経済理論としての結集は如何にして可能か?(植草一秀理論の展開について)【前編】
- 2016年 8月 22日
- 交流の広場
- 武田明
昨日、地方にありながらも「TPPを批准させない!全国共同行動8.20キックオフ集会」インターネット中継、ツイキャスなどで観覧する事が適った。
醍醐聡先生は、午後から登場されていたのだが、植草一秀先生は、ただ呼びかけ人に名前を連ねていただけであったのか見受けられず少しがっかりした。
21日 脱原発テントがまた、大変な弾圧行為にあい、抗議の声をあげるツイキャスをついつい、一日中また見てしまった。
(これでは読書の時間が取れない、技術革新も良しあしであろうか?)
今回のTPP批准させない集会で適わなかったが
是非、明治大学へ植草一秀先生を招いていただいて、経済理論シンポジウムをお願いしたいものだと考えつつ以下の文章を認(したた)めてみます。
第一部 共生主義の開示について
暴力革命での政治刷新など誰も考えていない
http://uekusak.cocolog-nifty.com/blog/2016/08/post-fbe6.html
《「弱肉強食」対「共生」》
を繰り返し語る植草ブログ。
「弱肉強食」とは、資本主義原理の事であり、新自由主義までを含む。
「共生」と20世紀の共産主義がここでは、主題となっている。
国民の混乱、「わかりづらさ」に対して昭和年間において決着をつける事が出来なかった。
共生と共産の違いは何か?
そして、主義とすると事、理論体系として「共生-主義」とする事は可能であるだろうか?
この問いである。
反資本主義の理論として社会主義、共産主義、マルクス主義は、大部分をやはり、『資本論』に依拠したものがあり、結集したる理論体系として揺るぎない要素を備えていた。
「共生-主義」を定着、「共産」を批判的継承、継続、が出来るのか?
第二部 資本主義分析(資本主義と民主主義)
TPP批准阻止全国共同行動8.20キックオフ
http://uekusak.cocolog-nifty.com/blog/2016/08/820-9503.html
《資本主義とは1%が99%を支配する仕組み。
民主主義は99%が1%を支配する仕組み。》
前者は、金(資本)の支配の1%であり、後者は、無知化の支配としての99%の在り方を持っているが故に、
《だが、多くの人が気付いていない点がある。
それが第二の細工のポイント。
政党の対立構図が1%対99%の構図にならないようにすることである。》
この問題にぶつかるのであるが、『ソクラテスの弁明』の様に、神ゼウスを外に置いて支配するか、『国家と革命』の様に、国家を外に置き支配するか、ソフィストの詭弁が、今のジャーナリスト、マスコミの位置づけであると言う事の詐欺、搾取、収奪としての金融マフィア化する社会、キューバ革命以前の独裁とアメリカへの隷属、植民地化されたる状況に置かれているとしたらどうするだろうか?
経産省テントの最高裁判決、これでも、本当に、ソクラテスの様に、「悪法も法なり」と毒杯をあおるべきであるのか?
北朝鮮の内社会の不合理に対しても、国家から殺人を強要され様とも?社会的なシステムに甘んじるべきであるとすべきであるのか?
究極的には、この問いなのではないかと思う。
法律は、国会が作るとしても、植草ブログが述べている様にまぐれに、自民党政権が交代した過去があったとしても、システムとして長続きしない。
植草ブログの述べている通りである。
今回の参議院選挙、都知事選であっても、本来の政策論争はなされず、論点が、一部のインテリゲンチャー、知識階層から、一般大衆へと知の広報がなされないなら、愚衆政治、ソクラテスの毒杯を繰り返しているだけとなっているのだ。
情報や知性が隔離されている問題、真の意味で、科学主義的広報と技術の共有に辿り着けていない問題、「ローマも一日にてならず」
文学も政治も即興では出来ず、これまで、野球しか観て来なかった普通のおじさん達に対して、急に、労働理論や社会運動の知識化も脱原発の為の物理学基礎など不可能であるのをどうするのか?
生徒の側もそうであり、それである以上に、醍醐先生の言うようなNHKの公共性の問題やジャーナリスト、政党政治の未熟としてもあり、人間は、不完全なものであると言うとしても、何ら、教育を受ける事が出来なかった少女が、「狼少女」となる様に、性善説、性悪説に関わらず、環境に支配されるのが社会的動物である人間にとって、力関係、権力から最初から自由であるわけではない。
「肉体は魂の牢獄」と言われる関係がある。
自由と本能の関係について、文化人類学から学ぶものを通り過ぎて、
家族人類学(家族主義)における人倫と法治の関係と現状が、日本の改憲勢力3分の2の全体主義的兆候としても立憲主義が危機に瀕している、集団的自衛権は、違憲でありながらまかり通っている、違法ではないがと言う舛添、甘利疑惑、更に、パナマ文書まであるが、金融と法治としての立法は、権力と結びついて存在している事が今や公然とされているのであるが、神ゼウスや国家主義としての支配から抜け出せていない問題を「民主主義」の成熟度として教育を引き上げる事、意識を引き上げる事、階層的ではなく、民主主義的平等としての地平を開陳して見せる事、人間の能力差ではない、文化人類学的地平からの問い出す事のモデルから、社会学的類型として、封建制=家族主義地平と真「法治」としての資本主義と民主主義接合としての関わりを明らかにしていく事、これが前提としてあると言う事である。
改憲勢力3分の2、権力、立法府を独占されてしまっているのは、中国、北朝鮮の脅威論を払拭できていないが故に致し方がないとするのか、それとも、しっかりした立憲主義、憲法論の国民への理解できるような広報の不備によってわれら側知性が隔離されてしまっている故であるのか?
この問いであるなら「ちきゅう座」的には、後者であろうけれども、野党共闘も未熟であり、醍醐聡先生が、述べられている様に自省が必要であるのだと言う立場であるのだが、国内理論としては、左派リベラル理論の刷新、更に、20世紀共産主義に対して、「共生-主義」として、注意深く、観念の混乱を分離していく作業、まさに、共同作業として必要であると植草ブログは、述べている様に思えていたのだ。
TPPと緊急事態条項成立ならこの国は終わる
http://uekusak.cocolog-nifty.com/blog/2016/08/post-7981.html
植草一秀先生の著作は、時事的なものが多いように思われていた。
わかり易さは、時事の中にあるのだが、アベノリクスといっても小泉政権、竹中平蔵論を語っても通り過ぎて読まれる古典の論理、体系にまでたどり着けず、マルクスの超克、左翼、赤狩り偏見の超克にもたどり着けず、「断片」としての段階に留まり、知識の断片化は、それそのものでは、実践にも結び付かず、相対的なる歴史の中では、教条ともなりかねず、個人崇拝への種子に留まる弊害がないわけでもない問題点がある。
ヘーゲル「精神現象学」の序論、普遍性の問いと人間個人の生態学的生涯的幸福論とはどの様にあるべきかと言う問いが、一気に現れてくるものを整理し、体系化する技術論の確立こそが今問われているのではないか?
ここから、理論と実践、共同行動を形づけて行けたならとない頭をひねっているわけである。
【前編】終り
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