『天皇機関説』と『象徴天皇ロボット論』
- 2016年 11月 6日
- 時代をみる
- 澤藤統一郎
朝日が、「天皇の『お言葉』、憲法学者ら考察」として、「著名な憲法学者らが、先人の憲法解釈を引きながら天皇の『お言葉』問題を論じている。」と紹介している。
「憲法学界の重鎮の樋口陽一・東京大学名誉教授が、『加藤周一記念講演会』に講師として登場。司会者から天皇の退位問題へのコメントを求められ、戦前から戦後にかけて活躍した憲法学者・宮澤俊義(故人)の憲法解釈を紹介した。」
その内容が以下のとおりである。
「天皇には政治的権能がなく、その行為には内閣の助言と承認を必要とするとした新憲法のもとで、天皇は『ロボット』的な存在なのだと宮澤は説明していた。宮澤があえてその言葉を使った背景には戦後の象徴天皇制に関する『健康な構図』のイメージがあった、と樋口さんは語った。国民主権のもと、国民が選挙を通じ、政治家を介する形で、正しくロボットに入力していくという構図だ。
『しかし実際はどうか』と樋口さんは、2013年に政府(安倍政権)が開催した『主権回復の日』式典に言及。『国論が分裂する中、沖縄県知事があえて欠席するような集会に天皇・皇后両陛下を引き出して、最後には(天皇陛下)万歳三唱を唱和した』と批判し、『いまだに日本国民は、宮澤先生の言った正しい意味での『ロボットへの入力』をすることができないでいる』と述べた。」
「今回(の天皇の生前退位希望発言)も、本来なら『国民が選挙を通して内閣の長に表現させるべきこと』だったとして、国民の責任に注意を促した。」という。
帰するところは、象徴天皇とは何かという問題である。象徴とは、何の権能も持たない存在。存在はするが、厳格に自らの意思をもって機能してはならないとされる公務員の職種。これを宮沢は、『ロボット』と称した。そのことを紹介した樋口には、いま国民にそのことの再認識が必要との思いがあるのだろう。
このことに関連して、天皇機関説論争が想い起こされる。
昭和初期、軍部の台頭と共に國體明徴運動が起こり、思想・学問の自由は圧迫されていった。その象徴的事件として、美濃部達吉を直接の攻撃対象とする天皇機関説事件が起こった。
美濃部の天皇機関説は、国家を法人とし、天皇もその法人の機関であるというに過ぎない。これが当時における通説となっていた。しかし、軍部や右翼が、突然にこの学説を國體に反するとして、熾烈に攻撃しはじめた。舛添都知事に対する突然のバッシングを彷彿とさせる。既に満州事変が始まっていたころ、これから本格的な日中戦争と太平洋戦争に向かおうという時代。1935(昭和10)年のことである。
貴族院議員であった美濃部が、貴族院において、公然と「天皇機関説は國體に背く学説である」と論難され、「緩慢なる謀叛であり、明らかなる叛逆」、「学匪」「謀叛人」と面罵された。これに対する美濃部の「一身上の弁明」は院内では功を奏したやに見えたが、議会の外の憤激が収まらなかった。
天皇を『機関』と呼ぶこと自体が、少なからぬ人々に強烈な拒否反応を引き起したとされる。「天皇機関説問題の相当部分は、学説としての内容やその当否とは関わりなく、用語に対する拒否反応の問題である」と指摘されている。
以下、宮沢の「天皇機関説事件」は次のような「拒否反応発言」例を掲載している。(長尾龍一の引用からの孫引き)
「第一天皇機関などと云う、其の言葉さえも、記者[私]は之を口にすることを、日本臣民として謹慎すべきものと信じている」(徳富蘇峰)
「斯の如き用語を用いることすらが、我々の信念の上から心持好く感じないのであります」(林銑十郎陸軍大臣)
「此言葉は・・・御上に対し奉り最大の不敬語であります」(井上清純貴族院議員)
「この天皇機関説という言葉そのものが、私共日本国民の情緒の上に、非常に空寒い感じを与えるところの、あり得べからざる言葉であります」(中谷武世)
「天皇機関説のごときは・・・之を口にするだに恐懼に堪えざるところである」(大角岑生海軍大臣)
「唯機関の文字適当ならず」(真崎甚三郎陸軍教育総監)
右翼のなかには、「畏れ多くも天皇陛下を機関車・機関銃に喩えるとは何事か」との発言もあったという。
結局は、美濃部の主著「憲法撮要」「逐条憲法精義」「日本国憲法ノ基本主義」は発禁処分となり、政府は2度にわたって「國體明徴に関する政府声明」(國體明徴声明)を出して統治権の主体が天皇に存することを明示するとともに、天皇機関説の教授を禁じた。
美濃部は貴族院議員を辞職し、翌1936年、右翼暴漢に銃撃されて重傷を負うに至る。
戦前の天皇も、憲法には縛られていた。天皇やその政府の専横には立憲主義の歯止めが設けられていたはず。しかし、天皇の神聖性を侵害することは許されなかった。国民の憤激というチャンネルを介して、統治権の総覧者としての天皇(旧憲法1条)ではなく、神聖にして侵すべからずとされる神権天皇(同3条)こそが、実は機能する天皇であったのではないか。
象徴天皇も事情はよく似ている。法的な権限も権能も必要なく、その存在が神聖で国民の支持を受けているというだけで、危険に機能する虞をもっている。だから、「象徴としての天皇の行為は認めない」、あるいは、「これを極小化すべし」というのが戦後憲法学界の通説だったはず。
いわば、「ロボットに徹せよ」ということが、憲法が天皇に課している憲法擁護遵守義務の内容なのだ。しかし、問題は、憲法論よりは民衆の意識だ。次のように80年前の愚論が繰り返されてはならない。
「天皇をロボットなどという、其の言葉さえも、これを口にすることを、日本国民として謹慎すべきものと信じている」
「かくの如き用語を用いることすらが、我々の信念の上から心持好く感じないのであります」
「この言葉は・・・御上に対し奉り最大の不敬語であります」
「この天皇ロボット説という言葉そのものが、私ども日本国民の情緒の上に、非常に空寒い感じを与えるところの、あり得べからざる言葉であります」
「天皇ロボット説のごときは・・・これを口にするだに恐懼に堪えざるところである」
「ただロボットの文字適当ならず」
「おそれ多くも天皇陛下をロボットに喩えるとは何事か」
絶無とは考えられないので、敢えて言う。今、「宮沢・象徴天皇ロボット論」の紹介がけっして右翼からの攻撃対象とされてはならない。
(2016年11月5日)
初出:「澤藤統一郎の憲法日記」2016.11.05より許可を得て転載
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