暑苦しかったスポーツ界の夏
- 2018年 9月 14日
- 評論・紹介・意見
- スポーツ阿部治平
――八ヶ岳山麓から(266)――
夏のはじめ、女子レスリング強化本部長栄和人氏らが斯界の逸材伊調馨選手のトレーニングの場所と機会を奪ったという告発があった。すったもんだのあげく加害者栄氏は辞め、協会理事を解任された。だがその任命責任や彼の監督責任は問われず、いまだレスリング協会から根本的なパワハラ防止策は発表されていない。
次いで日大アメリカンフットボールチームの反則事件。反則を犯した選手自らが勇気をもって反則行為をやらせたのは、内田正人監督とコーチであることを明らかにした。日大では内田監督が田中栄寿理事長につぐ地位にあり、学長が権威権限のない実態が明らかにされて、問題は大学運営そのものにあると捉えられた。最終責任を問われた田中理事長は逃げ回り、いまだ日大問題は解決していない。
次いで日本ボクシング連盟の山根明会長の不正かつ恣意的運営が告発された。おぞましい事実を列挙した告発状が日本オリンピック委員会・文科省スポーツ庁など関係方面に送られた。山根氏は常軌を逸した発言をくりかえし、疑惑を認めないまま辞任した。彼に追随していた理事もやめたようだが、新体制が問題を克服できるだろうか。
ここに共通するのは、スポーツ組織の個人への権力の過度の集中、私物化である。いいかえれば直接暴力であれ職権であれ、なんらかの威嚇をともなう家父長的支配である。それかあらぬかテレビに現れた一部スポーツ組織の指導者の立ち居ふるまいは、まるで闇社会幹部そのものであった(ボクシングの山根会長は暴力団との交際、日大田中理事長は暴力団幹部と一緒の写真が暴露されている)。
彼らはいったん得た権力にしがみつく。平気でうそをつく。追詰められると責任を部下や他人に転嫁する。親分子分関係から逃れようとするメンバーや選手を敵視する。かくして日大職員組合のような正論には、マスメディアさえも権力者からの「報復」を予想しなければならない「惨状」である。
そして一部のスポーツマンはボスに拝跪し、その意向を忖度し、支配の維持に貢献している。そのことでなにがしかの利益を得られるからであろう。――安倍一強政権下の、政界官界の歴史に残る不祥事と同じ構造である。
ところがことはこれで終りにならなかった。
8月末女子体操のリオ五輪代表宮川紗江選手(18)が、日本体操協会の塚原千恵子女子強化本部長とその夫である塚原光男副会長からパワーハラスメントを受けたとしてメディアに訴えたのである。夫妻ともオリンピック選手、光男氏は金メダリストである。
続いて、日本体育大陸上部の渡辺正昭駅伝監督が部員への暴言や暴力などを繰り返し、自宅待機を命じられたというニュースがあった。もともと高校駅伝指導者だったが、暴力事件によってクビになった人である。
ここまで来ると、日本スポーツ界では指導者の能力がいちじるしく低いことを感じる。彼らはスポーツ関連の学問即ちスポーツ科学を系統的に学んだことがない。そのためにチーム・選手の育成や当該スポーツについての大局の見通しを持てない。だから暴力と威嚇によるほか手がないのである。
こうした大局観のない愚劣なコーチは、目先のゲーム(競技・試合)だけに力を集中する。勝つためにしばしば選手を使い潰す。大学も高校もこういう人物をコーチにしてはいけないのに、コネやゲームの勝利数だけで採用する。
現役の高校教師時代「我々も殴られながら強くなったのだ。だから……」というスポーツ指導者の発言をしばしば聞いた。娘が監督にしばしば殴られ、あげく鼓膜が破れた母親の嘆きも聞いた。「問題にしましょう」という私に、母親は「おおやけにしないでほしい。娘はそのスポーツが好きだから」といった。こうして中学高校の部活動からオリンピック選手クラスまで、元来被害者である生徒・選手が指導者の暴力をやすやすと受入れている。
彼らが指導者になったとき、また同じ愚行をくりかえすと思うと背筋が寒くなる。
酷暑の夏、暗いスポーツ界唯一の清涼剤は高校野球だったとお考えの方もおいでだろう。メディアは好成績を残した秋田の金足農高を持上げ、技能の突出した吉田投手を「ドラフト一位」などと評価し、毎年ながらお定まりの美談を作った。
甲子園をプロ野球選手養成所、それへの登竜門とすれば、これで結構かもしれない。だが、スポーツ系部活動は学校の中にあるとはいえ、教育の一環とすれば、それからかけ離れた存在である。いや選手養成の手段としても、その実態はスポーツ本来の姿にふさわしいとはいえない。
楽しかるべき中学高校の部活動には、(おそらく大学も)指導者の暴力・暴言、上級生の下級生に対する絶対的君臨、さらには恐喝・喫煙・飲酒などの問題行動がつきまとう。社会で犯罪とされる非行が半公然と行われるのである。威嚇と恐怖によって、多くの生徒・学生が部活動をやめる。そのなかにはかなり多くの有望な選手がいただろうに。
だが非行は学校あげて隠蔽されることが多い。ばれれば出場停止、悪くすれば部の閉鎖になりかねないからである。これを内部告発しようものなら教師は強制転勤、生徒は徹底したいじめに遭うかもしれない。甲子園を主催する「朝日」「毎日」に良心があるなら、ぜひ部活動を取材し問題を提起してもらいたいのだが、どうだろうか(元高校教師としては選手の学力を問題にしたいが、ここではひとまず置いておく)。
私はスポーツ界ボスの威嚇による組織の私物化、コーチの暴力による指導は、彼らが少年時代にうけた暴力による指導に由来するところが大きいと感じる。現代スポーツ科学はそれをとっくに過去のものとしているのに、日本ではそれが主流なのである。
いまや遠い記憶とはいえ、帝国軍隊に由来する暴力支配と、1964年東京オリンピックの「鬼の大松」のスパルタ式トレーニングは継承すべきものではなかった。前世紀のうちに根本的に検討・断絶されて然るべきであった。それがないものだから、愚劣な指導者の繰返しのビンタで自殺者を出すありさまなのに、教訓は少しも生かされず、暴力的指導を今日あらためて問題としなければならない。
日本オリンピック委員会や文科省スポーツ局など監督責任者は、さすがに暴力を否定するが、事態への対応は鈍感・無責任と思えるくらい遅い。家父長的支配や暴力的指導なるものが、犯罪性・事件性をもつことすらわかっていないかもしれない。オリンピックを控えて、スポーツ指導者の質の向上は緊急に必要だが、それへの準備もないようだ。
これは関係者の常識が国際的レベルからかけ離れているところにあるからである。2020年を考えると、当事者のつくる「第三者委員会」などに任せている時間はないはずだ。これでスポーツマンシップにもとづくオリンピックなどやれるのかしらん?
(本ブログの拙稿「これではスポーツから暴力はなくならない」(八ヶ岳山麓から125)、「青年の教養が向上しない本当の理由について」(八ヶ岳山麓から226)を参照してください)。 (2018・09・12)
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