73年の意味番外篇 敗戦直後のクスリ屋事情(3)
- 2018年 8月 27日
- カルチャー
- 内野光子
ヒロポンからハイミナールへ
「ヒロポンあるかい?」という常連の客をよく見かけたことを覚えている。オールバックの中年の男性で、マンドリンの演奏者だって、と聞いていた。お金周りがよく、お得意さんだったらしい。ヒロポン(大日本製薬)は疲労回復、眠気覚ましに効くとして、くすり屋でも普通に売られていた。これはあとから知ったのだが、特攻隊員が出撃の時にも服用していた覚せい剤の一種で、米軍でも使用されていたという。中枢神経を冒されて中毒になり、敗戦後の日本にかなりの中毒者が蔓延していたらしい。1951年の覚せい剤取締法で「劇薬」に指定されている。平たい箱にアンプルが交互に並んでいた包装でなかったか。また、同じころ、麻黄を原料とする「エフェドリン」が風邪薬や喘息薬として売られていたが、興奮剤としても使用されていたことは、父や兄たちから聞いていた。現在では、スポーツ選手のドーピング検査の対象であり、ダイエットの薬にもなっていて、2014年6月からは、一人ひと箱しか買えないことになっているという。
それにしても、風邪薬や催眠剤ブロバリン(日本新薬)、グレラン(グレラン製薬⇒あすか製薬)など、精神安定剤アトラキシン(第一製薬)などの市販薬が、口コミで合法ドラッグのように使用される時代がやってきたのだ。
なお、強烈な印象として残っているのは、1950年代後半の「ハイミナール」(エーザイ)である。催眠剤として市販されていて、よく売れる薬の一つだったのだが、しばらくすると、若者たちの間で合法ドラッグとして流行しだしてしまったのだ。店では、青少年には売ることはしなかったようだが、一人サラリーマンらしい青年が、眠れないと言って、よく買いに来ていたのは知っていた。あまりに度重なるので、ほかの薬に変えた方がよいと言って売らなかったり、品切れと言ったりして断ると、しばらく姿を見せなくなった。ところが、私の通学路でもあった、池袋のガード近くの山手線のフェンスにしがみついて、ふらふらしている彼に出会って驚いた。朝から、あんな状態では、仕事もできないだろう。中毒症状というのか禁断症状というのか、目の当たりにして恐ろしかったのを覚えている。うちの店に来なくなってからは、他所のあちこちの店で、買いあさっていたのだろう。薬の恐ろしさ、くすり屋の責任みたいなものを感じたのだった。手軽なシンナーが若者の間で横行するのは、さらに、時代は下っての1960年代後半のことで、1972年8月「毒物及び劇物取締法」の改正で、使用、販売等が規制されることになる。
なお、このシリーズ執筆中に、以下、二つのホームページを知った。北多摩薬剤師会によるホームページの「昔こんなくすりがありました」「今は昔 売薬歴史シリーズ」は、私の記憶を呼び覚ましてくれ、内藤記念くすり博物館では、「人と薬のあゆみ」が楽しませてくれる。
・おくすり博物館
http://www.tpa-kitatama.jp/museum/index.html
・内藤記念くすり博物館
http://www.eisai.co.jp/museum/index.html
初出:「内野光子のブログ」2018.08.25より許可を得て転載
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔culture0683:180827〕
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