まさにこの矛盾を隠蔽するために行使された巧妙なるレトリック(いわば、「超近代のロンダリング」)というべきである。国民国家としての帝国とは、たとえば、中国の近現代史を振り返っただけでも、さまざまな民族を統合する原理がないなどとはけっしていえないはずである。このように、柄谷の「帝国」論とは、つねに帝国主義(=帝国の拡大)に転じやすく、しかもそれを「超近代的」帝国の論理で正当化する危険性をはらむものなのである。
7.「帝国」における宗教の役割
柄谷の見るところ、「交換様式」の観点から見ると、中国古代のある種の共同体は、行政によって解体された氏族共同体にあった互酬性を自主的に回復する意味がある。それは、いいかえれば、交換様式Aを高次元で回復すること、つまり、交換様式Dを目指すものであるという。だが、ここでも「前近代的なもの」はたとえ「高次元で」回復しようとしても、「近代的なもの」でいったんは昇華(否定)されない限り、「前近代的なもの」のままでとどまらざるを得ない。では、この厳然たる歴史的事実を柄谷はいかに扱うのか。「ゆえに、それは宗教的な形態をとるのです。漢王朝の崩壊以後に起こった反乱は、道教などの宗教的特性、あるいは東洋的社会の特性によって説明しさることはできません。このような反乱は千年王国運動の一種であり、キリスト教、仏教、道教を問わず、世界各地に起こったからです。それは、この運動がたんに宗教的ではなく、交換様式Aを高次元で回復する社会運動だということを意味するのです」26。このように、ここでも柄谷が目指すのは、宗教を媒介とした「前近代的」帝国秩序の「高次元」での回復である。中国ではその後も、国家機構とは別に人々が民間で自治的な共同体、あるいは「郷里空間」を作るようになったという。そしてそこでは、民衆運動として国家機構に刃向かう運動が、新たな王朝をもたらすこととなった。「それらはいつも宗教的な外見を帯びますが、特定の宗教にもとづくとはいえません。たとえば、後漢の「黄巾の乱」は道教でしたが、一四世紀、元帝国の末期に起こった「紅巾の乱」は、仏教(浄土教)につながる白蓮教徒によるものです。この中から頭角をあらわした朱元璋が、逆に、この乱を鎮圧することによって明王朝を開いた。また、一九世紀半ば、キリスト教につながる「太平天国の乱」も清朝の崩壊に貢献したといえます。このように、自治的な民衆組織や流民の反乱から新王朝へという過程がくりかえされた」27。だが、ここで柄谷の議論はいきなり現代へと跳び移り、しかも中国革命論では大きく論理が飛躍する。「それは毛沢東による革命にもあてはまります。このことは、帝国が、あくまで交換様式Bが中心でありながら、A、C、Dの要素を組み込むことによって成り立つということを意味します。その点から見ると、漢王朝は「帝国」を確立したとはいえ、まだその萌芽にすぎなかったといえます」28。
すでに述べたように、「前近代的なもの」を「超近代的なもの」へと高次的に「回復」することは、いったん「近代的なもの」を昇華しない限りいつまでたっても「前近代的なもの」にとどまるか、逆にさらにそれ以前にすら退行させる「アジア的復古」(ウィットフォーゲル)へと導くだけである。かりに「超近代的なもの」が可能になるのだとすれば、それはいったんは「近代的なもの」をくぐり抜け(否定)、さらにそれを「超近代的なもの」へと克服(否定)するという、いわば「否定の否定」という弁証法を通してのみである。それゆえに、「なんらかの哲学がその現在の世界を越え出るのだと思うのは、ある個人がその時代を跳び越し、ロドス島を飛び越えて外に出るのだと妄想するのとまったく同様におろかである」としたへ-ゲルの警句は、まさに柄谷の「交換様式」論にこそあてはまるというべきである29。そもそも、柄谷のいう漢王朝=「前近代的」帝国のいったいどこに「近代」へと向かう「萌芽」があったというのだろうか。
註
12.前掲『帝国の構造』、36頁。
13.同、36-37頁。マルクス(木下半治訳)『フランスの内乱』(岩波書店、1971年)、99頁。
14.前掲『フランスの内乱』、103頁。
15.前掲『帝国の構造』、36-37頁。たとえば、1966年5月、北京大学の若き女性教師・聶元梓(じょうげんし)が校長の陸平らを「三家村グループ」の一味として激しく批判する大字報(壁新聞)を貼り出したことに対して、毛沢東は「20世紀60年代の中国のパリ・コミューンの宣言書」だと賞賛している。そもそも、それ以前に「大躍進」の中心となったのも「人民公社(コミューン)」の設立であり、四旧(旧思想・旧文化・旧風俗・旧習慣)という「前近代的」思想・文化を打破するために、パリ・コンミューン型の大衆組織を創出することなどが打ち出されたのにもかかわらず、実際には、「大躍進」にせよ「文革」にせよ、「前近代的」遺制にそのまま依拠して実行された。
16.同、72-73頁。
17.同、73頁。
18.同、76頁。
19. K.A.ウィットフォーゲル(横川次郎訳編)『支那経済史研究』(叢文閣、1935年)、55-56頁。なお、こうした水力社会から非水力社会への「伝播」に対する「揚げ足取り」論については、拙書『K.A.ウィットフォーゲルの東洋的社会論』(社会評論社、2008年)、第3章「東洋的専制主義の位相」を参照。
20.前掲『帝国の構造』、76-77頁。
21.K.A.Wittfogel, Oriental Despotism: A Comparative Study of Total Power (New Haven: Yale University Press, 1957), p.18. 湯浅赳男訳『オリエンタル・デスポティズム』(新評論、1991年)、40頁。
22. 前掲『帝国の構造』、82頁。
23.同。
24.同、86頁。
25. 子安宣邦『帝国か民主か――中国と東アジア問題』(社会評論社、2015年)、75頁。同じような観点からの柄谷批判については、梶谷懐『日本と中国、「脱近代」の誘惑――アジア的なものを再考する』(太田出版、2015年)、及び同「「帝国論」の系譜と中国の台頭――「旧中国」と「国民帝国」のあいだ」、石井知章編『現代中国のリベラリズム思潮』(藤原書店、2015年所収)を参照。
26. 前掲『帝国の構造』、118頁。
27.同。
28.同。
29. ヘーゲル(藤野渉・赤沢正敏訳)『法の哲学』(中央公論新社、2001年)、27頁。中国革命と「アジア的復古」との関連性については、拙書『中国革命論のパラダイム転換――K.A.ウィットフォーゲルの「アジア的復古」をめぐり』社会評論社、2012年を参照。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔study750:160715〕
「ちきゅう座」に掲載された記事を転載される場合は、「ちきゅう座」からの転載であること、および著者名を必ず明記して下さい。