ムバラクと違うカダフィ -リビア内戦長期化の怖れ-
- 2011年 3月 12日
- 評論・紹介・意見
- カダフィ大佐リビア内戦伊藤力司
2月15日にリビア第2の都市ベンガジで反政府デモが起こり、長期独裁カダフィ政権が民衆革命で倒されたエジプトのムバラク政権の二の舞かと言われて3週間あまり、リビアは本格的な内戦に突入してしまった。東部の諸都市を制圧した反政府側はベンガジに国民評議会(臨時政府)を結成した上で、西部の諸都市を攻略して首都トリポリに攻めのぼる構えだが、このところ政府側の反攻も激化している。内戦の帰趨は到底見通せない段階であり、カダフィ政権が早晩崩壊することはありそうにない。
1969年の王制打倒クーデター以来41年余り自前の政権を維持してきたカダフィ大佐と、1981年サダト大統領が突然暗殺されたため副大統領から「たなぼた式」に大統領に昇格したムバラク前エジプト大統領とは、権力掌握のいきさつから異なる。それより何より、ムバラク政権はこの30年間終始米国に支えられてきたが、カダフィ大佐は政権掌握後30年間以上、米国を先頭とする西側諸国と敵対してきたという大きな違いがある。ムバラク前大統領はオバマ米大統領の支持を失った段階で命運が尽きたが、カダフィ大佐はオバマ大統領に嫌われても直ちに政権基盤が崩壊するわけではない。
ナセル中佐に率いられたエジプトの自由将校団がファルーク王制を倒した1952年、隣のリビアでイスラム教の伝統的な学校で学んでいた10歳のカダフィ少年は、植民地から脱却しようとするアラブ世界の新鮮な息吹を感じた。1956年の第2次中東戦争を通じてスエズ運河国有化を成し遂げたナセル大佐(中佐から昇任)は一躍アラブ世界の英雄になった。カダフィ少年はナセル大佐を夢見てベンガジの士官学校に進み、任官後は英国に1年間留学した。士官学校時代からエジプトの自由将校団をモデルに、リビア革命を目指す将校団を組織し始めていたという。
同志とともに決起してイドリス国王を追放してリビア共和国樹立を宣言したのが27歳、陸軍中尉の時だった。以来公式な肩書は革命指導評議会議長、首相、全国人民会議書記長などと変遷するが、1977年以降は全ての肩書を捨て「革命のガイド」カダフィ大佐を自称している。これは尊敬するナセル大佐にあやかったものだという。しかし肩書のないカダフィ大佐が、この41年間余リビアの最高権力を握る独裁者であったことは紛れもない。
この間、1967年の第3次中戦争でナセル大統領の下でアラブ陣営が敗れ、イスラエルに占領地を奪われた。さらにイエメン内戦への介入に失敗したナセル大統領が失意のうちに1970年急死。後継のサダト大統領は1973年の第4次中東戦争を経てイスラエルとの和平に踏み切り1979年エジプトはイスラエルと平和条約を結んだ。アラブ世界のリーダーであるエジプトの裏切りに最も怒ったのが「ナセルの使徒」を自任するカダフィ大佐であった。
アラブの統一、反帝・反植民地主義、イスラムを根底に置く社会主義という夢を実現する前に倒れた英雄ナセル。ナセルの事業をを継承することを自任したカダフィ大佐は1970年代から80年代にかけて、パレスチナ解放闘争支援を本格化させる。こうした中で1973年7月、ドバイを離陸した日航機をハイジャックした日本赤軍とパレスチナ解放人民戦線(PFLP)の混成ゲリラがベンガジ空港に着陸させ、人質解放開放後日航機を爆破させる事件を起こした。犯人グループはリビア当局に投降という名目の下、実質的に逃亡した。
大佐にとってイスラエルをかばう米国こそが主敵であり、パレスチナ人民に代わって米国を攻撃するという無謀さが彼の真骨頂である。米カーター政権は1979年リビアをテロ支援国家に指定、81年にはトリポリ沖で米軍機がリビア空軍機2機を撃墜。86年4月西ベルリンの米兵のたまり場のディスコを爆発させ米兵多数を死傷させた事件、88年12月英国スコットランド上空で米パンナム機が爆発、270人死亡した事件もリビア諜報機関の犯行が疑われた。ディスコ爆破事件後には米軍機がトリポリのカダフィ宅などを爆撃、レーガン大統領がカダフィ大佐を「アラブの狂犬」と呼んだのはこのころのことだ。
しかし91年のソ連解体、米ソ冷戦の終結を受けた世界的地殻変動の中で、リビアの対外姿勢も変化する。ソ連の拒否権の脅しがなくなった国連安保理が92年3月①国際航空機のリビア発着禁止②リビアへの武器禁輸-などの制裁決議を採択したのを手始めに、対外資産凍結など対リビア制裁が強化された。これを受けてリビアは99年4月パンナム爆破事件容疑者とされる諜報部員2人を国連に引き渡し、制裁は凍結された。2人はオランダに設けられた特別法廷の裁判で1人は終身刑、もう1人は無罪に。さらに2003年8月リビアはパンナム機爆破の責任を認め、遺族への賠償支払いを開始した。
このように2003年にはリビアの対米姿勢が大きく転換した。同年12月には、当時のブッシュ大統領とブレア英首相はリビアが核兵器など大量破壊兵器の開発計画放棄を約束し、国際機関による無条件の査察受け入れに合意したと発表した。リビアは1980-90年代、秘かに核兵器開発を進めていたことを認めたが、国際原子力機関(IAEA)の査察で核兵器製造には遠い水準だったことが判明した。リビアと米国は06年5月関係正常化を発表、さらにリビアは08年10月、西ベルリンのディスコ爆発事件の被害者を含め計42億ドルの遺族への賠償金を米国に支払った。
これより先、2001年の9・11米中枢同時多発テロ事件以後、カダフィ大佐はウサマ・ビンラディン率いるアルカイダを「イスラムの裏切り者」と呼んで真っ向から非難している。この点でも米国と歩調を合わせたわけだ。ベンガジで2月15日に突如始まった今回の反政府デモについて、カダフィ大佐は「デモをやっている連中は、アルカイダに幻覚剤を盛られて頭がおかしくなっているのだ」と切り捨てている。しかし蜂起から僅か5日間でベンガジを中心とする東部キレナイカ地方がそっくり反乱側に回ったのは、カダフィ大佐の想定外だったろう。
ひとつには東部駐屯の政府軍が反政府デモ鎮圧に戦意がなく、すぐに寝返ったためだ。カダフィ大佐はもともとクーデターを恐れて、正規軍(陸軍)の強化には力を入れていなかったという。大佐の身辺警護を含めた治安部隊の精鋭は、革命委員会所属の民兵旅団や大佐の7男ハーミス氏が指揮する特別旅団とか女性警護部隊などの特別編成部隊で、これらの部隊は戦車、装甲車、火砲など最新装備が与えられているということだ。騒乱発生後3週間余りこれまで守勢に立っていた政府側は反撃に転じ、3月8日には中部の町ビンジャワドを奪い返し、さらに中部の石油積み出し港ラスラヌーラやトリポリ西方の町ザウィーヤへ優勢な火力を使って反攻を続け、この両拠点を3月10日に奪回した。
オバマ米大統領の対アラブ・対イスラム姿勢を評価していたカダフィ大佐だが、オバマ大統領がリビアの反政府デモへの武力行使を非難し、カダフィ退陣を公然と要求するに至って猛然と反論に転じた。大佐は国営テレビを通じて、退陣の意思は全くないと強調するとともに米英仏はリビアの石油資源を狙って武力介入を策していると批判、米英仏がリビア空軍機によるデモ隊攻撃を防ぐために、国連安保理の場で検討している「飛行禁止空域」設定を実行するなら徹底的に抗戦すると宣言した。さらに天安門事件を引いて「中国は武装していない学生を武力で鎮圧した。われわれは天安門事件のようにデモ隊をたたきつぶす」と挑戦的だ。砂漠の遊牧民の血がたぎっているのだろう。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔opinion0370 :110312〕
「ちきゅう座」に掲載された記事を転載される場合は、「ちきゅう座」からの転載であること、および著者名を必ず明記して下さい。