断想・春を前にして
- 2018年 3月 3日
- スタディルーム
- 子安宣邦
このところネット上にやたらに文字の打ち間違い、転換間違いを含んだ文章を私は流したりしている。だがそれは私の粗忽さだけに由来するのではない。私の眼の衰えがもう隠しようのない程であることを物語るものであるのだ。白内障の手術などは日帰りですむことなのだから、さっさと医者に行けと、私の臆病と怠慢を叱るように友人たちにいわれて、今朝、意を決して医者に行った。せっかく3月の講座を休みにしたのだから、この時期を逃してはならないと私なりに考えてもいた。
登戸の隣りの宿河原の眼科医に行き、一時間ほど待って検査を受けた。検査の結果、「白内障であることに間違いはない。しかし白内障は病気ではない。加齢の結果であって、これによって失明することはない。どうしますか、手術をしますか」と女医さんにいわれて、私はきょとんとしてしまった。てっきり私は「白内障が進んでいる。即刻手術せよ」といわれるとばかり思っていた。しばらく考えてから、「私は物書きの仕事をしているので、このままでは具合が悪いので手術することにしたい」と答え、手術の手続きをすることにした。
私は来週にでも手術はできると思っていたが、それは大きな間違いであった。手術の日程は早くても4月か、5月だという。それまでに種々の検査をするという。やれやれ、手術そのものは日帰りなのだが、それにいたるまでに2ヶ月を要するのだ。そういうものなのか。これで3月の春休みの計画はまったく狂ってしまった。私は早く手術を済ませ、3月は休養もし、4月の新学期に向けて内外両面で英気を養いたいと思っていたのである。
私の思想史作業はいま転換の時期を迎えている。この数年来の課題であった『仁斎論語』も書き終え、津田の「国民思想論」も最終段階にきている。それに私はこの2月に85歳になった。「歴史と世界」についての私の思想史的解読作業も恐らく最終段階に入っているに違いない。どうすべきか。
私は今の自分の立ち位置がはっきり見えなくなったときには、衝動的に本を買い込み、書棚からもこれをと思う本を取り出して目の前に置いたりする。私はそれらによって方法論的に、また思想的に自分の立ち位置と進むべき方向が再確認できれば、前に向かうことができる。私は先週来アマゾンで中古・新刊本を買い集め、すでに持つ本とともに目の前に並べだした。私は治療の終わったすっきりとした眼でこれらを読み、自分の位置の再確認とともに、すっきりとした姿勢で4月の新学期に臨みたいと思っていた。
だがこの3月も私の目は霞のかかったままであるようだ。仕方がない、この目で手探りのように読むしかない。本のタイトルがこれは自分のことだと思って大金を払って購入した本は、5頁ほど読んで、これ以上は無意味と思って止めてしまった。だが今日はハミット・ダバシの『ポスト・オリエンタリズム』の論文「私はサパルタン主義者ではない」を読んで時間の経つのを忘れた。気がついたら夕方の5時であった。いつもは4時にジムに行くのだが、それを忘れて読んでいた。久しぶりの体験である。サイードの反抗的知識人の位置を継承しながら、サイード後の「中東ー西洋」関係を問い直すダバシの論文は私の「東アジア(中国ー日本)ー西洋」という複合的関係の問い直しに大きな示唆を与えてくれた。
春を前にして、霞のかかった目をもって私の立ち位置の再確認作業はぼちぼち始められている。(18,02,27)
初出:「子安宣邦のブログ・思想史の仕事場からのメッセージ」2018.02.27 より許可を得て転載
http://blog.livedoor.jp/nobukuni_koyasu/archives/75120932.html
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔study941:180303〕
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