日大アメフト部での出来事は、旧陸軍内務班での虐め
- 2018年 5月 28日
- 評論・紹介・意見
- 熊王信之
昨今の報道では米朝会談をさて置いて、第一面に踊る記事は、例の日本大学と関西(かんせい)学院大学とのアメフト試合中に生起した反則行為に関わる事件です。
詳細は、此処で書くまでもありませんが、試合中に何度もラフプレーが見られたにも拘わらず、審判と日大の監督とコーチが、何故試合中に注意しなかったのかが理解出来ません。
試合の録画を観た印象では、反則行為を行った選手のみに責任があるようには思えませんでした。
事実関係は、警察の調べに依りこれから明らかになるので、此処では触れませんが、何故、こうした事態になったのかは、大凡の見当がつくようにも思えます。
日大を大日本帝国陸軍に置き換え、監督を下士官の軍曹、コーチを古兵の上等兵、反則行為を行った選手を新兵の二等兵と見立て、アメフト部を内務班と想定すると、旧軍の新兵いじめと同等の構図が見えて来るのです。
当時は、大日本帝国憲法下にあり、「国民」は存在せず、天皇以下は、全て「臣民」でした。
民草から「一銭五厘」で徴兵した新兵をしごきにしごき、何でも鉄拳制裁を加えて問答無用に上官の差配に従い、己の命を差し出す肉弾に仕立て上げるのが当時の内務班でした。 陰湿な虐めは通常のことであり、鉄拳制裁は新兵を鍛える目的で日常的なものであったそうです。
その昔の映画、「真空地帯」に描かれている内務班は、設定が敗戦の気配が濃厚な時代のものであるためか、聊か軍紀が荒んだ風情がしましたが、従軍経験のあった亡父に依りますと、映画の中の内務班の描き方が弱々しく、商店の丁稚虐め程度に見えたそうでした。
旧陸軍の鉄拳制裁は、「親切」にも歯を食いしばれ、脚を踏ん張れ、と怒号した後に平手で思い切り殴られるので、言われたとおりに準備しないと歯が折れて、倒れる、とのことでした。
兵隊は、絶対的な上官に盲目的に服する存在たるべく鍛えられ、反抗する意思は徹底的に挫かれるのでした。
亡父は、新兵教練の教官であった軍曹には、「教練で死ねば戦死じゃ。」と怒鳴られ、銃剣術の指導では、死ぬ気で軍曹につきかかり倒してから、却って目を掛けられたそうですが、そうではない新兵は、徹底的な教練が為されたそうでした。 と此処まで書き、日大のアメフト部でも同じ、であったのかも、と感じ入ったのでした。
そして、昔、何度も繰り返し読んだ、藤田省三著「天皇制国家の支配原理」の一説。
「天皇は道徳的価値の実体でありながら、第一義的に絶対権力者でないことからして、倫理的意思の具体的命令を行いえない相対的絶対者となり、したがって臣民一般はすべて、解釈操作によって自らの恣意を絶対化して、これ又相対的絶対者となる。ここでは、絶対者の相対化は相対的絶対者の普遍化である。」で始まる一説が頭の片隅で響くのです。
日大のアメフト部での出来事は、この国では、他人事ではありません。 1945年の夏に、東大法学部の宮沢俊儀が看破された「八月革命」が生起し、天皇が主権者たる存在では無くなり、臣民から国民になった民草が主権者になった今日でさえ、旧陸軍内務班のような虐めがあり、社会的に許容されない行いを仕出かす「新兵」が居たのですから。
アメフト部の一選手のみならず、我々国民一般も過去の因習を断ち切り、この国の憲法が我々国民に委ねた使命を自覚することが求められているのではないのでしょうか。
即ち、「第97条 この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。」と。
この一箇条は、自民党の憲法改正案では削除されてしまい、同種の定めはありません。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://chikyuza.net/
〔opinion7678:180528〕
「ちきゅう座」に掲載された記事を転載される場合は、「ちきゅう座」からの転載であること、および著者名を必ず明記して下さい。