主権者として、天皇制をどうするか、忌憚なく十分な議論をしよう。
- 2017年 6月 4日
- 時代をみる
- 澤藤統一郎
天皇(明仁)が自ら発案した生前退位希望を実現する皇室典範特例法案は、昨日(6月2日)の衆院本会議で賛成多数で可決された。残念ながら、本格的な議論を抜きにしてのことである。
「採決は起立方式で行われ、自民、民進、公明、共産、日本維新の会、社民の各党が賛成。自由党は棄権した。自民党の斎藤健副農相や、民進党の枝野幸男前幹事長、阿部知子氏が棄権した。無所属の亀井静香元金融担当相、上西小百合、武藤貴也両氏の計3人が反対した。」(毎日)と報じられている。
棄権や反対票の理由はさまざまであろう、よく分からない。憲法上の理念からの発想もあろうし、「陛下のお気持ちに反する法案だから」というものもあるようだ。それでも、全会一致でなかったことは、国民の天皇制に関する意見の多様性を示すものとして評価したい。
降って湧いたような天皇制に関わる法案審議である。遠慮なく主権者代表の侃々諤々の議論があってしかるべきである。結論がどう収束するかよりは、国民が自らの意思で天皇制をどう取り扱うべきか、忌憚のない意見交換をすること自身が重要なのだ。「静かな環境」での、奥歯に物がはさまったような意見交換であってはならない。
せっかくの機会。徹底して天皇制の功罪を洗い出してみるべきであろう。そもそも、国民主権原理や人権尊重の憲法体系下に天皇とはいかなる存在なのか。はたして、核心的な憲法理念と矛盾することなく存在しうるものであるのか。21世紀の日本社会に天皇とは必要な存在なのか。皇位の存続は望ましいのか否か。また、国民主権に矛盾しない象徴天皇のあり方とはいかなるものか。象徴天皇としての公的行為というものが認められるのか。認めるとしても、どの範囲でどのような手続で認めるべきものか。さらに、天皇個人の人権やプラバシーをどう考えるべきか。皇室や皇族の予算は、どの範囲なら許容できるのか…。
今回の法案審議の発端は、天皇自身による生前退位希望のビデオメッセージであった。有り体にいえば、「自分は齢も齢。この仕事を自分流で続けていくのはもうしんどい。辞めさせてもらい、若い者へバトンを渡したい」という意思の表明。その希望を叶えるための法改正が進行しているのだ。これは、はたして憲法が認めるところなのだろうか。
この点に関して、誰もが意見を述べればよい。「天皇にだって、人権がある。その意に反する苦役を押しつけてはならない。」「皇位継承者にも職業選択の自由を認めてあげてよいと思う。希望しない者に、天皇という公務員職を押しつける必要はないし、辞職希望者の辞職は認めてあげるべき」という意見もあろうし、「天皇は特別な地位。皇位継承者はいやでも天皇になるべきだし、生涯その地位から離れることは認められない」「それが現行憲法が予定しているところ」「そのように理解して初めて、日本国民の一体感が醸成され、国民統合の機能が発揮される」という意見もあろう。どちらでもよい。どう考えることが、国民全体の利益になるかだ。最初に天皇ありきではない。国民が天皇制のあり方を制度設計するのだ。こんなことに専門家も素人もない。遠慮なく意見を言えばよいのだ。
この審議の過程で、象徴天皇のあり方に関する意見分布に、奇妙なねじれが顕在化している。リベラルを自認する少なからぬ人々が、天皇の公的行為ないし象徴的行為の拡大を歓迎する見解を表明している。現天皇(明仁)が、憲法理念に親和的だとして、戦没者慰霊や被災の国民に対する慰藉の行為を積極評価しているのだ。
これに対して、ウルトラ保守派が伝統的な天皇像を信奉して、「天皇は皇居のなかで祈るだけでよい」としている。当然に、天皇個人は、リベラル派に親和的にならざるを得ない。
しかし、現天皇(明仁)が憲法に親和的だとして、それは偶然の産物。どんな人物が天皇に就位しても、国民主権や民主主義に影響がないように制度設計をしておかねばならない。
天皇の戦没者慰霊も実は問題なしとしない。たまたま、天皇の靖国参拝は途絶えて久しい。現天皇(明仁)が靖國神社の参拝をすることはあるまいとは思う。しかし、戦没者慰霊のあり方として、次代の天皇が、同様の姿勢を堅持するかどうかは疑問の残るところ。仮に、A級戦犯の分祀が実現したときには、微妙な問題が起こりうる。海外派兵自衛隊員の戦死者に対する天皇の慰霊の可否に関しても、国論を二分する問題が起こりうる。天皇の公的行為の拡大、ないしは象徴天皇としての行為の曖昧な拡大はけっして歓迎すべきことではない。
さて、この衆院通過の法案。参院では特別委員会で6月7日に審議し、9日にも成立する見通しだという。そんな程度の議論でよいのだろうか。なお、6月1日に衆院議院運営委員会で採択された付帯決議は「女性宮家」創設などの「検討」を政府に求めている。これに、自民党内の保守派からは不満が出ているという。こんな程度の法案が、右から攻撃されているのだ。
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ところで、昨日(6月2日)衆院で可決となった、「天皇の退位等に関する皇室典範特例法(案)」第1条は、以下のとおりである。
第1条(趣旨)「この法律は、天皇陛下が、昭和六十四年一月七日の御即位以来二十八年を超える長期にわたり、国事行為のほか、全国各地への御訪問、被災地のお見舞いをはじめとする象徴としての公的な御活動に精励してこられた中、八十三歳と御高齢になられ、今後これらの御活動を天皇として自ら続けられることが困難となることを深く案じておられること、これに対し、国民は、御高齢に至るまでこれらの御活動に精励されている天皇陛下を深く敬愛し、この天皇陛下のお気持ちを理解し、これに共感していること、さらに、皇嗣である皇太子殿下は、五十七歳となられ、これまで国事行為の臨時代行等の御公務に長期にわたり精勤されておられることという現下の状況に鑑み、皇室典範(昭和二十二年法律第三号)第四条の規定の特例として、天皇陛下の退位及び皇嗣の即位を実現するとともに、天皇陛下の退位後の地位その他の退位に伴い必要となる事項を定めるものとする。」
私は、この条文を読むだに気恥ずかしさを払拭できない。近現代の文明国の常識人がこれを読めば、到底現代の法の条文とは思わないだろう。古文書のなかから発掘した古代法の一片と思うであろう。私も日本国民の一人。こんな恥ずかしい法律が作られることに、幾分かの責任を持たねばならない。
この条文をかたち作っているものは、明らかに古代日本のメンタリティである。冒頭一箇条に「陛下」を5度繰り返している、臣下の態度。昭和・平成は、養老・天平当たりに置き換えてちょうど良かろう。
被支配者が支配者に抵抗するとは限らない。成功した支配者は、被支配者の精神の奥底まで支配する。被支配者は、支配者を「敬愛」するに至るのだ。「1984年」のビッグ・ブラザーのごとくに。また、慈悲深き奴隷主が奴隷に接するがごときにである。万葉集に詠われた古代日本の天皇讃歌も同様である。
このメンタリティを19世紀に復活させたのが、維新後の神権天皇制政府。20世紀中葉、その無理が破綻して合理的な国民主権国家が誕生したはずが、21世紀にまで引きずられたこのカビの生えたメンタリティ。やはり恥ずかしいというほかはない。
例のごとく、文意をとりやすいように、段落をつけてみる。
「この法律は、
(1)天皇陛下が、昭和64(1989)年1月7日の御即位以来28年を超える長期にわたり、国事行為のほか、全国各地への御訪問、被災地のお見舞いをはじめとする象徴としての公的な御活動に精励してこられた中、83歳と御高齢になられ、今後これらの御活動を天皇として自ら続けられることが困難となることを深く案じておられること、
(2)これに対し、国民は、御高齢に至るまでこれらの御活動に精励されている天皇陛下を深く敬愛し、この天皇陛下のお気持ちを理解し、これに共感していること、
(3)さらに、皇嗣である皇太子殿下は、57歳となられ、これまで国事行為の臨時代行等の御公務に長期にわたり精勤されておられること
という現下の状況に鑑み、
皇室典範第4条の規定の特例として、
天皇陛下の退位及び皇嗣の即位を実現するとともに、
天皇陛下の退位後の地位その他の退位に伴い必要となる事項を定めるものとする。」
大意は、「特例として、天皇の退位及び皇嗣の即位を実現する」ということ。その特例を認める趣旨ないし理由が、もったいぶった「現下の状況」として、上記(1)(2)(3)に書きこまれている。
(1)は、現天皇(明仁)の事情である。高齢のため、「国事行為」と「象徴としての公的な活動」の継続が困難になったことを「案じている」という。
(2)は、国民の側の事情である。天皇を敬愛し、天皇の気持ちを理解し共感している、という。
(3)は、皇太子(徳仁)の事情である。57歳になり、国事行為の臨時代行等の経験がある、という。
この3点を根拠として、「だから、生前退位の特例を認めてもよかろう」という趣旨。しかし、問題山積といわねばならない。
(1)は、天皇(明仁)の強い意向を忖度して、わざわざ立法するということを宣明している。天皇の意向を忖度し尊重するとは、天皇の威光を認めるということではないか。なんの権限も権能も持たず、持ってはならない天皇の意向の扱いとして、明らかに憲法の趣旨に反する。これは大きな問題点。
高齢のため「国事行為」に支障をきたすのなら摂政を置けばよい。「象徴としての公的な活動」はもともとが憲法違反なのだから、しないに越したことはない。この特例法が、天皇の「象徴としての公的な活動」を公的に認めることは、違憲の疑い濃厚な、最大の問題点である。
(2)は、主権者国民をないがしろにすること甚だしい。天皇を敬愛し理解し共感する国民もいるだろう。しかし、敬も愛もせず、理解や共感とも無縁な国民も現実に存在し、けっして少なくはない。このような人々に、敬愛や理解・共感を押しつけてはならない。仮に天皇を敬愛しない者がたった一人であったとしても、このような価値観に関わる問題について、国民を一括りにしてはならない。国民一人ひとりに、思想・良心の自由があり、その表現の自由がある。全国民が天皇を敬愛しているなどとの表現は、厳に慎まなければならない。法律に書き込んではならない。
(3)は、訳が分からない。忖度すれば、「皇太子も、もう齢も齢だし、これまでの経験もあるから、天皇の役割が務まるだろう」ということのようだ。しかし、天皇とは憲法上決められた形式的な事項を行うだけの存在で、何ら資質や能力を要求されるない。だから、わざわざ(3)を書く必要はまったくない。
天皇は、日本国憲法における本質的構成要素ではない。国民主権や、民主主義や、精神的自由や平等原則と矛盾せぬような存在でなくてはならない。そのためには、いささかも権威や威光を認めてはならない。国民からの敬愛や理解・共感の押しつけもである。その観点からはこの法案は問題だらけ。もっともっと議論が必要だ。
(2017年6月3日)
初出:「澤藤統一郎の憲法日記」2017.06.03より許可を得て転載
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