津田・国民思想論・5 津田の『源氏物語』評価と「国民」概念
- 2017年 2月 9日
- スタディルーム
- 子安宣邦
「恋は光景によって更に数層の深さを増す。恋そのものについては興味の乏しい平安朝人の恋愛に特殊の趣のあるのはこれがためである。只それ画裡の景である。詩中の趣である。われを画裡の男と見、われを詩中の女と見るところに興趣がある。詩中の恋は遊戯で、画裡の光景は空想世界である。そこに情熱は無くそこに生活は無い。道義の無いことは勿論である。」
津田左右吉「貴族文学の成熟時代・恋愛観」
1 貴族全盛時代と国民
津田の『我が国民思想の研究ー貴族文学の時代』の中心をなす第二篇「貴族文学の成熟時代」の第一章「文化の大勢」は次のような言葉をもって始められている。「平安朝の政府は貴族文化の中心であるということの外に意味がなく、其の政治はただ貴族文化を維持し、発達させるということの外に何もない。」
平安朝藤氏政権による政治がただ自分たち貴族とその文化のためのものであったとは歴史的事実をいうものである。だがそれをいう津田の言葉には決定的な否定的響きがある。一般に〈国風文化〉の成立の時代とされる平安貴族時代の始まりを記すものとしては、津田の言葉はあまりに厳しく否定的である。津田はこの言葉に続けて、平安朝貴族国家の歴史的環境をめぐってこういうのである。「民族的競争がなく国際関係が疎遠で、国民にも政府にも、国家存立の意識が弱い時代に於ては、政治的経綸の念が無くなるのは自然の勢いである。」貴族政権下日本の国際環境の変化が、日本の政府にも国民にも国家意識をもたなくさせていると津田はいうのである。
「中葉以後の唐は殆ど国家としての勢力が無く、半島の新羅も漸く衰運に向っていて、列国は何れも政治的に頽壊の時期に入っているので、太平洋の水に何等の波瀾を起す気遣いが無い。だから我が国は、外国に対して国家的活動をなすべきことが何も無く、従って対外関係に刺戟せられて国家経営の策を講ずるようなことは、毫も無かった。」
したがってこの時代、日本の政権を担う貴族らは彼らの盛んな文化と生活の繁栄と持続だけを考え、「国民の文化と富とを発達させようというような意志は、夢にももつ」ことはなかったのである。都の貴族たちは、「文化も富もただ自分等の社会にのみあるべきものと考えて、狭い京都の天地の外は、彼等の生活すべき場所では無いと信じていた」[1]のである。
『我が国民思想の研究』の「貴族文学の成熟時代」を津田は、ここに見てきたような厳しい否定的言辞をもって語り始めるのである。ところで私がいま津田の著述からの引用文を連ねながら見てきたのは、平安朝貴族時代と文化に対する津田の否定的言辞のその〈否定性〉の由来を知りたいと思ったからである。彼はどこから批判し、何に否定的であるのか。
津田はいっている。「貴族等は多年の習慣上、平民を租税を納める器械、使役する道具とのみ思っていたから、そういう国民の文化と富とを発達させようというような意志は、夢にも有っていない」と。津田の否定的な言辞の由来はここに明らかである。津田の否定的な言辞の由来は「国民」の不在にある。この時代と貴族の政治・文化・社会意識における「国民」の全的な不在こそ、津田が「貴族文学の成熟時代」をあの厳しい否定的言辞をもって語り始める理由なのである。
貴族全盛時代の「文化の大勢」をあの否定的な言辞をもって書き始めた津田は、その中間的な総括も結論もさらに厳しく「国民の不在」をいう否定的な言辞をもって記すのである。
「しかし全体の文化がどこまでも貴族的・都会的であって、堅実な国民的文化では無いから、其の間に発達した趣味も、決して国民的のものではない。例えば言語などについて見ても、音便などが多くなって、流暢で優美であり、また繊細な意味を表すことの出来るように其の語法も発達した。けれども、それは国民全体の言語とは甚だしく懸隔のあるものであって、貴族社会特殊の修練によって出来たものである云々。」
「寺院は一方に於いては貴族文化の一要素であり、装飾物でありながら、他方に於いては平民と地方人とに接触して、それに多少の文化上の影響を与えたのである。けれども其の与えたものは、国民の日常生活そのものには、さしたる関係の無いものであるから、それが為めに国民生活を豊富にすることも、出来ない。国民は依然として、花やかな貴族文化の薄暗い裏面に、影の如く蠢めいているのみであった。」(傍点は筆者)
平安朝貴族文学の成熟時代、その時代を代表する『源氏物語』についての津田の批評を見ようとした私は、いきなりこの時代の文化を概観する津田の否定的な言辞にとらえられてしまった。そして私はいまここに記してきたように、津田の否定的な言辞は「国民」あるいは「国民の不在」に由来するものであることを知った。津田の否定的批評における「国民」の問題とは、彼の『文学に現はれたる我が国民思想の研究』の執筆動機にかかわる問題であるだろう。津田がこの「国民」の問題に『我が国民思想の研究』を書くことを通じて答えたように、われわれもまた津田の『源氏物語』論を読むことを通じてこの問題を考えることにしよう。
2 物語の成立
「特に貴族都人士が小さな都会に単純な生活をしているから、彼等の見聞も狭く、思想も貧しく、また誰も誰も同一の感情を有っていて、個人的特色が尠ない、そういう彼等の作る歌であるから、新思想を以て新題材を取り扱うことは思いもよらぬ。ただなし得ることは、技巧の上に多少の工夫を加えることのみである。」(「文学の概観」)
『古今集』についてのこの批判は、平安朝貴族とその文化にあの否定的言辞を投げつける津田から当然聞くことのできるものである。だがその津田が道綱の母、和泉式部、そして紫式部といった女性たちの歌についていう言葉はまったく違っている。津田は「彼等(紫式部たち)の作は機智のみで何等の内容の無いものではなく、其のうちに強い感情の閃きが見える。特に其の独居詠懐の作に至っては、其の弱々しい情、奔放の気、さては苦悶憂愁の響きに、読者の心琴を共鳴させるものがあるのは、彼等の胸底より湧き出づる情の泉が直ちに化して声となって人の耳をうつからである」と書くのである。そして「嘆きつつ独りぬる夜の明くるまはいかに久しきものとかは知る」(道綱の母)、「数ならぬ心に身をば任せねど身に従うは心なりけり」(紫式部)、「岩つつじ折もてぞ見るせこが着し紅染の衣に似たれば」(和泉式部)などの歌をあげて、「其の歌は何れも作者の情生活を遺憾なく発露している」と津田はいうのである。私は津田にもこうした対象への共感的思い入れの文章があることを知って驚いた。やがて津田は歌から物語世界へと平安朝文芸批評の手を移していく。物語を成立させる貴族世界の様子を津田はこう書いている。
「爛熟した貴族的文明の、蒸すような空気の裡に醸成せられる官能的恋愛と、狭い範囲に行われた勢力争いによって、栄枯盛衰の倏(たちまち)に変ずる人生の波瀾と、感傷的な当時の人心を動かすに足る幾多の事実を作者の前に展開して、物語の材料を供給し、益々写実小説の隆盛を助けたのである。」
そしてこの物語を享受する貴族世界の様子を津田は見事に描き出す。
「ともすれば夜がれがちなる男の心を恨みわびて、行くえおぼつかなき我が身の憂きをなげく女、守り厳しき園生の花を手折りかねて、やるせなき思いに胸を焦す男、さては宮仕の中にまじりながら、つらきにも楽しきにも、心うちひらきて語らうものなきひとびと、せまき天地の明くるに暮るるに、恋と恨みとの外にない彼等の情生活に於いては、得意にも失意にも、物語なくて何に心を慰めようぞ。のみならず、「昔物語を覧給ふにも、やうやう人のありさま、世の中のあるやうを見知り給」(源氏、胡蝶)ともいってある。うす暗い深宮の裏に生い立って、むぐらもちの日光を恐れる如く、人の世に出るのを恐れている女どもが、人情を知り世態に通ずるを得たのは、物語のおかげである。小説の流行は偶然で無い。」
津田はここで宮廷的世界における物語が宮廷の女房たちをその物語の享受者(読者)にしていくことをいっている。ところで津田がここでいうような事態、すなわち物語文学の成立とはその物語世界を共有し、享受する読者(読み手)の成立でもあることを最初にいったのは本居宣長である。宣長は『紫文要領』[2]で「物の哀れをしる心」を共有し、語り伝える世界として物語世界を構成していくが、その際、この構成の鍵になる言葉を『源氏物語』「蛍」の巻で光源氏が玉鬘に向かって古物語の趣意を説く言葉に見出している。
「その人のうへとて、ありのままにいひいづることこそなけれ、よきもあしきも世にふる人の有様の、みるにもあかず聞くにもあまることを、後の世にもいひつたへさせまほしきふしぶしを、心にこめがたくて、いひをきはじめたる也。」
宣長はこの古物語の趣意をいう光源氏の言葉は紫式部その人のものだとしている。光に古物語の趣意を語らせながら式部自身の物語観をのべたものだというのである。そうだとするならば、われわれはここに物語の語り手(作者)とその読み手(享受者)とが入れ子状になって構成する物語世界を見出すことができる。紫式部も古物語の読者(宮廷の女房たち)の一人であったであろう。その式部がいま新たな物語を語り出しているのである。その物語はさらに広い読者・享受者を貴族世界に創り出しているのである。貴族世界における物語の成立とはその世界における物語の享受者(読者)の成立でもある。津田の言葉でいえば、「むぐらもちの日光を恐れる如く、人の世に出るのを恐れている女どもが、人情を知り世態に通ずるを得たのは、物語のおかげ」だということになる。
一八世紀日本の松阪の医師であり、歌人であり、古え学びの人宣長は『源氏物語』の愛読者であった。彼は式部がこの物語を書いた趣意を、「ただ人情のありのままを書きしるして、みる人に人の情はかくのごとき物ぞといふ事をしらする也。是物の哀れをしらする也」という言葉をもってとらえた。この「物のあはれ」論とは、光源氏の時代からはるかに時をへだてた一八世紀江戸社会の宣長が『源氏物語』の愛読者になったことの証(あかし)ともいうべき文章である。この宣長という愛読者とともに『源氏物語』はあらためて江戸社会に成立し直したということができる。
もとより宣長だけが『源氏』の近世社会の愛読者だというのではない。『源語外伝』の熊沢蕃山も、『紫家七論』の安藤為章もまた『源氏』の愛読者である。近世社会にあって『源氏物語』はその愛読者を京都の公家とその周辺だけではない、武士や町人や儒家の中にも広く創り出しているのである。彼らの『源氏』論とはこの物語を彼らが愛読することの理論的な証だといってもいいものである。もし近世社会の公家・武士・町人という広汎な人びとを国民の名をもって呼ぶならば、『源氏物語』は近世にいたって「国民」のものになった、あるいは「国民文学」として成立したということはできないのか。恐らく津田は『源氏物語』の高い評価にもかかわらず、それを「国民」の文学とすることに反対するだろう。なぜ『源氏物語』を「国民の文学」としないのか。津田における「国民」とは何か。
3 津田の『源氏』評価
津田はすでに見たように平安朝の女性歌人、物語作者に高い評価を与えている。ことに紫式部を「仮名文の大成者」として津田は高く評価している。
「(清少納言は枕草子で)自己の心的経験と実際の観察とを直写したに過ぎないが、紫式部に至っては、それを豊富な空想に織り込んで、巧みに人物と光景と其の間に起る幾多の葛藤との幻像を作り上げ、そうして其の人物の情生活を内面的に遺憾なく描写している。茲に於いて平安朝の文学は殆ど其の極致に達した。単に文章の点からいっても源氏の作者は仮名文を大成したものである。」
ではなぜ平安朝文学の極致というべき作品が女性の手になる仮名文によって成されたのか。津田はここで国文学の表現手段としての仮名文の問題を展開させている。これは日本文学史における最初の文学的達成が女流の手になる仮名文をもってなされたことをどう考えるかという大事な問題である。
「ところで、こういう精細な描写の文体が、女流の手によってなし遂げられたことは、文学史上、甚だ興味ある現象である。それは女の観察が緻密である故とのみ見るべきで無い。むしろ漢文に対する国文の特色として考えねばならぬ。漢文の大まかな筆つきが、真実、特に人心の描写に適しないことは無論であるが、故事と成語とを先ず学んでかからねばならぬ漢文は、それによって事物を写すのでは無くして、事物を漢文特有の型に入れて、実際とは全(ま)るで変ったものを作り出すのである。国民の事物と思想と感情とは、外国の文章を以て写し出されるもので無い。まして、一種特殊の修業を有し、極めて繊細な感受性を有っている平安朝人の思想を、外国文、特に六朝式の漢文でいい現わされる筈は無い。だから、おもて立った文章が依然として漢文であり、多数の男子が、なお齷齪としてそれを模擬しようと努めている間に、女文として発達した仮名文が、独り実際の事物、実際の思想を写すことに成功したのは当然である。」
小西甚一が平仮名表記からなる勅撰歌集『古今和歌集』の成立(延喜5・905年または延喜14・914年頃)の決定的な意味をいっている[3]。この『古今集』の成立とは、「和語だけによる閉鎖世界が日本文芸のなかにうち建てられた」ことを意味すると小西はいう。和語だけで表現される世界とは、平仮名によって表記される文芸世界であり、新しい「雅」を形成する世界である。この新しい「雅」の成立は、「シナの「雅」が日本に滲透し、原像がシナにあることを意識させないほど日本的な「雅」に変換された」ことを意味すると小西はいうのである。
私がいま小西による「和語的文芸世界」の成立論を引くのは、和語による日本的「雅」の成立をいう小西の論に同調するからではない。ただ津田の「女流仮名文物語」論を相対化することを考えてである。小西は、津田が「女文として発達した仮名文が、独り実際の事物、実際の思想を写すことに成功したのは当然である」というように仮名文の成立を平安女流文学の高い達成という方向でのみ見ることをしていない。また文芸的言語としての和語(和文・仮名文)の成立を小西は、津田のように「漢文」に対するナショナルな標識をもった「国文」の成立として見たりはしない。小西を引くことによってわれわれは津田による平安朝文芸批評の特質を知ることができる。さらに平仮名が「女手」といわれることについて小西はこういっている。
「十世紀よりいくらか以前から、女性は漢籍や仏典に近づかないほうが女性らしいと意識されるようになり、それに伴って、片仮名よりも平仮名が女性むきだと感じられたのであろう。平仮名のことを「女の手」または「女手」とよぶようになった。これは、平仮名が女性専用だったことを意味するわけでなく、男性も平仮名を使ったのだけれど、それが私儀的(informal)な場面だけでは許されたのに対し、女性としての表儀的(formal)な場面だろうとも女性は平仮名で書いてよかったーということなのである。この事実は、男性にとっての表儀的な場面では漢文が用いられたのに対し、女性は表儀的でも私儀的でも和語による文章すなわち和文を用いたーということに対応する。」
平仮名は平安朝貴族世界における貴族たちの私的世界の表現手段になったのである。津田がいう「爛熟した貴族的文明の、蒸すような空気の裡に醸成せられる官能的恋愛と、狭い範囲に行われた勢力争いによって、栄枯盛衰の倏に変ずる人生の波瀾と、感傷的な当時の人心を動かすに足る幾多の事実」を、それがそれぞれの私の心に捺していった深い刻印とともに語り出す表現手段=仮名文を彼らはもったということである。そしてこの貴族たちの表の世界のすぐ裏側の私の世界のあらゆる歪みを背負わされた、その意味で私の世界の主人公というべき女性たちが、この仮名文という私の表現手段による語りの主要な語り手=書き手になっていったのである。
私がいまこのように説くことは津田と同じことをいっているのか。仮名文を女性専有の表現手段とする津田は、仮名文による物語文学の達成を高く評価する。だがその評価はその作品の女性性をいう津田自身の言葉によって裏切られてしまう。「国文が男の作より女の作に優れたものの出るのは自然の勢で、特に写すべき舞台が、女性的文明の社会と京都のやさしい天地とであり、描くべき人物が女のような男であり、また其の題目が恋愛生活であるとすれば、女性は其の作者として最も適していたものといわれる。」
津田の『源氏物語』評価を追ってここまでくると、われわれは一気にこの稿の冒頭に記した平安朝貴族世界に対する津田の否定的言辞に突き戻される。たしかに津田は「貴族文学の成熟時代」の最終章であらためてこの貴族世界に向けて否定的言辞を吐き出すように書き付けているのである。
「平安朝人が根柢に於いて情熱に乏しく意志が弱かったことである。国民として何等の為すべきこともなく、個人としても何等の事業欲がなく、そうして平安京の都会的文明に蒸されて、体力も衰弱し精神も萎靡した彼等は、何事に対しても、坐っていて向うから来るものを享受しようとするのみで、みずから進んで取ることは夢にも想わなかった。換言すれば、眼前刻下の栄華を受容することのみ希求して、一歩を現状より進んで新しい世界を開拓する意気が無かった。自己の文化に満足し其の間に得意の鼻を蠢かす者は、自己を超越し当代を超越する必要を認めず衝動もない。」
この結論の章においても「国民」の語は平安朝貴族とその文化に対する否定的な言辞を構成している。「国民」としての国家意識の欠如なり不在をいうことで、その時代々々に対する否定的批評を成していく津田におけるこの概念をわれわれはどう考えるべきなのか。この問いかけに答えて、近代国民国家(ネイション・ステイト)の「国民」概念を日本の全歴史過程に放り込んでいることの津田の間違いをいっても答えにはならない。津田はこの「国民」概念を日本の古代氏族時代にも、貴族の時代にも、武士の時代にも、そして平民の時代にも意図的に放り込んで「国民思想の研究」という思想史的批評の作業を成立させているのである。だから問うべきなのは、この「国民」概念を投げ入れることによって、いかなる思想史的批評の作業がなされたのかということであり、その際この概念はいかなる意味をもつかということである。そして最終的に問われねばならないのはこの「国民」概念を構成する津田の「国民国家」観である。
「眼前刻下の栄華を受容することのみ希求して、一歩を現状より進んで新しい世界を開拓する意気が無かった。自己の文化に満足し其の間に得意の鼻を蠢かす者は、自己を超越し当代を超越する必要を認めず衝動もない」という貴族時代に向けた津田の否定的批評の言辞によって見れば、「国民」とは時代々々の人びとに自己超克を促し、未来を提示していく理念であるようだ。そして津田はこの「国民」概念をもって既存の国民国家の国民思想史を批判しながら、その批判の彼方に実現されざる「国民国家」像を彼の脳裡に描いているようだ。
[1] 津田『文学に現れたる我が国民思想の研究ー貴族文学の時代』(『津田左右吉全集』別巻第二)第二篇「貴族文学の成熟時代」第一章「文化の大勢」。傍点は子安。津田からの引用に当たっては漢字・かな遣いを現行のものに改めた。
[2] 本居宣長『紫文要領』(岩波文庫)。私は同書に解説「物の哀れをしるより外なしー物語享受者の文学論」を付している。この解説の文章は『宣長学講義』(岩波書店、2006)に収めている。本稿における宣長物語論への言及はこの解説の文章によっている。
[3] 小西甚一『日本文芸史』Ⅱ、「中世第一期―風流の時代」、新潮社、1985。
初出:「子安宣邦のブログ・思想史の仕事場からのメッセージ」2017.02.08より許可を得て転載
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〔study827:170209〕
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