■「明治維新」の近代・4 梅岩心学をどう読むべきなのか
- 2018年 7月 23日
- スタディルーム
- 子安宣邦石田梅岩
形は直ちに心と知るべし
ー梅岩心学をどう読むべきなのか
「今日覚メテ見レバ我ハ何ト思テ丹波ノ不自由ナル山中ノ百姓ノ愚母ガ胎内ニ宿リシコトヲ忘レタリ。ソレユエニ親父ヤ母ニ問ント思ヘ共、死シテ居ザレバ問コトナラヌ。ナラヌコトヲ為ント思フ心ナケレバコレモヨシ。」
『石田先生語録』巻三
石田梅岩(1685−1744)とはすでに遠い過去の名前になっている。梅岩とともに彼の創始した心学もまた忘れられていった。江戸の中後期、心学講舎という庶民教育の場が江戸・大坂・京都など近世都市の諸処に設けられ、道学という日常道徳が逸話を交えて平易な言葉で語られていったのである。「ならぬ堪忍、するが堪忍」など道学講話が語り出した格言は、その出自は忘れられても、いまになお記憶されている。また飢饉や災害時に心学講舎は庶民救済のセンターでもあった。この心学運動は、国民教育が近代国家の中心的課題となるとともにその生命を終え、忘れられ、ただ教育史の中に記されるだけの近世の教育的事業となった。この心学とその運動の創始者が石田梅岩である。
梅岩は貞享2年(1685)、丹波国桑田郡東懸とうげ村の農家の次男として生まれた。生家は当時の本百姓といわれる標準的農家であった。名は興長、通称は勘平といい、梅岩は号である。当時の農村の慣習によって次男である梅岩は十一歳で京都の商家に奉公に出された。だがその商家の経営が悪く、奉公人へのお仕着せもできない状態であったという。梅岩はそれに堪えて勤めていたが、事情を知った父親が梅岩を呼び戻した。その後、二十三歳の年(宝永4年)再び京都に出て上京の商家(呉服商)黒柳家に奉公することになった。商家への奉公は十代の丁稚見習いに始まり、手代・番頭に進むのが普通であるが、二十歳過ぎで新たな商家での奉公を始めた梅岩はやや異様である。梅岩の心学を継いだ手島堵庵の筆になる『石田先生事蹟』は、「先生廿三歳の時、京都に登り、上京の商人何某の方へ奉公に在り付き給へり。はじめは神道をしたひ、志したまふは何とぞ神道を説き弘むべし。若し聞く人なくば、鈴を振り町々を廻りて成りとも、人の人たる道を勧めたしと願ひ給へり」と記している。堵庵が記すところには修飾があると見るべきだろうが、少なくとも黒柳家に勤めだした二十三歳の梅岩は商人としての自立とは別の志を自分の人生に見ていたことは確かであろう。その志を「神道」という言葉に重ねていっているのである。ここでいう「神道」とは、町や村を廻りながら、お札を配り、通俗の教えを人びとに説いていく神道家のそれであろう。ともあれ人に人たる道があることを教える心学者への原初的な志を、二十三歳の青年梅岩はすでにもっていたのである。これは注目すべきことである。私は近世初頭京都の商家に生まれた少年伊藤仁斎に学への志が成立した事実に驚くが、その半世紀後、丹波の農家に生まれ、商家に勤める青年梅岩に人の道を説く講師への志が成立することにそれ以上に驚くのである。それはただ奇特な志をもった青年が一八世紀初頭の京都に生まれたことだけを意味するのではない。やがて広汎に展開される心学運動を支える近世庶民の人間的な自立への要求が、梅岩における「人の人たるの道を勧めたし」という志をもたらしているのである。
私がここで見ようとするのは、近世庶民の人間的な自立への要求がどのような言語をもって語られていったかである。それは容易くいわれる言語ではない。「心ノ工夫」という精神の苦闘を経ていい出される言語である。梅岩たちが践まざるをえなかったこの内面のプロセスに思い入ることなくその言語を見るものは、ただそこに分際に安んぜよという体制従属の意こころをしか読まないだろう。梅岩の言語にそれをしか読まないものは、現代のわれわれがより重く、より困難な社会的制約・差別の中にいることを、あるいはその差別に加担してしまっていることを知らないのだ。
1「商人に商人の道あることを教ゆるなり」
石田梅岩が京都車屋町にてはじめて講席を開いたのは享保14年(1729)である。その年、年表によれば幕府は米穀類の買い占めを許可している。それは、体制の建て直しを意図して享保改革を遂行する幕府の米価調整のための一つの施策であった。「席銭入り申さず候」という門札を掲げて梅岩が講義を始めたのは、その体制自体に根ざす財政困難を打開するための苦慮が様々に幕府によって払われている時であった。その前年の享保13年、「治ノ根本ハ兎角人ヲ地ニ付ルヤフニスルコト是治ノ根本也」(『政談』第一)と、土地を離れて「旅宿ノ境界」にあることに由来するという「武家ノ困窮」の救い難い現状に対して、封建体制の理念とそれに基づく制度の確立を高調した荻生徂徠が没している。しかし徂徠による封建的理念の高調と激しい現状批判のかげには、やがて老荘的無為を次善の策として容認せざるをえない太宰春台の経世済民の治術への無力感が漂っている[1]。そしてそれは他面、この封建体制内における商人の、まさしく必要悪としての存在の比重の大きさを示している。この商人の存在を、社会における必要な一契機としてとらえることは、梅岩をまたずとも多くの儒者によってなされているが、吉宗の侍講であった室鳩巣によっても、「商人は天地の偏倚をたすけ、有を省て無を補ふ、余り有を取て不足に与へ、総じて天下の財を遍して、天下に其化育を蒙し」(『不亡鈔』巻之三)めて「天下の用」を達するという農工とともに必要な契機なのだと表現されている。このような時代を背景にして石田梅岩がその心学において意図したのは、「我教ユル所ハ商人ニ商人ノ道アルコトヲ教ユルナリ」[2](『都鄙問答』巻之一)ということであった。もはや社会において無視しえない、決定的な比重を占める商人に商人であることで人倫世界の構成者であることを教えるというのである。
しかしながら前述の米価調整や享保4年の相対済あいたいすまし法に見るように、享保改革を貫くのは幕府財政と旗本御家人の困窮を救済する意図であり、そのために幕府はその強権によって物資の需給、物価の変動に干渉したのである。また株仲間を通して商工業者を統制し、あくまで商工業を封建的社会体制内に維持しようとしたのである。それゆえに、社会的機能において本質的に等価だと見る傾きをもつ士農工商という職分観は、同時に踰えることの許されない〈分〉としての固定的な社会秩序をも表現せざるをえない。梅岩が「商人ニ商人ノ道アルコトヲ教ユルナリ」と、商人の倫理的主体の確立を意図するとき、彼の負う時代の現実がこのようなものであるとすれば、彼の意図の遂行は決して単純にはなされえない。存在の倫理的反省は、社会の全体性との連関を不可分に前提する。ところで商人の存在のホリゾントが政治的支配によって規定されているとき、そしてその規定を〈天命〉として受容しようとするとき、社会の全体性は心構え論ないし心性論の境位でとらえられざるをえないだろう。梅岩の思想が〈心学〉と呼ばれる所以である。私がここに見ようとするのは、この〈心学〉としてはじめてなしえた商人の人間的価値主体の確立である。
2 「市井ノ臣」
梅岩が『都鄙問答』で商工業者を「市井ノ臣」ととらえたことはよく知られている。近世社会における町人の思想を問題にする場合にほとんど必ず引かれる言葉である。今ここでも冗長にわたるが『都鄙問答』のその箇所を引用しておこう。
「商人皆農工トナラバ財宝ヲ通ス者ナクシテ、万民ノ難儀トナラン。士農工商ハ天下ノ治ル相たすけトナル。四民カケテハ助ケ無カルベシ。四民ヲ治メ玉フハ君ノ職ナリ。君ヲ相ケルハ四民ノ職分ナリ。士ハ元来もとより位アル臣ナリ。農民ハ草莽そうぼうノ臣ナリ。商工ハ市井ノ臣ナリ。臣トシテ君ヲ相ルハ臣ノ道ナリ。商工ノ売買スルハ天下ノ相ナリ。」(巻之二)
梅岩は士農工商をいずれも〈臣〉ととらえ、商人が臣として相事するのは〈天下〉であるという。そしてさらに、士が君より受ける俸禄に対して、「商人ノ買利モ天下御免ゆるシノ禄ナリ」という。商人が〈臣〉として〈職分〉の遂行者であるかぎり、士農工とともに商人は社会的存在としての自らの位置を主張しうるということを、この梅岩の言に読みうるであろう。しかし私が先ずここで注目するのは、商人を武士になぞらえて「市井ノ臣」ととらえる〈臣〉の意味である。
梅岩は武士の主従関係における臣を規定して、「臣ハ牽ナリト註シ、心常ニ君ニ牽ひかルルナリ」(巻之一)という。主従関係において、一切の行為と心情とを主君に収斂させる忠誠ないし献身の主体を〈臣〉ととらえるのである。そして梅岩は、「総ジテ重モ軽モ人ニ事ル者ハ臣ナリ」(巻之四)と、武士的な献身の〈臣〉を一般化し、商人をもそうした〈臣〉でとらえるのである。そして梅岩は、「総ジテ重モ軽モ人ニ事ル者ハ臣ナリ」と、武士的な献身の〈臣〉を一般化し、商人をもそうした〈臣〉でとらえるのである。ところでこのような梅岩の〈臣〉の規定と、「君ニ事つかえまつルヲ奉公ト云、奉公ハ我身ヲ君ニ任セテ忘レタルナリ」(『石田先生語録』巻八)という献身の没我性の強調や、「万事ニ付速カニ行ヒ難ヒハ死ヲ重ンズルニヨル。死ヲ軽ンジ死スベキ時来ラバ速カニ死スベシト平生ニ決定セバ、十ガ五ツハ行ヒ易キコトアラン」(『語録』巻十)という死生観とを併せて考えるならば、われわれは、梅岩が〈臣〉の語に内包させているパトスが、意外に『葉隠』等がもつ武士道のそれに類似していることに気付く。
ところで主従というパーソナルな関係に拘束され、それに情誼的に執着し続けることによって生ずる、あの『葉隠』の諫争の能動性[3]を、梅岩の〈臣〉の把握にも見出しうるのだろうか。梅岩もまた非常にしばしば諫争を強調する。「親ニ事ルハ仁ノ勤ナリ。然レバ度々諫レ共聞ズト云コトハ無キコトナリ。身ノ死スル時ハヤム。死ザル中ハ諫ムルナリ」(『語録』巻五)といい、あるいは「臣ノ諫ヲ受入ルヲ真ノ君ト云ベシ」(『都鄙問答』巻之一)といったりするところを見るならば、梅岩においても諫争を伴いうる没我の献身性が〈臣〉であることの本質的な規定になっていることを知るのである。
このように梅岩は武士的主従関係における献身的な〈臣〉のあり方を一般化し、「総ジテ重モ軽モ人ニ事ル者ハ臣ナリ」と商人の実践的な主体のあり方をも〈臣〉ととらえるのである。そしてかく商人を〈臣〉ととらえることによって、献身的な臣の能動性と倫理性とを商人的主体に保持せしめようとするのである。「我身ヲ修メ役目ヲ正フ勉メ邪ナキハ君ヘノ忠臣ナリ。何ゾ不忠ノ士アランヤ。商人モ二重ノ利密々ノ金ヲ取ルハ先祖ヘノ不幸不忠ナリトシリ、心ハ士ニモ劣ルマジト思フベシ」(同上巻之二)と梅岩はいう。武士的主従関係における〈臣〉のあり方を標準として、商人の主体をも〈臣〉ととらえるとき、その語のもつ意味とパトスとを以上のように見てくるならば、いわゆる「知足安分」という自己の分際に安住せる消極性とは異なる調子をもった職分観が浮かび出てくるだろう。もとより梅岩も自己の分限を踰えずに、家業にて足ることを知れとしばしば説いている。と同時に上に見るように、職分への積極的な姿勢が梅岩にはある。いまここで私が注目するのは、商人の実践的な主体を〈臣〉ととらえることに見る能動性である。
3「天下ノ人ハ我ガ奉禄ノ主」
武士的主従関係における献身的な〈臣〉と類比的に、梅岩は商人の実践的な主体をも〈臣〉としてとらえる。だが前者における〈臣〉の献身は、人格的結合を通して家臣の心情に沈殿せる濃密なパトスを基盤にしている。当時の商人の実践性を支配する大きな要素である家職の意識、すなわち家長と家族、主人と奉公人という人格的結合を通して父祖の家業を守ろうとする擬似武士的主従関係を考えるならば、ここでも献身の〈臣〉のパトスが有効に働くことは論を俟たない。そして商人の献身が問われるとき、〈家〉という閉鎖的な人倫的結合におけるそれが常に原型的にとらえられていることは否めない。しかし梅岩の思索の重要なモチーフは、商人を「市井ノ臣」とすることによっても知りうるように、商人の実践を社会の全体性のうちに位置づけようとすることであり、その限りで商人の実践の内的動機を、梅岩の心学は問題とするのである。梅岩は商人としての献身の対象を「天下ノ人」としている。
「商人田畑ハ天下ノ人ニ有リ、天下ノ人ハ我ガ奉禄ノ主ジニ有ラズヤ。武士ハ奉禄ノ君ニ命ヲ舎すツ。商人ノ我ガ奉禄ノ主ノ心ヲ知ラバ奉禄ノ主天下ノ人モ心同キ故ニ一銭ヲ惜ム心ヲ知テ、其替リニ売渡ス代物ヲ大事ニカケテ少シモ麁相ニセズシテ売渡サバ買人ノ惜ム心自ラ止マン。自ラ止マバコレ天下ノ心同キ事ヲ知ルニアラズヤ。天下ノ人ト同ク通用セバ天地ノ流行ト同ク相合ン。」(『語録』巻十五)
梅岩はこのように「君ニ命ヲ舎」てる武士的献身を商人の主体に転移させながら、その献身の対象を「天下ノ人」ととらえる。このような献身対象の把握や、「天下ノ財宝ヲ通用」(『都鄙問答』巻之一)するという商人の職業の本分の把握を見るとき、流通経済の進展とその担い手たる商人の動かしえない存在がその背後にあることはいうまでもない。そしてそれを背景にして、「利ヲ取ラザルハ商人ノ道ニアラズ」(同上巻之二)というように商人の営利行為の明白な容認と主張とが生じるのである。ところで梅岩はこの営利行為の主体を〈臣〉ととらえ、その献身の能動性と倫理性とをもって商人の行為の内的動機たらしめようとする。そして献身対象の「天下ノ人」とは端的に買手であるから、梅岩は、「武士タル者君ノ為ニ命ヲ惜マバ士トハ云ハレマジ。商人モ是ヲ知ラバ我道ハ明カナリ。我身ヲ養ルルウリ先ヲ疎末ニセズシテ真実ニスレバ、十ガ八ツハ、売先ノ心ニ合者ナリ。売先ノ心ニ合ヤウニ商売ニ情ヲ入勤ナバ、渡世ニ何ンゾ案ズルコトノ有ベキ」(同上)とのべ、武士を標準とする没我の献身性をもって、商人の営利行為を純化し、倫理的に正当化する。
ところで梅岩において、武士的〈臣〉に類比される商人の主体の能動性はどのようにしてもたらされるのか。しかも商人において献身対象が「天下ノ人」にと一般化し、拡散するとき、商人を〈臣〉として把握することが、果たして倫理的な正当化以上のものでありうるだろうか。さらに商人の分際を規定する政治的支配が、商人の活動を家業の枠内での勤勉主義の消極性にもたらそうとするとき、その政治的支配と交錯しつつ、どのように、商人の活動を社会の全体性の中に位置づけて、商人の能動性をもたらそうとするのか。
4 「形ガ直ニ心」
既存の社会体系における分際としての規定を、ただ単に受容することからは、商人たちは〈知足安分〉の自足性に安住するか、家業の枠内での勤勉主義にとどまるしかないだろう。たしかに梅岩も、「ココニ於テ我細民タルコトヲ得心シテ我分限ヲ知テ行フベシ。天下ノ君ノコトヲ混雑スベカラズ」(『語録』巻二)というように、分限、分際は商人の行為にア・プリオリにともなう制約である。ではそのような制約を受けながら梅岩は、どのように己れの負う〈職分〉という規定を、積極的にとらえようとするのか。梅岩は、分限ないし分際という制約を、実践的行為の踏み台としての自己制約に転化せしめようとする。梅岩の形而上学的色彩をもった「性理問答」[4]も、天命的自己として受けている一定の制約を、いかに主体的な実践的行為者の踏み台としてとらえるかにかかっている。
このような観点から梅岩の「性理問答」を見るならば、先ず気付くのは〈形〉という表現である。彼は孟子の「形色ハ天性ナリ。惟聖人ニシテ然ル後ニ以テ形ヲ践ムベシ」を彼独自に解釈しながら、「孑々ほうふりむし水中ニ有テハ人ヲ螫サズ。蚊ニ変ジテ人ヲ螫ス。コレ形ニ由ノ心ナリ。(中略)蛙ノ形ニ生レバ蛇ノ恐ルルハ形ガ直じきニ心ナル所ナリ」といい、さらに「形ヲ践ふむトハ、五倫ノ道ヲ明カニ行フヲ云。形ヲ践デ行フコト、不能あたわざるハ小人ナリ。畜類ハ私心ナシ。反かえっテ形ヲ践。皆自然ノ理ナリ」(『都鄙問答』巻之三「性理問答ノ段」)という。ここで梅岩が〈形〉というのは、彼が士農工商あるいは貴賤尊卑をも〈形〉ととらえるように、社会的存在としての人の具体性である。その存在の具体性において、その存在に求められている行為を端的になすことを「形ヲ践」むというのである。彼は自然的諸事物と同様に、自己を自然とみなしうる存在直観が、その存在に求められる行為を直截になさしめるという。梅岩が「今日我身ノアル所則天命トシル。此孔子ヲ法ニ取ユヘナリ。此義ヲ知ラバ我職分ヲ疎ニスル心有ランヤ」(同上)というのは、現にある自分を天命として自覚することが職分遂行を促すということと別のことではない。
現に一定の社会的諸条件に置かれている自己の存在を、自然的諸事物と同様に天命によってかくあるととらえるためには、自己を無にして自然と同化する内的プロセスを必要とする。梅岩のいう「心ノ工夫」である。ここに一種の仏教的な覚醒が導入される。それは現世における存在の意義を、自己否定的な存在直観によって捕らえようとする工夫である。しかし梅岩にそのような「心ノ工夫」を促すのは、死からの救済の動機ではない。むしろその存在のホリゾントをア・プリオリに規定している政治的、社会的制約である。ところで梅岩の心の工夫による覚醒とは、「自性見識ノ見ヲ離レ」て天地自然と同化することである。「ココニ至テ我ヨリ外ニ天ト云ベキ我アリヤ」(『語録』巻八)というように、覚醒の境地においては、我は天に外ならない。そして主体の能動性は、自己という意識を否定することによって、天地自然と一体化する存在直観に凝集されねばならない。
「凡テ人我がト云物ハ聖人仏モ諸道ニ於テ此ヲ嫌フ物ナレド、我レハ我ヲ以テ忠ヲ守ル主トセン。(中略)都すべテ世界ノ善事ヲ我身一ツニ合セ聚メント我ヲ立ヨ。マダ且そのうえ天地ト一ツニ成ラント我ヲ立ヨ。最上至極ノ所ニハ我レヲ見亡うしナハント我ヲ立ヨ。我ヲ立て通サデ措クマジト信心堅固ニ我ヲ立ンコトヲ守リ、我ヲ立ルニ心尽シテ忠トハ為乎せんか。」(同上巻五)
私心私欲として否定される「人我」も、自己否定による天地自然との一体化に向かう能動性として立て通されねばならない。このような自己否定と再発見のプロセスによって、「今日我心ノアル所」を天命による自然必然的な存在として知るのである。だから梅岩は「克己復礼」を彼なりに解釈して、「忽然ト目覚テ見レバ己レニ克ツトハ己レヲ忘レルコトナリ。己レヲ忘レバ忽ニ天地トナル。礼ニ復かえっテ見レバ礼トハ自然ナリ。自然ナレバ首ハ上ニアルユヘニ上トシ、足ハ下ニアルユヘニ下トシ、万事ニ渉リテ如是かくのごとし」(同上)というように、貴賤上下の別を定める礼も自然である。社会体系において一定の分際として規定される自己も、それぞれの生業を営む自己も、現にあるその〈形〉において天地であり、自然であると目覚めるのである。この目覚めに不可欠であるのは、「己レニ克ツトハ己レヲ忘レルコトナリ」という自己否定の内面的プロセスである。まさに〈天命〉としてその所以を問うことのできない社会的限定を、むしろ踏み台として現実に立ち向かう自己否定の内面のプロセスを梅岩は語っている。
「今日覚メテ見レバ我ハ何ト思テ丹波ノ不自由ナル山中ノ百姓ノ愚母ガ胎内ニ宿リシコトヲ忘レタリ。ソレユエニ親父ヤ母ニ問ント思ヘ共、死シテ居ザレバ問コトナラヌ。ナラヌコトヲ為ント思フ心ナケレバコレモヨシ。」(『語録』巻三)。そして〈天命〉として負う分際という社会的制約を問うことは愚痴である。「都すべて分を過るは皆奢り也。何ほど奢りかざるとも農人のうにんは農人、町人は町人にて等しなの踰こえらるるものにあらず。夫それをしらざるは愚痴なり」(『斉家論』上)というように、実践的主体にとって愚痴は無縁であり、分限(社会制約)を、己れの分に対応する行為を直截にするための踏み台(自己制約)にすることが求められるのである。
ひるがえって梅岩の「性理問答」という形而上学的追究の地盤を見てみるならば、「孟子ノ善トノ玉フハ是カ非カ、我性ニ合あうカ不合あわざるカト、手前ニ法ヲ求テ後ノ詮議ナリ」(『都鄙問答』巻之三)というように、それを問う実践的主体を欠いたら、「性善説」も「性理問答」も、孟子や先儒の糟を食らう文字上の議論に帰するだろうと梅岩はいう。「思慮ヲ以テ知ラルル所ニアラズ。信心堅固ニシテ、憤リヲ発シ」(同上)て見性すること、それが梅岩のいう「心ノ工夫」であろう。現に〈形〉としてある自己を、自然必然的な存在と観ずる自己否定の能動性が、その〈形〉に対応する〈則〉を没我的に遂行する主体、一個の倫理的主体を成立させるのである。
幕府財政と御家人の困窮の救済とを意図して出される倹約令は、士農工商をそれぞれ分限に応じた生活様式にきびしく規制しようとする。この上からくだされる倹約令と交錯しながら梅岩はこういうのである。
「倹約をいふは他の儀にあらず、生まれながらの正直にかへし度たき為なり。天より生民を降すなれば、万民はことごとく天の子なり。故かるがゆえに人は一箇の小天地なり。小天地ゆへ本私欲なきもの也。このゆへに我物は我物、人の物は人の物、貸たる物はうけとり、借たる物は返し、毛すじほども私なくありべかかりにするは正直なる所也。此正直行はるれば、世間一同に和合し、四海の中皆兄弟のごとし。」(『斉家論』下)。
ここには近世社会の民の分際にもゆるされた「心ノ工夫」という精神のわずかな小径を辿り行く運動によって見出された「四海の中皆兄弟」といい、四民はともに「天ノ子」という四民平等的世界がある。
[補記]
梅岩心学をめぐるこの文章は、前に報告した横井小楠をめぐる文章とともに1960年代の私のものである。正確にいえば『道徳と教育』という雑誌の110号(1967年7月)に掲載された論文「石田梅岩における職分の倫理」を基にし、その結論部分を簡略化したものである。私は同じ67年の10月に横井小楠の論文を『理想』に載せている。なぜ私はこの時期にこれらの論文を書いたのだろうか、そしてなぜいまこれらの論文をあらためて想起し、ここで語り直すことなどをしているのだろうか。
外側の事情からいえばこれらの論文は、その年、大学の助手になった私に与えられた課題に答えたものである。内側からいえばこれらの論文には、「明治維新100年」がいわれ始めていたその時期に、100年を迎えようとするわが〈維新的近代〉を読み直そうとする意図がこめられている。真の〈開国的変革〉とは何かを問いながら私は「小楠論」を書き、真の〈人間的平等〉への心学的苦闘を思いながら私は「梅岩論」を書いたのである。それから60年を経た「明治維新150年」がいわれる今日、私は60年前の拙論を引っ張り出し、読み直し、さらにここで語り直したりしている。それはなぜなのか。
和辻哲郎の『続日本精神史研究』(岩波書店、1935)に「現代日本と町人根性」[5]という長大な論文が収められている。この結論の箇所で和辻はこういっている。
「我々は町人根性の支配を見て来た。しかも我々は町人根性的でない我々の性格が事毎に発露してゐるのを見る。犠牲的態度とは死ぬことに於て生き、否定を通じて蘇るところの弁証法的態度である。個人は全体への没入によって真に個人を活かす。かかる態度の生起する場所は共同社会であって利益社会ではない。・・・かくして我々は結論することが出来る。町人根性の危険を超克するものはまさに共同社会の自覚である。我々の内には共同社会はなほ健全に生きてゐる。言ひ換へれば我々に於て『人倫』はなほ喪失せられてゐない。我々はそれを自覚に高めなくてはならぬ。」
これは町人根性(=資本主義的精神)の支配する利益社会的国家とその文明の超克を歴史的使命としてもった共同社会的国家日本の自覚を促す文章である。昭和戦前期の和辻の文章は、昭和の全体主義的国家日本の倫理学的、文化史・精神史的プロパガンダといいうる性格をもったものである。ことに『続日本精神史研究』(昭和10年)と『倫理学中巻』(昭和17年)とはその最たるものである[6]。
「町人根性といふ如きものはチョン髷とともに捨て去られたと考へられた。然るにその資本主義の精神なるものは実は町人根性と本質上異なるものではなかったのである。ここに我々は町人根性の転身が行はれたのを見ることが出来る。」
私が「明治維新100年」がいわれる時に梅岩心学をめぐる論文を書いたのは、和辻のこうした質たちの悪い切り捨て的な言葉への抵抗でもあったであろう。そして「明治維新150年」の今もう一度この論文をとりあげたのは、多元的世界と国家の成立をめぐって梅岩心学を読み直す意味があると考えてである。そのことについては改めて論じたい。
[1]春台は『経済録』巻十で「当代元禄以来、海内ノ元気衰タレバ、只今ノ世ハ万事止テ、偏ニ無為ヲ行フベキ時節也」(日本経済叢書・第6巻)といっている。
[2]『都鄙問答』をはじめとする梅岩の著作からの引用はすべて『石田梅岩全集』上下巻(柴田実編、清文堂出版、1956)所収のものによっている。
[3]『葉隠』の忠誠の構造については、丸山眞男『忠誠と反逆』(近代日本思想史講座第六巻)参照。
[5]和辻の「現代日本と町人根性」はもと雑誌『思想』の昭和7年4,5,6月号に上・中・下として発表されたものである。
[6]『続日本精神史研究』の序章をなす「日本精神」と題された文章は、昭和全体主義的国家日本の「精神史」の哲学的方法論として重要である。私は章を改めてこれを論じたいと思っている。
初出:「子安宣邦のブログ・思想史の仕事場からのメッセージ」2018.07.22より許可を得て転載
http://blog.livedoor.jp/nobukuni_koyasu/archives/76531057.html
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔study984:180723〕
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