強権が自ら踏みにじる「依法治国」 ――大興区事件に見る習近平政治(下)
- 2018年 10月 6日
- 評論・紹介・意見
- 中国田畑光永
新・管見中国(44)
―昨秋の北京では―
大興区事件の政治的意味を考えるについては、まず昨秋という時期が問題である。
昨2017年秋は中国共産党の第19回大会が10月に開かれ、総書記2期目に入った習近平は「一強体制」をさらに固めて、言うところの「中國の特色を持つ社会主義が新時代に入った」ことを高らかに謳いあげた。その直後の事件であった。
この前後、首都の北京に課された任務は「煤改気」(石炭を天然ガスに代える)、「打拆広告招牌、保衛天際線」(ビル広告をやめて、空と建物の接線を美しく)、そして「清理外来人口」(流入人口の整理)であったとされる。
現に「煤改気」政策として、石炭ボイラーの使用禁止、天然ガスへの切り替えが通達された。しかし、設備の切り替えが間に合わなかった学校では、寒さをしのぐため授業を陽の当たる戸外で行ったり、子供たちが暖を取るために校庭を走り回ったり、といった事例が報道されて社会問題にもなった。
しかも、設備切り替えが間に合わなければ厳寒期も暖房なしで過ごさなければならなくなるため、12月に中央政府から石炭暖房を認める通達が出て、事実上取りやめとなった。
広告については、11月27日に北京市が「街の看板撤去の大号令」を出し、「12月末までに2万7000枚にのぼる基準違反の広告を取り外し、空とビルの美しい境界線を北京に取り戻せーー」(18・1・28『日経』)、となった。
これも取り外した跡が却って見苦しいとか、目印がなくなって道が分からなくなったとかの苦情が重なって、12月上旬には撤去の暫定停止が通達された。(17・12・11『新京報』)
この2つが難航、頓挫している一方で、「清理外来人口」はさらに難しい課題だった。北京市の常住人口は2016年で2172万人。このうち地方出身者、いわゆる「外来人口」は807万人とされるが、さらにこの中に含まれない外来人口も相当数いると推測されている。
今、中国では北京の南西80キロほどのところに「雄安新区」と名付けられた新都市を建設中で、いずれはそちらにこれまで北京が担ってきた多くの機能を移し、北京には首都としての機能だけを残したいと計画している。しかし、現実には工業やサービス業の末端を担う労働者(差別的に「低端人口」とも呼ばれる)の北京流入が続いている。それを何とか防いで、首都の野放図な膨張を押しとどめたいというのが当局の意向だが、人口流入を抑制する決め手はない。
そういう状況の中で、昨年5月に北京市のトップについた蔡奇は、「北京の出稼ぎ労働者居住区を『キャベツの葉をむくように』取り除くと誓った」(前掲『フィナンシャル・タイムス』17・11・29『日経』)とも報道された。習近平との特別の関係で破格の昇進を果たして、首都の北京に落下傘降下した立場としては、この難問を鮮やかに処理して、北京の幹部たちに「さすが」と言わせたい衝動に駆られていたことであろう。
「北京市は大興区の火災の前から違法建築を理由に、出稼ぎ労働者や外国人が開いた飲食店や小売店を相次いで閉鎖してきた。2017年1~6月の営業停止や閉店は計2万店という。衣類などの卸売市場も郊外に移した」(『日経』17・12・3)という報道もあった。
そういう時期に問題の火事は起きたのだった。蔡奇にすればすわこそチャンス到来と勢いこんで、一気に「外来人口」の「清理」に大ナタを振るったのであろう。
―依法治国はいずこ―
そこでの第1の問題は法的妥当性である。行政当局の手によって何万という住人を立ち退かせるとなれば、法律に基づく相応の手続きを経なければならないはずである。前掲記事ではそれ以前に「出稼ぎ労働者や外国人が開いた飲食店や小売店」を閉鎖したのは「違法建築を理由に」とあるから、それはそれで一応の理屈は通っている。しかし、大興区の場合は「理由」が示されたとか通告されたという話は伝えられていない。突然、家屋の取り壊しが始まったと住民たちは話している。
確かに違法建築から火を出して多くの犠牲者を出した行為は処罰されて当然である。しかし、それなら違法建築を調査して取り締まるのが筋ではないか。法律違反なしに、暮らしたり、営業したりしている人々を違法建築と一連托生、露頭に迷わせるというのはどういう発想だろうか。
いくら共産党独裁の国柄とはいえ、習近平政権は「依法治国」(法に依って国を治める)をしきりに強調している。法治国家なら公権力の行使にあたっては、その法的根拠を明らかにするのは当然の前提であるはずだが、それが行われた形跡はない。
これほどあからさまな法律無視の権力行使が行われたとなると、すでに消滅したはずの伝統的な法思想がよみがえったのではないのか、と思えてくる。
はるか昔に読んだ中国の法についての本の一節を思い出して、探してみた。
――さて、中國では既に述べたように古くから(法が)制定されていたにもかかわらず、いつも現実離れが甚だしかった。しかも中国ほど法の軽蔑が久しく行われたところはない。法が人民管理支配の手段であり、上から又はよそから与えられただけで人民が自らを守るものとならず、しかも支配者は自己の都合でその埒をこえる限り、人民にとって法の軽蔑はいつまでも続く筈である。しかも法をあいまいにしておくことは、専制的支配にとってもまた却って都合のよいことであった。( )内は引用者――仁井田 陞『中國法制史 増訂版』51頁(1952年岩波全書)
中華人民共和国成立3年後の出版であるから、「東洋社会における法の軽蔑意識」という小見出しに続くこの記述は歴史における法についてであるが、過去の遺物であるはずの法軽視が「依法治国」のかけ声の響く中で、権力によって堂々と復活したことになる。
横道にそれるが、709事件として知られる、2015年7月9日を中心に全国で人権派弁護士や人権活動家が一斉に拘束された事件があった。その数は300人近くに達し、規模の大きさでは類を見ない大がかりな人権擁護運動に対する抑圧だった。その後、これまでに一部の人々は裁判で有罪判決を受けて服役し、また一部の人々は罪を認めた上で釈放となった。さらに一部の人たちは家族、弁護士の接見さえも認められず、消息不明の状態が続いている。この人たちは罪を認めないために、当局は家族にも会わせず何が何でも「自供」に追い込もうとしていると見られている。
この事件で適用された罪名は圧倒的に国家政権転覆陰謀罪であり、明らかに政治的弾圧であるが、ともかく形の上では法律違反を犯した容疑で逮捕され、司法手続きを経て処分が決まったことになっている。
つまり709事件そのものは政治権力による国民に対する大規模な威嚇であるのだが、形式的には「依法治国」からはみ出さないように気を使っていることは分かる。しかし、それから2年半後の大興区の強制立ち退きでは権力の意思がむき出しのまま、適法な行政措置というベールをかぶることなしに、庶民の生活を破壊したわけである。共産党大会を経て「一強体制」を固めた習近平政権の変質、皇帝型統治への復活と言っていいのではないか。
―外見ファースト―
ところで、この出稼ぎ住民強制立ち退きが石炭ボイラー使用禁止、ビル広告撤去とともに行われたことも、習近平政治の特質を表している。いずれもとくに緊急に解決を迫られている課題というわけではなく、言ってみれば首都の見た目、外見に関わる問題である。
2014年11月にアジア・太平洋経済協力会議(APEC)の年次総会が北京で開かれた。当時、北京の空が秋から冬にかけて連日スモッグに覆われることが世界的な話題になっていたが、総会が開かれている間、北京の空はきれいに晴れ上がって人々を驚かせた。中国政府が北京市、天津市、河北省の工場の操業をきびしく制限して、排気ガスを抑え、スモッグを人為的に消したのである。人々はその晴天を「APEC藍天 (APEC BLUE)」と呼んだ。
また2016年9月には主要20か国・地域首脳会議(G20)が浙江省の杭州市で開かれた。この時は市内の交通をきびしく規制したばかりでなく、市民になるべく旅行に出かけるように呼びかけて、市内人口を減らし、静かな杭州市を演出した。
いずれも習近平本人の指示によるものという証拠はないが、少なくとも「そんな一時的に外見を取り繕うようなことはよせ」とも言わなかったことは確かだろう。むしろ外見を気にする彼の性格を下の人間が知っているからこそ、そういう見え透いた弥縫策が繰り返し行われたのだ。流行りの言い方を用いれば「外見ファースト」の政治である。
昨秋の北京もそうだ。党大会で一強体制を固め、「習近平新時代」などという、大げさなキャッチフレーズを掲げた以上、首都は「習近平新時代」にふさわしく美しくなければならぬというのが、習近平とその周辺の人間たちにとって当然の政策課題となったのではあるまいか。
日本の江戸幕府第5代将軍、徳川綱吉は自らが戌年生まれであることから、「生類憐みの令」を出して、犬を過度に保護したことで「犬公方」と呼ばれたが、大きな権力を手にした人間が身の周りを自分におもねる人間で固めた時に、後から見れば、「なんであんなことが」と思うようなことが起こる。
大興区の強制取壊し現場は前述したように、高いコンクリート塀に囲まれ、取り壊しの跡は緑色の網に覆われている。ということは、今さらながら、命令した人間にしてもむき出しの破壊現場を人目から隠したいという気持ちに駆られているのであろうし、同時に跡地をどうするという計画もないままの破壊であったことを物語っている。
昔を持ち出せば笑われることを承知で言えば、私が北京に駐在していた40年前は、中国が文化大革命の深い傷を癒しながら改革・開放へと踏み出した時期であった。新聞や雑誌の大きなテーマはなぜ毛沢東崇拝が文革での大規模な破壊や殺傷をもたらすに至ったか、であった。個人崇拝を反省、批判する沢山の小説や論文が書かれた。
40年という歳月は、人々にあの痛切な反省、自戒を忘れさせるに十分なほどに長く、その間に伝統に根ざした独裁権力が復活するための土壌がととのったのだろうか。完
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