菅野完「日本会議の研究」 ― 68世代としての読み方 ―
- 2017年 7月 10日
- 評論・紹介・意見
- 「日本会議の研究」日本会議野上俊明
本書は刊行からすでに一年を経過しており、世評も定まっておりいまさら書評でもないでしょうから、世代的回顧の視点から若干の論評を試みることにします。
著者は本書を挙げて安倍内閣の憲法改正に収斂するウルトラ・ナショナリズム的政略をイデオロギー的にも人脈的にも支えているのが、「日本会議」という極右集団であることの立証に努めます。そして日本会議の中核メンバーの政治履歴をたどっていくと、1970年代前後の学生運動の高揚した時代、全共闘派を駆逐し学園正常化を果たして、一躍民族派学生運動のヒーローとなった「長崎大学学生協議会」(議長 椛島有三)に行きつくことを突きとめます。この「協議会」の主要メンバー(安東巌、椛島省三、伊藤哲夫、中島省冶ら)こそが現在の「日本会議」の司令塔を構成して自民党を改憲に駆り立てているのです。実は彼らの素性はかつての極右的カルト集団「生長の家」※の学生部隊だったということ―ーこれこそが本書のファクト・ファインディング(事実究明)の白眉のひとつをなしており、逆に彼らにしてみればどうしても隠したかった背景なのです。
※現在の「宗教法人 生長の家」は、1983年10月極右政治運動との絶縁宣言をし、カルト宗教から離脱しています。
著者は本著の結びの部分で、70年代から今日までの極右運動の流れを次のように総括的に述べています。
「しかしながら、その規模と影響力を維持してきた人々の長年の熱意は、特筆に値するだろう。本書で振り返った、70年安保の時代に淵源を持つ、安藤巌、椛島有三、衛藤晟一、百地章、高橋史郎、伊藤哲夫といった『一群の人々』は、あの時代から休むことなく運動を続け、さまざまな挫折や失敗を乗り越え、今、安倍政権を支えながら、悲願達成に王手をかけた。この間、彼らは、どんな左翼・リベラル陣営よりも頻繁にデモを行い、勉強会を開催し、陳情活動を行い、署名集めをしてきた。彼らこそ、市民運動が嘲笑の対象とさえなった80年代以降の日本において、めげずに、愚直に、市民運動の王道を歩んできた人々だ。その地道な市民活動が今、『改憲』という結実を迎えようとしている。彼らが奉じる改憲プランは、「緊急事態条項」しかり、おおよそ民主的とも近代的とも呼べる代物ではない。むしろ本音には『明治憲法復元』を隠した、古色蒼然たるものだ。しかし彼らの手法は間違いなく、民主的だ」
著者によれば、この「民主的な」手法を彼らは学園紛争のただなかで左翼運動から学び取ったのです。ナチスと違って、戦前の日本型ファシズム(天皇制ファシズム)に欠けていた「下からの運動」というアイデアを、そしてそれに必要な諸条件を学園紛争で対峙した左翼から盗み取って自分たちのものにしたというのです。著者は具体的には述べていませんが、たとえば運動の持続性と効率的な組織運営を保障する有能な事務局(書記局)の構築、思想や政策の普及と指導部の下での意思統一を保障する機関紙誌や宣伝物の発行、議会制民主主義の仕組みを利用した陳情や議会決議、セミナーや集会の開催、旺盛な宣伝活動や街頭行動等々などでしょう。
さて、私があえてここで問題にしたいのは、この右翼民族派運動の息の長さとあまりに対照的だったわが全共闘および左翼学生運動のもろさ、一過性です。私自身世代の一員としてある種の慙愧に堪えませんが、安田講堂攻防戦からあさま山荘事件にいたる政治事象は、後知恵とはいえ今日のテロリストの自爆攻撃に比すべき愚かな行為でした。解明しなければならない問題点は、ひとつにどうして初発の異議申し立ての斬新な問題意識や問題提起がやすやすと過激な暴力主義に絡め取られてしまったのか、ふたつめはあれだけ全国の学園を席巻した運動が終焉したのち、なぜ大多数のものは当時高度成長を謳歌していた企業社会へ何ごともなかったかのようにやすやすと順応し、忠実な企業戦士となっていったかということです。※
※2000年代でのヤンゴンでの経験。日本のトップ商社のあるヤンゴン支店長は、大阪市立大学(学生運動の伝統ある大学として有名)での学生運動の指導者として自分はいかに活躍したかをことあるごとに吹聴しておりました。ビジネスでの辣腕ぶりの原点が学生運動にあるといいたかったのかもしれませんが、良心の呵責とか反省とかいったものがこの人にはないのか、いつも不思議に思いました。彼の日本人会の牛耳り方は、伝え聞くかの渡辺恒雄主筆のやり方とそっくりだったので、お二人とも学生運動を通じて権力行使の仕方とその面白さに目覚めたのだと理解できました。
68世代が欧米で同時的に「反乱」を起こし、まだ戦後の繁栄期にあった資本主義世界を震撼させたのでしたが、おそらく日本のように運動の退潮の度合いが著しく、大学に荒廃の爪痕しか残さなかったのは珍しいでしょう。歴史的健忘症、思想的無節操とかいうのは、初発の学生運動が既成世界に突きつけた批判だったはずですが、まさにブーメランとなって自身に還ってきています。余談ですが、ドイツでは今日なおリープクネヒトやローザ・ルクセンブルグを追悼し支持するデモが毎年それぞれ数百人規模で行われています。対して日本ではリープクネヒトやローザどころか、マルクスすらもが死んだ犬として扱われているのがアカデミズムの現状でしょう。リープクネヒトやローザ・ルクセンブルグに固執する一部のドイツ人のアナクロニズムを嗤うのは簡単です。しかし私はそこに哲学的国民としてのドイツ人の思想的矜持の真骨頂を見る思いがするのです。思想的マイノリティであることを怖れず、誇りをもっているのです。たしかに「スパルタクス・ブント」の政治的敗北が、リープクネヒトやローザ・ルクセンブルグの思想のすべてが破産したことを意味するものではないでしょう。現に世界的にフロンティアの喪失と資本主義の行き詰まりとの関連が問題になっており、ローザの「資本蓄積論」の再評価の機運が高まっています。
日和見主義とはよくいったものです。日和の加減をみて、厚着にするか薄着にするか、自由自在、ヘーゲルやマルクス仕立ての服は流行おくれなのであっさり脱ぎ捨てる――十数年ぶりで帰国し、大学に残ったかつての研究仲間と再会して目の当たりにした光景です。ヘーゲルのaufheben(アウフヘーベン 止揚)という概念は、思想の断絶と継承の在り方の機微をよく説明するものです。ある時代の思想が次の時代の思想によって乗り越えられていく場合でも、前者のうちにある普遍的契機は後者の一部として取り込まれ、その有機的な一部分として機能し続けるということでしょう。マルクスによってフォイエルバッハのすべてが乗り越えら破棄されたわけではなく、たとえば他者(彼、彼女)を手段視する物象的な商品世界において、他者に還元されない「我と汝」という愛の関係を強調するフーバーらの思想のうちになお生きているといえます。
安易な思想的清算に陥らないためには、思想の初発の受容にあたって、一方で客観性を見失わないためにその思想に必要な距離を取りつつ咀嚼すること。そのうえでたんなる客観的対象的理解にとどまらず、自分の生き方に関わるものとして主体的契機を重視すること。内面的な確信になるまで突き詰めて考え、生き方の方法的態度として身に付くまで生活の中で思想的反復を行なうことでしょう。当時戦後思想としていくらか余命を保っていた実存主義も、ユーロ・コミュニズムとして蘇生しつつあったマルクス主義も同じように実践的契機、主体的契機を重視したはずでしたが、残念ながら記憶力中心で余裕のない日本の教育システム、受験制度のもとでは、環境からの自立を促す自我形成が十分でないため、両思想の趣旨を十分くみ取ることができなかったのではないでしょうか。※68世代の反乱とは、ベトナム戦争への高揚する反戦機運を触媒に、時の高度経済成長の物質主義への懐疑や戦中派世代との世代間闘争をベースにしながら、急膨張した団塊の世代に強いられた過当競争に対する不満、フラストレーションの爆発ではなかったかと思います。しかしわれわれの貧弱な政治的教養は、レジスタンスを持続可能なものとする方法論に欠けておりました。
※大学に入って驚いたのは、サルトルの紹介者翻訳者として有名な仏文学者が、実はサルトルとはほとんど無縁の思想の持ち主であると先輩から知らされたことでした。学問の客観性に名を借りた思想と人格の乖離に対する異議申し立てが、学園紛争のひとつのファクターであったように記憶します。
本題に戻りましょう。著者によれば、「生長の家」の原理主義グループは、半世紀以上にわたって保守政治に影響を及ぼし続けてきました。しかし思うに彼らが市民生活の実態と市民意識から遊離している点では、一揆主義的急進的学生運動と同じだったはずですが、ではどこが違っていたのでしょうか。本著の記述をもとに考えれば、彼らの運動の持続性が世俗的な政治イデオロギーにではなく、カルト的宗教性に由来した点でちがっていたのです。つまり「生長の家」教祖たる谷口雅春という宗教カリスマへの絶対的帰依こそが、彼らの運動エネルギーのもとだったのです。政治思想の時代性・相対性に比べれば、宗教的信念の力というか、カルト的狂信性は比較にならないほど強固であったのでしょう。ただカルト的系譜でいえば、「生長の家」は1930年代からの歴史をもつ古手の宗教です。オーム真理教のように、資本主義の閉塞状況からくる若者の不安や焦燥を肥やしに急膨張したわけではありません。彼らが巧みだったのは、神社本庁、霊友会、佛所護念会教団などの明治から続く古い宗教組織やカルト的新宗教と連携し、一つの連合体に束ねて政治的圧力団体としてフルに動員し活用したということだったと著者は述べます。また左翼に学んで、日本全国の地方議会への意見書や請願を採択させ、地方から中央へ、下から上へという運動手法をとって行ったこと、こうした運動の最大の成果が「元号の法制化」実現だったそうです。
もう一度左翼運動の話に戻ります。日本ではなく西独の話ですが、かの地でも1968年前後学生反乱は、一方では日本と同様テロリズム集団である西独赤軍「バーダー・マインホフ・グルッペ」を結成して武装闘争にのめり込み自滅しました。しかしその他の極左グループは方向転換し環境保護やフェミニズムなどの社会運動として生き残り、政治政党「緑の党」に合流、市民社会の中で確固として政治的地歩を築きました。1948年生まれのヨシュカ・フィッシャー(元外相)の名は、68世代の象徴的人物として忘れることはできません。高卒の学歴しかなかったフィッシャーは、欧州第一の哲学者として名高いユルゲン・ハーバマスの授業に潜り込んで聴講したというエピソードをもちますが、ともかく街頭の暴力闘争の闘士から、やがて「緑の党」の議員としてジーンズにスニーカーという出立で初登院し世間をあっといわせます。それから社会民主党との連立政権になってからは外相ポストにつき、一時は次期首相の呼び声も高かったのです。※
※海江田万里氏と我々は当時構造改革派系セクトで行動を共にしていました。彼はその後民主党の党首にまで上り詰めますが、それはフィッシャーらのように68反乱の思想を何らかの形で受け継いで地位に就いたのではなく、68反乱とはおよそ無縁な政治思想に転向することによってそうなったのです。この点に日独の違いがよく表れています。
また西独の68世代は、他の先進国と共通のベトナム反戦運動に力を注ぐとともに、ナチスの戦争責任問題でも新境地を拓きました。68世代の親たち、つまり一般の戦中派世代の人間があのときどこにいて何をしていたかを問いかけることによって、ナチス支配を下支えした個々の市民たちの責任を明るみにしたのです。ドイツ人はワイマール共和国という民主主義を土台に国民の自由選挙による選択としてナチズムを選び取っただけに、有権者一人一人の責任は重いという歴史的事実に対応した問責の仕方だったといえます。
こうした社会運動の実績の上に立って、1985年西独大統領ヴァイツゼッカーの大戦終結40周年記念演説の「過去に眼を塞ぐものは、現在に対しても盲目である」という言葉が生まれたのです。「過去の克服」と「記憶の文化」を奨励するドイツと、過去をいっさい不問に付す「忘却の文化」の日本との違いに、それもこれも彼我の68世代の力量の差を思い知らされ、忸怩たる思いに駆られるのです。
いずれにせよ日本の学生運動家たちは、市民社会のなかでドイツの様な運動の発展形態を見出すことができませんでした。学生活動家が青年同盟のような政党の下部組織を経て、政党の幹部に成り上がる例には事欠かなかったものの、戦後革新政党といわれる政党組織が、市民社会の中で運動と組織化のモデルを構築できたかといわれると、今日に至るまで必ずしもそうではなかったのです。社会党は地方議員や国会議員の後援会組織は地域にあっても、大労組中心の議員政党という基本性格のため地域支部を持ちませんでした。社会党のシンパや提携関係にある生協組織などが住民運動に取り組むことはあっても、或いは議員が住民から陳情や請願を受けて議会や行政へ仲介し実現を図ることはあっても、政党として方針を持ち直接関与することはなかったのです。
共産党は細胞と呼ばれた時代から地域支部はありましたが、直属の上級機関への従属度が高く、地域で相対的に独立した政治単位として十分機能してはいませんでした。地域支部は男性が少なく、選挙や機関紙の配達集金に精力を使い果たしていたので、地域特有の課題を拾い上げて取り組む余裕も能力もなかったのです。じつはこの問題は共産党の組織の在り方について原理的・歴史的な検討課題となってきました。かつて「スモレンスク文書」※の開示から明らかになったのは、スターリン時代ソ連では地域の下級組織は中央組織への従属度が高く、次から次へと降りてくる指令をこなすのに精一杯で、地域独自の政治・経済・社会の課題の解決に自主的に取り組んだりする条件が与えられず疲弊していたことでした。住民の要求と切り結んで改革のために闘うのが前衛党の役割のはずでしたが、あり方の実態は逆でした。地方・地域の党組織はやむなく中央から降ろされる過大な目標(収穫量や生産量、供出量など)達成を住民に押し付け、反発を買うために説得的合意的手法ではなく、ますます行政的・強権的な手法に頼るようになり、農民らの離反を招いていたのです。
いずれにせよ、戦後なおコミンテルン~コミンフォルムの影響下にあった日本共産党は、ロシア革命型の動乱モデルからの脱却が遅れました。後発資本主義国であり、市民社会が未成熟だったという現実に対応した革命戦略だったといえばそうなのですが、しかし今日なお市民社会のただなかに運動と組織の拠点を築く政党の在り方には十分なっておらず、労働組合運動も後退したなか絶えずジリ貧化との苦しい闘いを強いられています。
さらにいえば、「鉄の規律」や「一枚岩の党」という多分にスターリン的なバイアスがかかった在り方からは脱却したにせよ、しかし一般論として上意下達は中央集権的党組織の宿命であり、それに代わる有効な新しい組織原理を世界の革命・革新運動はまだ発見しえていないのではないでしょうか。
※スターリン時代のソ連内部は厚い秘密のベールに包まれていて統治の実態はなかなか分かりませんでした。ところが1941年6月ナチスの電撃作戦が開始されましたが、その進軍スピードが速すぎてスモレンスク州の党組織は文書類を処分できないまま退却したので、ナチスの手にそれらの文書がごっそり落ちたのです。
では、日本には多様な住民要求を汲み上げて長期に継続した市民運動体は存在しなかったのでしょうか。私の知る限りでは「練馬母親連絡会」(立教大学共生社会研究センターに資料あり)という運動体が三十年近くにわたって運動を継続し、革新区政(1973~1987)を支える重要なエージェントとなっていました。子供たちにポリオの生ワクチンを接種させる要求運動から始まったと言いますから、昭和一けた後半生まれの世代が中心だったのでしょう。一人一人が自立した地域運動のリーダーであり、出るも出ないも自由な月例会で情報交換や相互助言を行うものの、中央的な司令塔をもたない運動体でした。個々人のレベルでは政党員も少なからずいたでしょうが、会の運営は政党からはまったく独立しておりました。保健衛生、医療、教育、反戦平和、憲法擁護、障害者運動、まちづくり運動など高いレベルの創意工夫と柔軟な発想が必要だったので、たとえ政党の地区組織が介入しようとしても実質の指導は不可能だったでしょう。また「母親連絡会」はその指導的メンバーを教育委員会や都市計画審議会に送り込み、当時の革新区政に影響力を一定行使しておりました。有力メンバーがコミットした放射35号・36号道路建設に伴う小竹向原のまちづくりは、住民参加の画期的なモデルとなり、まちは現在ガーデニング・シティのすばらしい景観を呈しています。役所は住民参加を煩わしいと感じたでしょうが、結果としてそれを通じて出来上がったまちは品格が数段上がり、路線価も上がることで見返りは十分あったのです。いずれにせよ、当時の練馬区政の標語である「緑に囲まれた市民意識の高いまち」は、「連絡会」が主導して生まれたものでしたが、行政の指導理念としての実質をもっていたのです。
「連絡会」は街頭で宣伝したり、チラシを配ったりする左翼的な運動の手法をとらず、グループを単位とする小会議が基本でした。固定した指導部といわれるものもなく、全員がフラットな関係でした。ただこの組織形態には弱点もあります。30年以上継続したにせよ、固定した事務局や機関紙(誌)がないため、運動の蓄積や次世代への継承が困難だったことです。一人一人が意識レベルの高いインテリだったせいでしょう、事務局の運営や機関紙の発行といった雑務をともなうやや泥臭い仕事は苦手だったのかもしれません。
当時練馬は「練馬格差」と言われたように23区内で最も生活基盤整備や保健医療のネットワーク形成が遅れた地域でした。したがって住民の間で社会的インフラへの要望が強かったことも「連絡会」が活躍する条件となったのでしょう。しかしたとえ時代が変わっても住民要求がある限りは下からの改革運動は成立するのであり、―私自身は中途半端なかかわりだったので偉そうなことは言えませんが―、日本のいずこでも新規まき直しは可能であるはずです。※そのためにも過去の市民運動を総括し、小会議、小グループなどの自主的運動体の無数の立ち上げ、コミュニケーション能力を培って社会連帯を強化するなど、成功モデルを造形して誰にでも学べるようにしておく必要があるのでしょう。
※2005年ころの8月、ミャンマーから一時帰国した折、たまたま見たテレビに地域の平和運動をNHKが紹介していました。よく見ると、そこは私たちがかつて原水爆禁止運動をやっていたK町でした。当時まちの大通りを歩きながら、ここでいつか平和行進ができるようになればいいと思っていたのですが、テレビはまさしく親子たちの平和行進を映していたので、びっくりもし、感動もしました。
長い回り道になりました。そろそろ結論に入りましょう。著者の現代社会への診断は、「社会そのものが右傾化した訳ではではない」、「各種の世論調査が示すように、国民の大多数は改憲の必要など感じていない」というものです。確かにその通りでしょう。「日本会議」のカルト性に淵源するアナクロ二ズムは、あまりに反動的過ぎて市民社会の中の多数市民の支持を取り付けることも、また国民を同質化するイデオロギーたりえないことも分かっています。しかし他方国民は戦後民主主義下の経済体制がもたらした果実をそれと自覚せぬままに享受しつつ、私生活主義のタコツボの中でもがき苦しんでいるようです。強力な野党勢力を欠いていることや、市民社会のなかに要求の実現と参加を志向する自発的諸団体が希薄なために社会連帯が形成されず、不満や批判が結集軸を見出し得ず拡散している状態でしょう。
こうした状況のとき、もっとも警戒すべきはポピュリズムの抬頭でしょう。大阪でのデマゴーグ政治家による「維新の会」の成功は、強い警鐘でした。阪神地域の経済的地盤沈下にともなう将来展望の喪失、雇用の不安定化や非正規化、AIによる効率化に象徴されるハイテクノロジーの発達、そこから広がる若者の孤立感・疎外感、社会的絆の喪失感、閉塞感等に対し、デマゴーグ政治家が提示するスローガンがそれらを打開するかに映じるとき、青年層は一気に動き出すでしょう。そして「日本会議」との提携成って「日本会議」のもつ「下からの運動」のノウハウが維新的組織に伝授されれば、危険極まりないことになります。
とりあえず都議選の自民党大敗北で確かに潮目が変わりつつあるようです。今までばらばらであった市民組織、政党、職能団体、労働組合、マスメディアなどが横断的に連帯・連携し、安倍内閣=「日本会議」への政治的包囲網を構築して絞り上げて行くことが可能な雰囲気になりつつあります。大臣の資質も能力もないと酷評される稲田大臣を安倍首相がかばい続けるのは、大臣の色香に首相が魅せられているからではなく、稲田大臣が安倍内閣を中枢で支える「日本会議」人事であるからなのです。彼女の更迭は「日本会議」にすれば政治的敗北とみなされ、それだけ改憲の道が遠ざかることを意味するので絶対に許容できないのです。「日本会議」人脈を守ろうとすると世論を敵に回すことになり、内閣の足場は揺らぐのです。安倍首相のジレンマはますます深まりそうです。
2017年7月9日
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔opinion6793:170710〕
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