冬の沖縄、二つの目的をもって~「難しい」と逃げてはならないこと(3)
- 2017年 2月 20日
- カルチャー
- 内野光子
ランナーが去った後の渡嘉敷島で
今回、夫がどうしても訪ねたいと、日程の調整に苦労していたのが渡嘉敷島行きだった。2月4日が渡嘉敷島マラソンで、5日までは、車の予約ができなかったが、ようやく、2月6日に確保でき、夫はほっとした様子だった。次に心配なのは、海が荒れて欠航にならないかで、波が3m以上になると高速船は欠航になり、フェリーの方が波に強いという。所要時間は、フェリーの方が高速船の2倍、70分かかるのだ。欠航か否かは、当日の朝8時に決定するという。気のもめることだったが、高速船は2便とも欠航で、那覇泊港から10時30分発のフェリー「とかしき」に乗った。船内のアナウンスにもあったが、内海を出るところで大きく波をかぶるかもしれないが、すぐにおさまる、とのことだった。船の先端でカメラを構えていると半端ではない揺れ方、波しぶきをまともにかぶってしまったのだが、アナウンスの通り、以降、揺れはほとんど感じなかった。
港では、案内のAさんが出迎えてくれた。待合室には、まだ、マラソン大会の幟が片付けられずに残っていた。新聞報道によれば、800余人がエントリー、ハーフマラソン他711人が完走したそうだ。島の人口は近年700人前後を推移しているから、この日ばかりは2倍に膨れ上がっていたことになる。
那覇市、泊港。高速船は欠航、フェリー「とかしき」は10時30分出航
まもなく、渡嘉敷島へ、70分の船旅
「集団自決跡地」の碑
最初に訪ねたのは、北山(ニシヤマ)にある広大な「国立沖縄市青少年交流の家」だった。起伏のある広大な敷地は、1970年代まで、米軍基地だった。1960年、米軍がミサイル配備の基地建設のため、辺りの山は削られ、谷を埋め、地形は一変した。今も残る野球場などは谷底を埋め立て建設されたという。しかし、69年に基地は閉鎖され、本土復帰の数年後に返還、この国有地には、現施設の前身たる「国立青年の家」の一つとして建設された。
国立青少年交流の家、野球場を望む
右手の島が座間味、左手が阿嘉島、座間味島には、3月26日に米軍は上陸、ここでも集団自決はあった
この施設の隣接地に「集団自決跡地」の碑はあった。まず、中央には「集団自決跡地」と刻まれた自然石が置かれ、その後方には細い壕があるといい、この辺りがが、夜を徹して集まって来た住民たちの集団自決の地となった。
この奥には細い壕が掘られているが、集団自決時の惨状は、筆舌に尽くしがたく、米軍の写真が残されているというが、村の人立もめったに足を踏み入れないという
渡嘉敷島での集団自決について、渡嘉敷村のホームページでは、つぎのように解説している。戦没者の内訳表の下には*以下の注記も付されている。
「(前略)日本軍は、沖縄本島に上陸してくる米軍の背後から奇襲攻撃をかけるねらいで、慶良間の島々に海上特攻艇200隻をしのばせていました。ところが、予想に反して米軍の攻略部隊は、1945年3月23日、数百の艦艇で慶良間諸島に砲爆撃を行い、特攻艇壕をシラミつぶしに破壊した後、ついに3月26日には座間味の島々へ、3月27日には渡嘉敷島にも上陸、占領し、沖縄本島上陸作戦の補給基地として確保しました。
日本軍の特攻部隊と、住民は山の中に逃げこみました。パニック状態におちいった人々は避難の場所を失い、北端の北山に追込まれ、3月28日、かねて指示されていたとおりに、集団を組んで自決しました。手留弾、小銃、かま、くわ、かみそりなどを持っている者はまだいい方で、武器も刃物ももちあわせのない者は、縄で首を絞めたり、山火事の中に飛込んだり、この世のできごととは思えない凄惨な光景の中で、自ら生命を断っていったのです。」
* 集団自決: 狭小なる沖縄周辺の離島において、米軍が上陸直前又は上陸直後に警備隊長は日頃の計画に基づいて島民を一箇所に集合を命じ「住民は男、女老若を問わず軍と共に行動し、いやしくも敵に降伏することなく各自所持する手榴弾を以て対抗できる処までは対抗し癒々と言う時にはいさぎよく死に花を咲かせ」と自決命令を下したために住民はその命をそのまま信じ集団自決をなしたるものである。
(「慶良間諸島の沖縄戦」 2011年2月20日)
向かって右側の石碑には「平成五年三月二十八日 渡嘉敷村」とあり、石碑建立の経緯が記されている。1951年3月28日、「白玉の塔」として、この地に集団自決者の追悼碑が建立されたが、1960年、周辺地域が米軍基地になったため移転を余儀なくされた、とある。
「(前略)米軍の上陸により追いつめられた住民は友軍を頼ってこの地に集結したが敵の砲爆は熾烈を極め遂に包囲され行く場を失い、刻々と迫る危機を感じた住民は 『生きて捕虜となり辱めを受けるより死して国に殉ずることが国民としての本分である』として昭和20年3月28日祖国の勝利を念じ笑って死のうと悲壮な決意をした。兼ねてから防衛隊員が所持していた手榴弾2個づつが唯一の頼りで 親戚縁故が車座になり1ケの手榴弾に2、30名が集まった瞬間不気味な炸裂音は谷間にこだまし清流の流れは寸時にして血の流れと化し 老若男女315名の尊い命が失われ悲惨な死を遂げた。(後略)」
左手の白い説明板では「平成十七年十一年三十日 渡嘉敷村教育委員会」とあり、1945年4月2日の「ロサンゼルスタイムズ」(朝刊)の記事により、集団自決の現場が具体的かつ克明に記述されていた。後半部分には、米軍の捕虜となった島民が、捕虜になると女性は強姦・拷問を受け、男は殺されると信じていたが、医療行為や食料も避難所も与えられることを知って、娘を殺してきたことが悔やまれる、との声も記されている。
渡嘉敷島の「集団自決」が語られるとき、問題となるのが、日本軍による組織的な誘導・関与や強制・命令があったか否かなのであるが、渡嘉敷村ホームページや碑文のマーカー筆者が付した太字部分に見るかぎり、「パニックにおちいった人々は・・・かねて指示されていたとおりに」住民の「悲壮な決意」のもとに自決した、とする文言や「警備隊長」の自決命令や「兼ねてから防衛隊員が所持していた手榴弾2個づつ」という表現や主語が不明な記述もある。
案内のAさんは、二つの説明板の内容をよく読み比べてください、とあまり多くは語らなかったが、車の中では、若いときに聞いたという不発弾が爆発しなかったり、飢餓の中を生き延びたり、米軍の捕虜になって生き残った人々の証言が、固有名詞や地名を以てつぎつぎと飛び出てくるのだった。それらは、私がこれまで接した本や論文などで読んだ内容と重なるものもあったが、初めて聞く話も多かった。米軍が、まず3月26日に座間味島に上陸、翌27日渡嘉敷島に上陸し、28日の集団自決までの、まさに時間を追うようなドキュメントとして、聴いていた。さらにその後、8月15日を経ても赤松嘉次大尉のもと立てこもっていた海上挺進第三戦隊は、8月15日の終戦詔勅を傍受しながら、投降したのは8月22日であった。投降を勧めにきた捕虜となった島民たちを、やはり投降を勧めに来た渡嘉敷島へ強制収容されていた伊江島の島民たちを処刑、自決に追い込んだことも明らかになっている。
当時の肉親や村人の「集団自決」を目の当たりにしていた人々の証言による悲惨かつ残酷な状況、米軍撮影の容赦ない現場写真などには、目を覆いたくなるのだが、どうしてこうしたことが起こったのかを、しっかりと記憶にとどめ、伝えていかねばならないと思う。渡嘉敷村のHPでは、一般住民の戦没者数は380人とされ、0歳から10歳までが101人にのぼり、乳幼児の犠牲者が多い。このうち329人が集団自決で亡くなっている。さらに防衛隊42人、本土出身の将兵81人、防衛隊42人であり、朝鮮人の軍夫、慰安婦は公簿に無いので名前も人数も不明なのである。なお、渡嘉敷村出身で島外で亡くなった軍人軍属は91人とされる。民間人が圧倒的に多いのも、この島の特徴でもある。
「集団自決」について軍の命令があったのか否かについては、大江健三郎の『沖縄ノート』(岩波書店 1970年)をめぐっての裁判(渡嘉敷島の赤松戦隊長の弟、座間味島の梅沢戦隊長を原告、大江、岩波を被告とする二人の戦隊長の名誉棄損が争われて、原告敗訴)や2007年の教科書検定問題(高校日本史教科書の沖縄における「集団自決」に日本軍の強制があったとする文言削除)という二つの出来事で、再度クローズアップされることになった。
赤松戦隊長の命令により、米軍の上陸が迫った3月27日の夜から村の巡査が住民に陣地近くのニシヤマ頂上付近に集結するように伝えた。防衛隊員があらかじめ、個別に2個の手榴弾を「いざとなったら、一つは敵に投げつけ、一つは自決用に」との趣旨で配っていた。また、1941年1月東條英機陸軍大臣によって布達された「戦陣訓」の「生きて虜囚の辱を受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ」という教育や「捕虜となれば、女は辱めを受け、男は無残な殺され方をする」といった恐怖心をあおる宣伝が浸透している状況下にあった事実までは、多くの証言で確認されている。
さらに、村の人々、民間人が集団での自決に至ったのかについて、その背景には、軍の命令があったか否か、戦隊長から直接、命令を聞いた者がいたか否かになると明確ではない。「ただ確実に言えることは、『軍命』が下されたと伝えられたとき、その軍命に従って自決するのが当然であると信じ込まされていたことであ」り、「日本軍ならびに日本国家全体として、民間人であっても軍とともに玉砕するのが当然であるという国家意思が軍官民の上から覆いかぶさっていたとき、戦隊長や将校らによる、住民の自決を示唆するようないかなる言動も巨大な国家意思による命令と受け止められる状況にあった。個々の将兵による自決の指示、示唆もそうした命令と受け止められる状況にあった」(林博史『沖縄戦 強制された「集団自決」』吉川弘文館 2009年、199~201頁)だろうと思う。また、同時に、離島という状況下で、軍は、村人の協力なしには陣地建設はできなかったわけで、軍事機密を知り得た島民を米軍の捕虜にするわけにはいかなかった、というのが軍のスタンスであり、その上、前掲書(204、216頁)の分析に見るように、地域社会におけるリーダーと軍との関係、家制度のなかの男の役割を見据えたうえでの、軍による誘導や強制が機能したという見方には説得力があると思った。
案内のAさんから聞いた、村民が集まっていた恩納河原に、村の有力者も集っていたが、陣地から駆け付けた防衛隊の一人が村長に耳打ちをした直後に、村長の「天皇陛下万歳」を合図に一斉に手榴弾を爆発させた、という証言が意味することや、前述のように、乳幼児の集団自決による犠牲者が多いのは、一家の長たる父親が、まず、幼い者から手をかけただろう結果ではなかったか、に思いが及ぶのだった。
初出:「内野光子のブログ」2017.02.19より許可を得て転載
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