樹木希林の「戦争ドキュメンタリー」 ― ユーモラスな女優の胸底にあるもの ―
- 2018年 9月 29日
- 評論・紹介・意見
- 半澤健市戦争
《『戦後70年 樹木希林ドキュメンタリーの旅』》
2015年秋に「東海テレビ」(東海テレビ放送株式会社・名古屋本社)は、『戦後70年 樹木希林ドキュメンタリーの旅』という番組を放映した。1本約90分、6本の大作である。各回、全国地方局が放映したドキュメンタリーから希林とスタッフが選択した1本の全編を放映し、番組テーマに関わる場所を希林が訪れ、毎回異なるゲストと対談する。この三要素が一体となった重厚な番組である。
『戦後70年 樹木希林ドキュメンタリーの旅』は、6本に共通するタイトルであり、個々の番組には選択された元の「ドキュメンタリー」名がついている。各番組のタイトル、そのテーマ、希林が訪ねた場所、対談ゲストを挙げると次の通りである。
1.『父の国 母の国』・満蒙開拓農民・満蒙開拓記念館・笑福亭鶴瓶(タレント)
2.『母の肖像』・長崎被爆者・長崎原爆資料館・箭内道彦(東京芸大准教授)
3.『村と戦争』・農村と戦争・靖国神社・吉岡忍(ジャーナリスト)
4.『明日は自由主義者が一人この世から去って行きます』・航空特攻・知覧特攻記念館・
青木理(ジャーナリスト)
5.『いくさのかけら』・学徒出陣・無言館・岡野弘彦(歌人)
6.『むかし むかし この島で』・沖縄地上戦・平和の礎・鈴木敏夫(映画プロデューサー)
《私は偶然に見たのであるが》
私は、樹木希林(きき・きりん、1943~2018)をよく知らなかった。変わった芸能人程度の認識だった。今夏、私は「日本映画専門チャンネル」で上記のうち、『村と戦争』(1995年制作、戦後50年記念)と『いくさのかけら』(2005年制作、戦後60年記念)をみる機会があった。
岐阜県加茂郡東白川村が舞台である。戦争が村にどのように押し寄せたのか。909人が出征し203人が戦死したこの農村で、戦後50年も経ってから戦争遺品を集めた「平和記念館」がなぜ、どのように建設されたか。そのなかで出征家族にどんな葛藤があったのか。真珠湾雷撃の戦果を伝える手紙が虚偽と分かった遺族の懊悩はどうだったのか。
ある日記がある。「お母さん。お母さん。お母さんのおとなしい息子だった僕は人を殺し火を放つおそろしい戦場の兵士となりました」、「妹よ。戦争をお前に語りたくない」。1937年に日中戦争で戦死した青年はこう書いた。このように庶民と戦争との沢山の関わりが痛切に浮かび上がる。
《歌人岡野弘彦は今をどう見ているのか》
『いくさのかけら』では、2013年に行われた歌人岡野弘彦(おかの・ひろひこ、1924~)と希林の会話が意味深い。二人は旧知であった。
1943年、國學院大での学徒出陣式で学長、配属将校は「天皇のために死んでこい」と訓示をした。そのあと教授折口信夫(おりくち・しのぶ、1887~1953)が立った。「國學院千人の学徒の一人でも帰って来て欲しい。そうすれば国学は滅びない」と述べた。そして「手の本をすててたたかふ身にしみて恋しかるらし学問の道」と詠んだ。そのとき講堂には、うめきのような声が起こったという。岡野は、1945年の再評価、70年間の平和の意味、地球温暖などの人類的な危機、性急な改憲論への警戒感を述べている。
希林は長野県上田の無言館を訪れる。戦没画学生の遺品700点の展示館である。希林は展示画をみて回り、言葉にならぬ嘆息をもらし、裸婦像を観て「ずいぶん大胆に描かれている」という。展示絵画を「見つめることしかできない」「残念を胸に抱えて死んでいくのかなあ」「見ておいてよかった」と呟いてまわる。生涯最後の作品になると思って描いた画学生の心情がテレビ画面からも訴えてくる。
《ジャーナリストと靖国・天皇制を語る》
希林は靖国神社に今まで時々参拝してきた。今回(2015年)の取材で、遊就館も含めて、神社側から詳しい説明を受けた。相撲場、鎮霊社、神池庭園、喫煙所などの存在に素直に驚いている。
兜町の日本ペンクラブを訪ねて吉岡忍と対話する。靖国神社の存在理由や、天皇制と靖国・鎮魂の関係を話し合う。二人は靖国の存在を肯定する。今のような不定形な存在こそが自然なあり方だと、逆説的に肯定理由を述べる。多様性を認めぬ社会風潮がひたひたと押し寄せていると語り合う。『村と戦争』の兵隊検査で「せめて乙種合格を」と望んだ青年は合格して「これで近所付き合いができる」と言った。その言葉に吉岡は強く反応する。こういう「空気」が本当に「恐ろしい」という。
希林の関心はどこに向かってきたのか。
私が2本のドキュメンタリーから読み取ったのは次の三つである。
一つ。樹木希林は、家族から国家までの様々な共同体の在りように関心をもつ。
特に国家の行う戦争について。
二つ。樹木希林は、人々のナショナリズムの心情に関心をもつ。ナショナリズムは戦後左翼
が敬遠した視点であった。
三つ。樹木希林は、日本社会の同調圧力に関心をもつ。彼女は、最近社会の雰囲気が窮屈な
状況へ近づいているという意見に同意している。
総じて彼女は、考え方の多様性と他者への寛容が大切だと考えている。
《歴史に向き合った女優を伝えよ》
それを日常語でユーモラスに語った。本心は「韜晦」だったと思う。何がそういう希林を生んだのかは分からない。しなやかな感受性と鋭敏な時代感覚をもつ俳優を失ったのは損失である。どこの局でもいい。『戦後70年 樹木希林ドキュメンタリーの旅』を放映してもらいたい。(2018/09/26)
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