10/27(土)世界資本主義フォーラム「ラテンアメリカ諸国の歴史的植民地経験をどうとらえるか」講師:高橋均 元東大教授
- 2018年 10月 23日
- スタディルーム
- ラテンアメリカ・カリブ地域史、元東京大学教授高橋 均
- 主催 世界資本主義フォーラム
- 日時 2018年10月27日(土) 午後2時~5時 (1時半受付開始)
- 会場 文京区立湯島地域活動センター 洋室B
*以下は、2018年10月27日世界資本主義フォーラムにて報告を予定しているものです[文末にフォーラムの案内]。
ラテンアメリカ諸国の政治経済の特性を、他の地域との比較において把握することを目的とする。すなわち「ラテンアメリカとは何であるか、ではなく「何でないか」と考えてみる。とくにその歴史的植民地経験の性格に重点をおく。
今日のラテンアメリカはいわゆる「中進国」地域とされているが、その意味を明確にするために有用なのは、イギリス人経済学者ポール・コリアー(Collier)の著書『最底辺の10億人』(2007年)である。コリアーは、現代世界で、住民の貧困を改善するために積極的な国際協力が必要なのは、世界人口72億のうち最底辺の10億人が住む58ヵ国だけだとする。そしてこれら諸国が経済成長できない原因として四つの「罠」を挙げる。紛争の罠(the Conflict Trap)、天然資源の罠(the Natural Resource Trap)、困った隣国に陸封されている(Landlocked with Bad Neighbors)、小国における悪いガバナンス(Bad Governance in a Small Country)。
ところがこの基準にラテンアメリカ諸国のうち該当するのはボリビア、ガイアナ、ハイチだけである。とすれば、ラテンアメリカ主要国を特徴づけるのはこの四つの「罠」の不在だ、ということができる。外戦も内戦もなく、天然資源はあるがそれに足を取られず、例外はあるが外洋に面し、例外はあるがそこそこの大きさの国である。この状況をもたらしたのは何か。
アジアNIESの場合、その「中進国」としての地位をもたらしたのは目下の「後発性の利益」である。ラテンアメリカの場合それは「過去の蓄積」である。それは主として、いわゆる「ベルエポック」、すなわち第一次世界大戦前の十数年間、国際金本位制による決済が円滑に行われた最後の時代にめざましい経済成長を遂げたことによる。
植民地の類型として、昔から社会科学関連の百科事典の”colonization”の項目などで出てくるのは、「定住植民地(settlement colony)」と「搾取植民地exploitation colony」(ないし「行政植民地(administration colony)」)の二種類である。
以前私は中央公論新社『世界の歴史18』で、スペインのラテンアメリカ植民地はその中間型だ、と論じたことがある。定住植民地には宗主国民が大挙して移住し、水平方向へ先住民を排除していく。行政植民地では宗主国民は管理者だけが赴任し、てっぺんにいる現地人エリートに取って代わって、垂直方向に(上から下へ)管理する。植民地の「独立」の意味も全く別である。
ラテンアメリカでは、先住民は排除されず垂直的管理の下に置かれたが、同様に相当数のスペイン人もまた移住した。その意味でそれは「定住植民地」と「行政植民地」の中間に位置する「中間型」であり、「独立」の意味もまた「中間型」であった。
しかし最近になって私の考えは変わった。ラテンアメリカの歴史的植民地経験の性格は、「中間型」ではなく、圧倒的に「定住植民地」寄りだと考えるようになった。
ひとつには「定住植民地」と「行政植民地」は、同時代に並行的に存在したものではなく、時代が全く違うからである。そしてラテンアメリカの植民地時代(16~18世紀)は明確に前者に属する。
1825年という早い時点で脱植民地化を遂げたことにより、ラテンアメリカ諸国はパクス・ブリタニカの傘の下に入り、安全保障上の課題をほとんど負うことなく、時間をかけて国内体制を固めることができた。
その結果として、アジア・アフリカ諸国の「行政植民地化」が進んでいた「帝国主義時代」を、ラテンアメリカは政治が安定した独立国として迎えることができ、今日の「中進国」の地位を支える蓄積を積むことができた。
さらに、ラテンアメリカ植民地へのスペイン人・ポルトガル人の移住のあり方も、「定住植民地」により類似したものであった。
「移民の世界史」というものを構想したとき、「巣分かれ・広域帝国・国民国家」という三時代区分を考えることができる。
「巣分かれ」の時代、強い社会は「巣分かれ」集団を出して他の集団のテリトリーに侵入して奪い、「巣分かれ」集団はそこでもとの集団を複製する。追い出された方の集団はもうひとつ下位の集団のテリトリーを奪う。最後に、限界地にいた集団は死滅する。
「広域帝国」は制圧した集団を追い立てず、政治的服従と経済資源の供出を求める。支配民族はのちの「行政植民地」の場合のように少数の管理者のみが現地に移住し、被支配民族の間には、いずれの民族にも属さないディアスポラ少数者集団が移住してきて中間管理の役目を果たす。
「国民国家」は、この中間管理者を「国民化」しようとするプロジェクトである。「広域帝国」が分裂して国民国家になるときには、領域内でそれまで中間管理の役目を果たしていたディアスポラ少数者集団を排除する「アンミキシング(unmixing)」の過程を伴う。「巣分かれ」の時代のような血塗られた移住が新しい文脈のもとで再演されるのである。
さて、ヨーロッパ諸国によるアメリカ大陸の「発見」は、これら諸国が「国民国家」プロジェクトをかなり進めていた時点で起こった。しかも先住民はヨーロッパ諸国民に対して疫学的に脆弱であり、「広域帝国」方式で先住民を搾取することは問題外であった。このため、いわばそこでは最初の時代の「巣分かれ」が再演された。すなわち、植民者は宗主国政府の「広域帝国」的な管理をうけることなく、ただただ連鎖移民原理によって大量に移住し、イギリス、フランス、ポルトガルは、それぞれ植民地に国民国家を自己複製した。「巣分かれ」であるから時期が来ればそれらはあっさりと独立を遂げた。
以上のような枠組みを立てると、スペイン領植民地の場合はどうであったか、という問題が立ち上がってくる。そこで「国民国家の自己複製」面を代表するのは、いわゆる「征服者」の活動のベンチャービジネス的性格であった。スペイン国王からは「総督」の辞令をもらうだけで、「征服者」たちは独力で仲間を集め資金を出し合って征服遠征を行い、首尾よくそれが達成されれば「総督」権限で現地に都市を建設し、エンコミエンダ(先住民の村を征服参加者個々人の領地として与える)を分配して植民を進めた。それはスペイン本国の「国土再征服(レコンキスタ)」の継続であった。
半面、イギリス等々に比べれば「広域帝国」的側面も確かに無視できなかった。コルテスやピサロなど「征服者総督」は早々に排除され、「副王」を始めとする官僚が派遣されて実権を握る。かれらのもとに各地に大規模な司法行政機構が設置され、「インディアス法令集成」にまとめられた膨大な数の法令が植民地を規制する。ラスカサス主義の援護のもとエンコミエンダの廃止が志向され、先住民社会を都市のスペイン人社会とは隔絶した空間として別個に支配しようとする。先住民をことごとくキリスト教に改宗させ、カトリック教会を先住民統制の協力者とする。ペルーのクスコを中心にインカ人支配層が存置される。移住と貿易を許認可制として貴金属を本国に吸い出す、など。
20世紀のラテンアメリカ研究では、いわゆる「黒い伝説」への対抗上、16世紀「スペイン・ルネサンス」の近代性を強調する立場から、こういう面が非常に強調された(ラスカサス研究など)。しかし植民地の現実を全体としてみるならば、スペイン植民地においても本筋はやはり「国民国家の自己複製」なのであった。先住民は空間的にではなくとも社会的・文化的に周縁化され、たとえ植民地人口の過半数を占めていても、植民地社会のメインストリームに関与しようとするならば文化変容を遂げた中間管理者「混血者(メスティーソ)」に加わるしかなかった。この点からして、スペイン領のメキシコやペルーもまた、単に時代の問題だけではなく、構造的にも「定住植民地」の一変種だと言える、と私は考える。
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*最寄り駅は同じですが、いつもの場所(本郷会館)ではありません。文京総合体育館内の中の会議室です。
文京区本郷七丁目1番2号 文京総合体育館内 電話03-3813-6554
地下鉄 本郷3丁目下車 歩いて5分~8分(地図をご覧ください)
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〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://chikyuza.net/
〔study996:181023〕
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