SJJA&WSJPO【西サハラ最新情報】212 リーフ・東ティモール・西サハラ
- 2017年 6月 14日
- 評論・紹介・意見
- サハラモロッコ平田伊都子西サハラ
2017年6月11日の日曜日、モロッコ首都ラバトで、モロッコ当局発表によると約12,000人の反政府デモンストレーションがありました。 デモンストレーションの主催者は、その数倍に上ると言っていますが、正確な数字は分かっていません。 しかし、王国官製デモ以外の民衆自発デモを禁じているモロッコで、こんなにたくさんの人々が逮捕も恐れずデモに参加したのは、大きな驚きです! 残念ながら、モロッコ王国は厳しい報道管制を敷いていて、デモの全貌がなかなか掴めない、、悔しいです。 6月12日のジュネーブの国連人権理事会では、日本政府の報道規制状況が世界に暴かれました。 が、モロッコ王国の報道管制は、そんなもんじゃないョ! 筆者が知り得た限りのデモ情報と、西サハラ住民投票の可能性をお伝えします。
(1) モロッコ北部リーフ地方のデモが首都ラバトへ拡大:
他のアラブ諸国が金曜日を休日としているのに、モロッコでは欧州を真似て日曜日が休みだ。日曜日12時、首都ラバトの中心モハンマドⅥ世通りは、横断幕と獄に繋がれている活動家たちの写真とデモの人々で埋め尽くされた。先頭を切るのは、ナセル・ゼフザフィの両親で、人々は「逮捕者を釈放しろ!収監者の声を聞け!!」と叫んだ。ラバト・デモの発火地点はリーフ地方にあることが、一目で分かる。リーフ地方の漁港アル・ホセイマで、2016年10月28日にムフシン・フィクリ(31)という名の魚売りがモロッコ警察に惨殺された時、数千の住民が訴えてデモを蜂起したのだ。それ以来、漁港アル・ホセイマでは<職よこせ>デモが続き、2017年6月5日にデモ首謀者と狙われていたゼフザフィと20人の仲間がモロッコ機動隊によって逮捕され、彼を含む7人がカサブランカのオーカチャ刑務所に収監された。ゼフザフィは獄中からゼネストを呼びかけ、一週間後の6月11日に首都ラバトでそのゼネストが実現した。
デモ隊が国会議事堂に到着すると、シュプレヒコールは<自由、尊厳、社会正義>に変わった。デモのリーダーは<2月20運動>や<非合法イスラム組織・アル・アデル・ワ・イルハン>などに代わっていた。<自由、尊厳、社会正義>というスローガンは、2011年<アラブの春モロッコ版>で叫ばれた言葉だ。その後、指導者たちの逮捕で運動は停滞していたが、リーフ・デモのお陰で復活した。王権に抑えられていた野党もデモに参加し、活動を再開させた。
モロッコ王国を政治危機が襲っている。この危機を乗り切るため、モロッコ王国当局は、
王政に盾つく政党や政治家の締め付けを強化した。反王政デモの扇動者と見られていた元政治家サイド・チヤウを、麻薬密売とテロリスト支援容疑で逮捕した。
モロッコはリーフ地方を中心とする民主化運動を<テロリズム>でくくって、一網打尽に潰そうとしている。ついでに、西サハラ独立運動にも<テロリスト>の仇名をつけて、抹殺する積りだ。<テロリスト>の名前を貼れば、欧米も国連も国際組織も、騙せると思っているようだ。
6月13日のMWN(モロッコ世界ニュース)によると、「国家治安中央司令部は、<リーフ地域で勃発した反政府運動に対して、治安維持のため法に則って行動した>と、火曜日に発表した。さらに司令部は、<危険が増大し反対運動参加者は暴徒化して、治安隊員に向かって火炎瓶や石を投げ、ある暴徒は重火器を使った>と、公表した。そしてその結果、<298人の治安隊員が重軽傷を負い、公共損失額は14,000,000MAD以上に上り、ヘルメットや防弾服など1,260の警察防禦器具が破損し、3,885の安全機具と24のバリケードと13,542の付属器具が破壊された>と、報じている」と、報道されている。
しかし、デモ参加者の被害には一切触れていないし、6月11日に波及した首都ラバトの大規模デモも伝えていない。
モロッコ省都・ラバトの大規模デモに出動したモロッコ警察機動隊
(2)東ティモールで国連住民投票が成功したのは?:
東ティモールは1999年8月30日、国連主導の住民投票によりインドネシアの占領から2002年5月20日独立した(国際法上はポルトガルより独立)。現大統領はフランシスコ・グテーレスである。
そもそも、ティモール島は16世紀にポルトガルによって植民地化された。ポルトガルが中立を守った第二次世界大戦当初はオランダ軍とオーストラリア軍が保護占領し、その後、日本軍が占領したが、日本の敗戦によりポルトガルの支配が復活した。1974年に当時の宗主国ポルトガル本国で左派を中心としたカーネーション革命が起こり、東ティモール植民地維持に固執する保守独裁体制が崩壊すると、東ティモールでも独立への動きが加速した。
1976年、インドネシアが東ティモールを、27番目の州として併合してしまった。国連総会はこの侵攻と占領を非難する決議を採択した。すると翌年、インドネシア軍が包囲殲滅作戦を展開し、スハルト政権は東ティモール住民の抵抗を酷い弾圧で抑え込もうとした。
しかし、1998年にインドネシア本国での民主化運動でスハルト政権が崩壊すると、ガラッと風向きが東ティモール優位に変わっていく。後任のハビビ大統領は東ティモールに関して、特別自治権の付与を問う住民投票を提案し、1999年6月、国連東ティモール・ミッション(UNAMET)が派遣され、8月30日、独立に関する住民投票が行われた。こうして、9月4日に発表された投票の結果、東ティモール独立が事実上決定した。しかし、投票結果を不服とするインドネシア治安当局は、9月7日に東ティモール非常事態宣言を発令し国軍5,500人を増兵しインドネシア併合維持派の武装勢力(民兵)を使って破壊と虐殺を行った。結局、9月12日、インドネシアが、国連平和維持軍の受け入れを容認し、2002年に独立を勝ち取った。
国連東テイモール派遣団(UNAMET) は国連西サハラ住民投票監視団(MINURSO)に匹敵する。
(3)東ティモールに酷似してきた西サハラ住民投票の前夜:
「脱植民地化を目指す国連主導の住民投票は、東ティモールで成功を見たが、その後、国連懸案の植民地は放置されたままだ」と、西サハラ難民政府は<西サハラ住民投票実現>を、国連に急かし続けている。
東ティモール住民投票を成功に導いた大きな要因は、当時、占領支配していたインドネシアの民主化運動で政権が崩壊したことにある。現在、西サハラを占領支配しているモロッコでも、民主化運動が始まった。しかし、西サハラ難民政府はモロッコ民主化運動に関してまだ正式声明を出していない。モロッコ王国がこれまで、「西サハラ民族はテロリスト。西サハラ難民キャンプはテロの温床」と、嘘の汚名を着せようと画策してきたからだ。モロッコ民主化運動に対してもモロッコ王政は、モロッコ国王に対する反逆罪とか、麻薬密売とかの罪を着せようと必死になっていて、そのついでに西サハラも反テロリズムで括り、ひとまとめに片付けようとしている。モロッコ王政の狙いは見え見えで、西サハラ難民政府が警戒と注意を怠らないのは当然だ。
西サハラ難民政府は最近になって、ロシアとポルトガルに急接近を始めた。ロシアに代表部を置き、6月12日のロシア共和国独立宣言記念日には、ガリ西サハラ難民大統領がプーチン大統領に祝電を送った。ポルトガルにも代表部を新設し、左派政党や労働組合や人権団体と交流を頻繁に行っている。目標は、何と言っても元ポルトガル首相で現国連事務総長のアントニオ・グテーレス氏でしょう、、かって、グテーレス氏はポルトガルの社会党員として、カーネーション革命で大活躍した。そして、グテーレス氏がポルトガル首相だった時には、東ティモール独立運動がピークを迎え、グテーレス首相(当時)は、占領支配に固執するインドネシアに抗して、東テイモール独立運動を助けた。さらに加えて、2005年から2015年まで、グテーレス氏は国連難民高等弁務官として、西サハラ難民に接してきた。西サハラ難民政府にとってグテーレス新国連事務総長が、42年間を越した難民生活に終止符を打ち26年間待たされた国連西サハラ住民投票を実施してくれる、最高のキーパーソンであるのは間違いない。
「西サハラは遠すぎて、馴染みがない」とよく言われます。 確かに、西サハラは日本に対して地球の反対側にあります。 それでも、東ティモール独立運動を知る人は、「西サハラの置かれている状況が住民投票以前の東ティモールに酷似している」と、おっしゃいます。 状況は同じなのです。 が、日本にとってなかなか西サハラとの距離が縮まらないのは、東ティモールのように、<日本軍の占領地だった>というような、おぞましい歴史がないからかもしれません。まあ、そんな嫌な関係はないほうがいいですよネ、、
がしかし、日本は、遠く離れた南スーダンのPKOに陸上自衛隊を派遣させられました。 西サハラのPKOへの派遣を迫られたら、日本は官民あげて、西サハラにぐぐっと接近していくんでしょうか?、
WSJPO 西サハラ政府・日本代表事務所 所長:川名敏之 2017年6月14日
SJJA(サハラ・ジャパン・ジャーナリスト・アソシエーション)代表:平田伊都子
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
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